こんばんは。都議の栗下です。

東京都政における表現の自由問題で避けては通れない「青少年健全育成審議会」ですが、今年秋に運用についての検討が予定されています。


運用の見直しは2年に一回の出来事。この機会を十分に活かすためにも都政における表現規制問題を今一度振り返ってみたいと思います。


■赤本ブームとマンガ批判の高まり (1950〜)

終戦直後の1948年〜1950年は赤本文化の絶頂期と言われています。赤本とは漫画や講談が載った書籍。赤系統の色が好んで使われたため赤本と呼ばれたそうです。


47年に手塚治虫の新宝島が発売され、40〜80万部を売り出し、全国的なブームとなりました。今は10万部売れればベストセラー、まだ流通も十分に確立していないこの時代には信じられない数字です。

 

 


しかし子ども達に大きな影響を与えるようになったことで、大人達が批判的な目を向けはじめます。当時の週刊朝日には「1番おそろしいのは、漫画本を通じて小供が無意識のうちに犯罪の手口を覚え込むということだ。」という記述が残っています。

「こんなの読んで、小どもが真似したらどうするんだ!」

驚くべきことに、70年前も現在も漫画に対する表現規制の本質は変わらないということでしょうか


■悪書追放運動の本格化(1954〜)

赤本ブームで漫画が爆発的に普及したことによって、児童保護者の危機感は高まっていきます。
54年には警察の関連団体である「母の会」が子ども達に有害な本を「見ない・買わない・読まない」3ない運動を提唱し、それらの本を集め燃やすというパフォーマンスが広がっていきます。「悪書追放大会」では約6万冊の本が焼かれたとされています。

 

 

当時、どんな本が“有害”とされていたのでしょうか。

現代と同じく「わいせつ」とされるものもありますが、それに加えて人命軽視、軍国主義的発想、侵略思想などについて指摘する書籍が残っています。戦争終結から10年と経っていない中で、これらの問題については我々には想像もつかない程センシティブであったことが伺い知れます。

ちなみに、当時はマンガのジャンルも今程多彩ではなく、多くは冒険活劇ものであったといいます。ある一冊の雑誌の中で日本刀の絵が282本、ピストルが40丁出てきたという記録が残っているほど。視覚的に保護者に与えた不安も大きかったのではないかと思います。


■悪いマンガをなくす会(1955〜)

高まる批判にマンガ作家たちも動きました。55年4月、主要な少年児童雑誌社と「悪いマンガをなくす会」を開きます。当時すでに人気漫画家だった手塚治虫を筆頭に行われた議論の経緯が残っていますが、作家からしても世の中に粗悪なマンガが溢れているという認識が示されています。まだマンガ家がそれほどいなかったために、「需要に対して供給が追いつかず、質の低い作家に仕事が行ってしまう」「忙しすぎて内容の良し悪しを気にしている余裕がない」など、作り手側の率直な意見が述べられています。

作家と出版社が結束して批判とはっきり向かい合う構図がこの時作られたことは重要なことです。

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自分のまだ生まれていない時代については、イマジネーションをかき立てられますね。
明日は、青少年条例の成り立ちについて書きたいと思います。

続く。