今年も、夏の甲子園が始まりましたね。

 

私が小さかったころは

 

甲子園に出場できるのは、1県1代表ではなくて

 

三岐(さんぎ)大会というのが行われてました。

 

「岐阜短大付属のエース湯口」といえば

 

当時の子供たちのヒーローでした。

 

1970年の、春夏の甲子園を沸かせ、

 

ドラフト1位で巨人に入団。

 

背番号は19で、期待の高さがわかります。

 

(ちなみに、その時の18は堀内恒夫、

沢村栄治の14と川上哲治の16は、永久欠番)

 

しかし、これは、悲劇の始まりでした。

 

あの湯口は、どうなっているんだろう、

 

と思ったころ、

 

彼の急逝が報じられました。

 

自殺説もありましたが、

 

彼が精神疾患に罹患していたことを

 

うかがわせるエピソードも

 

伝えられました。

 

私は、子供ごころに、

 

とても悲しかったし、

 

巨人への怒りを

 

感じました。

 

(中尾二軍監督が彼を殴ったのは事実のようです。)

 

 

「湯口敏彦事件」で検索すると

 

いろいろ出てきますが、

 

とても書く気もちには、なれません。

 

 

夏の甲子園の時期になると、

 

1970年、真夏の1等星のように輝き、

 

はかなく消えていった

 

若者がいたことを、

 

思い出します。

 

湯口敏彦。

 

あなたの名前を忘れることは、

 

ありません。