F1が好きなシゲオだけどその下のカテゴリーF3000も好きでした。
現在のスーパーフォーミュラの前身のカテゴリーになりますね。
全日本F3000が87年から95年まで開催され、96年からフォーミュラーニッポンに変更され現在のスーパーフォーミュラになっています。
当時はバブル景気真っただ中だったので参加チームも多く毎レース30台以上のマシンがエントリー。
今では考えられませんが、予選A・B組に分けて予選落ちも5,6台は当たり前でした。
それがF3も同じ状況だったので競争は熾烈でしたね。
80年代後半のレースにレイトンハウスは欠かせません。
マシンは量産コンストラクターのローラやレイナード、マーチの他にラルト、日本の童夢、ムーンクラフトが参戦。
エンジンはほぼ無限の独占状態でしたが、名門ヒーローズレーシングはフォードの名器DFVを使ったりしていました。
F1並みにタイヤ戦争もあり、ブリジストン、ダンロップ、横浜の3社が争っていました。
レイトンハウスが抜けてますが91年の参加マシン一覧。
上から童夢、ローラ、レイナードにラルト。
童夢は自チームのみの使用、F2時代は主流だったラルトはマシン開発の失敗もあり年々シェアが縮小し数台の参戦。
基本的に全日本はローラ対レイナードの対決の構図でしたね。
ハーバートやアーバイン、フレンツェン、サロといった後にF1でレギュラーを張る外国人ドライバーは全日本F3000で鍛えられたといっても過言ではないでしょう。
ミニF1と言ってもレベルの高さでした。
あのシューマッハもF1参戦前に1戦だけスポットで参戦して2位を獲得したのは今や伝説と言ってもいいのかも。
当時はまだ極東の島国のレースと思われ、国際F3000よりも下に見られていましたが分かる人は分かっていたんでしょうね。
F1参戦の勉強の為に参戦したそうです。
しかもそのレースが菅生だったのが仙台市民のシゲオには何とも言えないですね
フットワークカラーがバブルを彷彿させるのは気のせいかな
フットワークは全日本、国際F3000両方に出走し鈴木亜久里や片山右京、ヒルがドライブしていました。
国産の童夢も参戦し94年にはタイトルも獲得しています。
97年のF1参戦が叶わなかったのが惜しまれます
全日本F3000を象徴するマシンと言えばキャビンカラーのローラ。
そしてドライバーは日本一速い男星野一義じゃないかなとシゲオは思います。
ローラのT90/50がシゲオは一番好きだったな~
片山右京もF1に進出する前年はキャビンカラーのローラDFVを駆りタイトルを獲得しています。
マシンも一時期レイナードが優勢かと思われた事もありましたが、セッティングの難しさもあり安定せずローラが常にシェアを獲得していましたね。
ドライバーもバラエティ豊富で先に挙げたアーバインやハーバート、フレンツェン、サロ以外にもエディ・チーバーやマウロ・マルティニ、アピチェラ等の実力派外国人、F1経験のあるリースやエルグといった経験豊富な外国人も参戦。
日本人のF1を狙う若手の他に、俳優や歯科医など個性的なドライバーも参戦していました。
歯科医をしながら参戦していた清水正智や俳優の岩城滉一も参戦していましたね。
歯科医だけあってリカルデントが常にスポンサーだった清水正智。
常にショッキングピンクのマシンだったのがイイな~
1980年に免許を取りすぐレースを始め10年でF3000まで到達したのが、芸能人のコネやお金があったにしろ凄いのでは
今ならジェントルマンドライバーって言われるのかな
今でこそF1へのステップアップはチームがアカデミーを作り才能ある若者を10代から囲っていたり様々ですが、80年代から90年代はF3からF3000へステップアップし活躍するのが最短のルートだと考えられていました。
国際F3000で走るのがF1を狙うための最短の位置だと考えられていましたね。
ヨーロッパ各国のF3を勝ち抜いてきた若者達が集結していました。
当時は国際F3000も盛況で常時30台近くが参戦。
国際F3000はマシンとエンジンは選べましたが、タイヤはエイボンのワンメイク。
しかもラジアルが主流になりつつある中でバイアスタイヤを使用していました。
後にF1に進出するポール・スチュワートレーシングのローラ。
ラバッツカラーのローラがカッコいい
国際F3000でもマルボロとキャメルのタバコ戦争は行われていました。
キャメルカラーのマシンと言えばF1でも活躍したエディ・ジョーダン・レーシング。
アレジやアーバイン、フレンツェンが所属していました。
89年はアレジの年と言っても良かったですね。
F3000ではチャンピオンを獲得し、シーズン途中にデビューしたF1ではいきなりの4位入賞。
次代のスターの誕生でした。
キャメルカラーのマシンはシゲオはかなり好きですね~
全日本ではローラが優勢でしたが、国際ではレイナードが優勢だった印象です。
マルボロも負けじとマルボロカラーのマシンを出走させていました。
フランスのDAMSというチームのメインスポンサーになっていました。
マクラーレンと思ってしまうカラーリングです。
2002年にトヨタで遅咲きのF1デビューを果たしたマクニッシュでしたが、90年代初めは期待の若手の一人でした。
かなり期待されていていつF1デビューするのかと思われていたのですが、その後低迷してしまい、デビューがまさか2002年になるとは当時は誰一人予想できなかったと思います。
当時はマクラーレンのテストドライバーも務めていたはずです。
マクニッシュのチームメイトで90年のDAMSのエースで見事チャンピオンを獲得したコマス。
F1では目立った成績は残せませんでしたが、F3000では圧倒的でした。
国際F3000のマシンは結構独特なカラーリングのマシンが多かった印象です。
80年代後半積極的にモータースポーツに参戦していたQ8オイル。
クエートの企業だったと思いますが、湾岸戦争後は全く見る事が無くなってしまいました。
今は2輪のスズキのスポンサーらしいです。
91年からF1に進出したバン・デポールも90年のF3000ではトップコンテンダーの一人でした。
実力はあったと思いますが、選んだチームが悪くF1ではパッとした成績が残せませんでしたね。
96年のF1ワールドチャンピオンのヒルも国際F3000を走っていましたが、フットワークに乗ったりしてチャンピオン争いするまで行かずあまりパッとした成績を残せていませんでした。
F3000は4シーズン近く走っていて燻っていたヒルですが、人生何がどう転ぶか分からないものですね。
この画像は91年だと思いますが、5年後にはF1のワールドチャンピオンになるなんて本人も予想できなかったのでは
91年のチャンピオンがクリスチャン・フィッティパルディ。
92年からミナルディでF1デビューしますが、チームが悪かったのかあまり目立った成績を残せずF1から去ってしまいます。
このあたりから国際F3000チャンピオンはF1では大成しない説が出てきたような気がしますね。
85年がダナー、カペリ、モデナ、モレノ、アレジ、コマス、フィッティパルディ、バドエルが92年で93年以降はパッと浮かんでこない・・・・。
F1で優勝したのはアレジのみ。
瞬間的に活躍したのはカペリやモデナ、モレノぐらいですかね~。
90年代中頃になると国際F3000よりも全日本の方へF1関係者の目が向くようになりました。