2013年11月
どうもです。
今週はバイクとは関係ない話題。
11/13(水)の夜の事。
家でウサギと遊んでいたら電話が掛かってきました。
電話の主は実家のオフクロ。
オヤジが脳梗塞で倒れ、集中治療室に入って入院したとのこと。
オヤジは10年くらい前にも脳梗塞になっているのですが、今回は調子が悪いそう。
iPhoneでチケット大黒屋にアクセスして11/15(金)のチケットを手配しました。
11/14(木)は会社に行って、仕事をして休暇を取る旨、伝えました。
夜に帰りの航空券の申し込みをしたら、決済の前に日にちを間違えてる事に気付く。
11/17(日)の申し込みをしたつもりが、確認メールをみたら11/18(月)のチケットになってました。
慌てて、訂正のメールをいれましたが、営業時間外なので音沙汰なし。
11/15(金)に電車で羽田空港へ。
移動中に大黒屋からメールが入り、帰りは11/17(日)の便に変更しましとの事。
一安心。
10:45発の飛行機に乗り北海道に到着。
JRの中で帰りの便の決済を済まし、新札幌でオフクロの車にのり実家に向かいました。
途中で、新札幌の味の時計台でラーメンを食いました。
好きなんだよね。昔から。
一回家に帰ってからオヤジの入院している病院へ。
集中治療室にいるので、面会時間は15:00から17:00の間と決められており、入れるのは一度に3名なので、少しの間、ロビーで待ちました。
順番が来て集中治療室に入ります。手をアルコールで除菌し、マスクを付けて白衣を着ました。
オヤジは手足をベッドに括り付けられ、腹巻の親分みたない拘束帯で胴体も固定されています。
オヤジが苦しそうに唸っているので、左手を解いてやりました。ホントはダメなんだろうけど。
会話をすると、私が来た事はわかった様ですが、とても苦しそう。
解いた左手で顔を拭い、なんども「イヤィイヤィイヤァ」と、「まいったでや」という感じで声を出します。
しかし、脳梗塞の影響で声が言葉になりません。
声をかけると、こちらから言っている事に対し、苦しそうに顔を歪めながら頷きます。
どうやら、こちらの言う事は解っているようでした。
しかし、発する言葉は何を言っているのかが解らない状態。ろれつが全然まわっていない。
でも、丁寧に言おうとしているので、よく聞いてみると。
「おまえは、いい嫁をもらった」と聞こえました。
「今日は、俺ひとりだけだよ。今度、正月にでも連れてくるよ」と答えたら、どうも違うみたい。
「おまえには、いい夢を見させてもらった」というのが正しかった様です。
私は小学生の頃、野球で結構良い結果を残していたので。
そして「俺も頑張ったけど、父さんも一緒にがんばったからねぇ」。(オヤジは、俺の野球に夢中になり、仕事そっちのけで俺の野球を見にきている間にコーチになっていました)と言ったら、
大声で泣き出しました。オヤジが泣いているのを初めてみました。
そして時間になり、面会は終わりました。
なんとも、寂しい気持ちになりました。最後の言葉を掛けられた様な気がしたんです。
この日、オフクロが「東京から息子がくるから、お医者さんに一緒に話しを聞きたい」と前もって頼んでいたのですが、医者は急遽手術が入って話せなくなりました。
でも、東京からきた私の姿をみて看護師さんが、「ちょっと待ってて下さい」と言って、もう一回話してくれ、翌日(11/16(土))の10:30から話ができる事になりました。土日は面会には応じないところを、せっかく東京からきたので、応じてくれたみたい。
「東京からきた」という言葉は大きな威力を持つ様です。
11/16(土)に、医者と話すために病院に行きました。
医者は、MRIの画像をみなせてくれながら、丁寧に説明してくれました。
オヤジの体がベッドに固定されていて、そこまでする必要があるのか疑問に思っていたのですが、医者の説明を受けて、ヤバさ加減がわかりました。
固定するのも止む無し。命を守るのが第一という事の様です。
(詳しい話は割愛します)
そして家に帰り、オフクロと話をしたのですが、もう現実を受け止めた。という感じ。
親戚に電話をし、容態を連絡しました。
そうこうしていると、ずっと連絡がとれなかった中国にいる兄貴から電話が入りました。
電話しながらパソコンで航空券の手配をし、次の日(11/17)に帰って来る事になりました。
その後も遺影はどうするとか、葬式はどんな風にやるべきかなんて話にもなりました。
私がせっかく北海道にきたからジンギスカンでも食いに行こうとしていたのですが、
