こんばんは。都議の栗下です。
前回は、70年代ゲーム黎明期に起こったアーケードゲームにおける規制について書きました。
今日は「規制」の側面は少し少なめになりますが、家庭用ゲームを本格的に普及させた任天堂のファミリーコンピューター誕生以前の経緯について触れていきたいと思います。
■任天堂ゲームウオッチの大ヒット
1980年4月28日にゲーム&ウォッチ、通称ゲームウオッチが任天堂から発売されると社会の注目はそちらに移り、アーケードゲーム規制議論は俄かに沈静化したようです。
ゲームウオッチは国内1287万個、国外3053万個、合計4340万個を売り上げました。2020年3月時点でNintendo Switchが全世界で約5500万台ですから、流通も発達していない昭和の時代としては驚異的な数字だったことがわかります。
それまで任天堂といえば京都で花札やトランプ、かるたの製造をしている企業でしたが、時代の流れも受けてメダルゲーム機やビデオゲーム機も製造していました。当時の経営状態は決して良いわけではなく70億円の借金を抱えていましたが、ゲームウオッチのヒットで借金を完済してもなお40億円の黒字が出たそうです。
■「ATARI アタリ」が作った世界初のカートリッジ型ゲーム機
ご存知の通り、ファミコンはカートリッジ式ですが、そのベースを作ったのは今なおゲーム界の伝説と言われるアメリカのアタリ社です。
ゲームウオッチ発売の少し前の1976年、アタリ社創業者のノーラン・ブッシュネル氏は資金難からワーナーに全株式を売却。その後、反転攻勢のためにVideo Computer System(VCS)という世界初のカセット差し込み型のゲーム機を開発します。後継機が発売された後はアタリ2600と改称されました。
このアタリ2600は全米でブームになり、様々なソフトが発売されました。
余談にはなりますが、あのスティーブ・ジョブズもアタリで働いた時代がありました。ジョブズはインド放浪の旅費を稼ぐため、1974年に入社します。アタリ社の前で「雇ってくれるまで帰らない」と座り込みをしたところ、創業者に気に入られて入社したのだとか・・。
■アタリショックが日本にもたらしたもの
1977年にアメリカでアタリ2600が発売された後、日本ではインベーダーが大流行し社会現象に。
その少し前の1976年頃、アタリブームを目の当たりにした任天堂はアタリのライバル社コレコビジョンと契約し、任天堂のゲーム機を発売しようと考えていましたが上手くいかず断念。
任天堂はアタリのゲーム機を研究し、試行錯誤を経たのちに1983年にファミリーコンピューター(ファミコン)を発売し空前の大ヒットとなりました。
同じ頃アメリカでは、アタリ製ゲームの売れ行きに陰りが見えていました。ゲーム関連市場はアタリに追随するように競合他社も多数のゲームソフトを発売します。
ゲーム市場の急速な拡大に伴い、ゲーム未開発のペットフードやシリアルの会社までも参入してきたことでゲームソフトの質が低下。まともに作れる技術者がおらず、いわゆるクソゲーが氾濫することに・・。
加えてゲームに対して否定的な社会の空気が醸成され、その頃発売の始まったパソコンも追い討ちをかけることになりました。
この頃、「大学を目指すならゲーム機よりパソコンを買い与えるべき」といった広告に代表されるように低価格ファミリー向けパソコンとの競争も生まれ、米国ゲーム市場は低迷、相対的に日本が躍進することとなります。
粗製濫造のゲーム氾濫が祟り、ハードの売り上げも不振に。これが引き金となり83年にはアタリも倒産してしまいます。これは通称「アタリショック」Video game crash of 1983 と呼ばれています。
1983年は、アタリが消滅し、ファミコンが生まれたゲーム業界においてはまさに運命の分岐点となった年となりました。ちなみに、本当にどうでもいいですが、私も83年生まれです。
このアタリショックを境に任天堂が全米でもファミコンをヒットさせ、日本が世界のゲーム市場の先頭を走ることになります。
今回、規制議論についてあまり触れていませんが、あえて1回を消費してお伝えしたかったのは、日本が世界の最先端になったことによる規制への影響です。
文化発信国のルールは文化が伝播していく側の国々における基準にも大きな影響を与えるのですが、ことこの「ゲーム」においては、日本が世界でも先頭を走ることになったために、ゲームとの向き合い方についても常に先頭での試行錯誤が必要だったという特殊な点があります。
次回は、皆さんも馴染みの深いファミコン発売後の規制議論についてお伝えしたいと思います。