親戚が留守で、折り返し電話がかかってくるかもしれないし、アメリカにいる妹からも電話がかかってくる事もあり、家で長沼ジンギスカンをフライパンで焼いて食いました。
その夜は、眠れなくって、枕元にオヤジが現れるんじゃないかと思いましたね。
11/17(日)は、私が横浜に帰ります。
その前に、面会は出来ないのを承知で病院に行きました。集中治療室はナースステーションとつながっているので、ナースステーションのガラス越しに集中治療室の中が見えるのです。
運よく、カーテンは開かれていて、親父を見ることが出来ました。
右半身の麻痺を心配していたのですが、11/15(金)には動かさなかった右足を動かし、ひざを立てたり伸ばしたりしていました。
そして、看護師の人が布団を治すと、穏やかな表情で礼を言っている様子でした。
救われましたね、その光景に。
出てきた看護師に聞いてみると「今日はよくなっている様です」との事。
すこしホッとして、病院を後にして千歳空港に向かいました。
千歳では、中国から帰国する兄貴と落ち合い、ターミナルビルの蕎麦屋で飯を食いながら、私が面会した時の様子や、医者に言われた事を伝達しました。
そして、兄貴に任せて私は戻ってきました。
羽田からは嫁と子供達に向かえに来てもらったので、鶴見のビックリドンキーで飯を食いながら状況説明。
帰り道にセブンイレブンによって駐車場に並べている時に、兄貴から電話。
今日の面会では、随分、表情も穏やかになり、こちらのいっている事も大分わかっている様子とのこと。
さらにホッとしました。
でも、相変わらず出血と、再梗塞のリスクはあるので、油断はできず集中治療室に居続ける事でしょう。
このまま、なにも無く経過してくれればと、願っています。
車で行き来できるところではなく、頻繁に見舞いに行けないし、離れて暮らしているとダメですね。
New Arrowさんは正しい。実家に通える長男のあなたは偉い。
私の兄弟なんか、兄貴は中国、私は横浜、妹なんかアラスカですよ。
わかっていた事ですけど、親の死に目に会えない可能性が高し、親父の介護をどうするかとか、問題です。
まあ、取りあえず、オヤジの障害が最小限に済むことを願っています。
いや、その前に容態が悪化して死なない事を願うのが先か。
今週はバイクとは関係ない話題。
11/13(水)の夜の事。
家でウサギと遊んでいたら電話が掛かってきました。
電話の主は実家のオフクロ。
オヤジが脳梗塞で倒れ、集中治療室に入って入院したとのこと。
オヤジは10年くらい前にも脳梗塞になっているのですが、今回は調子が悪いそう。
iPhoneでチケット大黒屋にアクセスして11/15(金)のチケットを手配しました。
11/14(木)は会社に行って、仕事をして休暇を取る旨、伝えました。
夜に帰りの航空券の申し込みをしたら、決済の前に日にちを間違えてる事に気付く。
11/17(日)の申し込みをしたつもりが、確認メールをみたら11/18(月)のチケットになってました。
慌てて、訂正のメールをいれましたが、営業時間外なので音沙汰なし。
11/15(金)に電車で羽田空港へ。
移動中に大黒屋からメールが入り、帰りは11/17(日)の便に変更しましとの事。
一安心。
10:45発の飛行機に乗り北海道に到着。
JRの中で帰りの便の決済を済まし、新札幌でオフクロの車にのり実家に向かいました。
途中で、新札幌の味の時計台でラーメンを食いました。
好きなんだよね。昔から。
一回家に帰ってからオヤジの入院している病院へ。
集中治療室にいるので、面会時間は15:00から17:00の間と決められており、入れるのは一度に3名なので、少しの間、ロビーで待ちました。
順番が来て集中治療室に入ります。手をアルコールで除菌し、マスクを付けて白衣を着ました。
オヤジは手足をベッドに括り付けられ、腹巻の親分みたない拘束帯で胴体も固定されています。
オヤジが苦しそうに唸っているので、左手を解いてやりました。ホントはダメなんだろうけど。
会話をすると、私が来た事はわかった様ですが、とても苦しそう。
解いた左手で顔を拭い、なんども「イヤィイヤィイヤァ」と、「まいったでや」という感じで声を出します。
しかし、脳梗塞の影響で声が言葉になりません。
声をかけると、こちらから言っている事に対し、苦しそうに顔を歪めながら頷きます。
どうやら、こちらの言う事は解っているようでした。
しかし、発する言葉は何を言っているのかが解らない状態。ろれつが全然まわっていない。
でも、丁寧に言おうとしているので、よく聞いてみると。
「おまえは、いい嫁をもらった」と聞こえました。
「今日は、俺ひとりだけだよ。今度、正月にでも連れてくるよ」と答えたら、どうも違うみたい。
「おまえには、いい夢を見させてもらった」というのが正しかった様です。
私は小学生の頃、野球で結構良い結果を残していたので。
そして「俺も頑張ったけど、父さんも一緒にがんばったからねぇ」。(オヤジは、俺の野球に夢中になり、仕事そっちのけで俺の野球を見にきている間にコーチになっていました)と言ったら、
大声で泣き出しました。オヤジが泣いているのを初めてみました。
そして時間になり、面会は終わりました。
なんとも、寂しい気持ちになりました。最後の言葉を掛けられた様な気がしたんです。
この日、オフクロが「東京から息子がくるから、お医者さんに一緒に話しを聞きたい」と前もって頼んでいたのですが、医者は急遽手術が入って話せなくなりました。
でも、東京からきた私の姿をみて看護師さんが、「ちょっと待ってて下さい」と言って、もう一回話してくれ、翌日(11/16(土))の10:30から話ができる事になりました。土日は面会には応じないところを、せっかく東京からきたので、応じてくれたみたい。
「東京からきた」という言葉は大きな威力を持つ様です。
11/16(土)に、医者と話すために病院に行きました。
医者は、MRIの画像をみなせてくれながら、丁寧に説明してくれました。
オヤジの体がベッドに固定されていて、そこまでする必要があるのか疑問に思っていたのですが、医者の説明を受けて、ヤバさ加減がわかりました。
固定するのも止む無し。命を守るのが第一という事の様です。
(詳しい話は割愛します)
そして家に帰り、オフクロと話をしたのですが、もう現実を受け止めた。という感じ。
親戚に電話をし、容態を連絡しました。
そうこうしていると、ずっと連絡がとれなかった中国にいる兄貴から電話が入りました。
電話しながらパソコンで航空券の手配をし、次の日(11/17)に帰って来る事になりました。
その後も遺影はどうするとか、葬式はどんな風にやるべきかなんて話にもなりました。
私がせっかく北海道にきたからジンギスカンでも食いに行こうとしていたのですが、
親戚が留守で、折り返し電話がかかってくるかもしれないし、アメリカにいる妹からも電話がかかってくる事もあり、家で長沼ジンギスカンをフライパンで焼いて食いました。
その夜は、眠れなくって、枕元にオヤジが現れるんじゃないかと思いましたね。
11/17(日)は、私が横浜に帰ります。
その前に、面会は出来ないのを承知で病院に行きました。集中治療室はナースステーションとつながっているので、ナースステーションのガラス越しに集中治療室の中が見えるのです。
運よく、カーテンは開かれていて、親父を見ることが出来ました。
右半身の麻痺を心配していたのですが、11/15(金)には動かさなかった右足を動かし、ひざを立てたり伸ばしたりしていました。
そして、看護師の人が布団を治すと、穏やかな表情で礼を言っている様子でした。
救われましたね、その光景に。
出てきた看護師に聞いてみると「今日はよくなっている様です」との事。
すこしホッとして、病院を後にして千歳空港に向かいました。
千歳では、中国から帰国する兄貴と落ち合い、ターミナルビルの蕎麦屋で飯を食いながら、私が面会した時の様子や、医者に言われた事を伝達しました。
そして、兄貴に任せて私は戻ってきました。
羽田からは嫁と子供達に向かえに来てもらったので、鶴見のビックリドンキーで飯を食いながら状況説明。
帰り道にセブンイレブンによって駐車場に並べている時に、兄貴から電話。
今日の面会では、随分、表情も穏やかになり、こちらのいっている事も大分わかっている様子とのこと。
さらにホッとしました。
でも、相変わらず出血と、再梗塞のリスクはあるので、油断はできず集中治療室に居続ける事でしょう。
このまま、なにも無く経過してくれればと、願っています。
車で行き来できるところではなく、頻繁に見舞いに行けないし、離れて暮らしているとダメですね。
New Arrowさんは正しい。実家に通える長男のあなたは偉い。
私の兄弟なんか、兄貴は中国、私は横浜、妹なんかアラスカですよ。
わかっていた事ですけど、親の死に目に会えない可能性が高し、親父の介護をどうするかとか、問題です。
まあ、取りあえず、オヤジの障害が最小限に済むことを願っています。
いや、その前に容態が悪化して死なない事を願うのが先か。