騒ぎが収まり静けさが戻った部屋に暖々の嗚咽が微かに響いた。

「うぅ…」

柳愈と萬大顕二人の目が同時に暖々に注がれた。

「な、暖々…!」

「お嬢様!」

「…ご、ごめ…ごめんなさい…」

今の騒ぎに暖々は耐え切れずに涙を零した。

私のせいで折角愈君が心を込めて準備してくれたお食事の雰囲気がめちゃめちゃになってしまった。

暖々はそう思っていた。

柳愈は暖々に寄り添いその肩に手を掛けると顔を覗き込んだ。

「暖々、君のせいじゃない」

暖々の萎れた姿を見て萬大顕は頭から湯気を出し拳を握り締めた。

「うぬぬ…あいつめ!お嬢様!…今からアイツを捕らまえに行ってきます。こっ酷い目に遭わせてやります!」

「萬大顕さんやめて!」

暖々が慌てて遮って言った。

「…そんな事をしたら愈君だけじゃなくて…柳家やお父様にまで迷惑が掛かるわ…」

暖々の声は掠れていた。

萬大顕の眉が下がった。

相手は権力を傘に来た兵部尚書の嫡男だ。

どんな意趣返しをされるか分からない。

「うっ…確かに…申し訳ありません、お嬢様」

萬大顕は悔しげに拳を降ろした。

柳愈は彼女を椅子に落ち着かせると振り向いた。

「萬大顕、ありがとう…君が来てくれて助かったよ。お嬢様の事は私に任せてくれないか?」

「柳公子、、無論です…下がります」

萬大顕は縮こまって頭を下げると静かに部屋を出て行った。

扉が閉じられる音がすると愈は腰を落として俯いている暖々の頰の涙を彼の指で拭った。

「暖々」

「うぅ…ごめんなさい…私があんな人と口をきかなければ愈君にこんな嫌な思いをさせずに済んだのに…」

「馬鹿だな暖々、いいかい?君は何も悪くない…分かってるよ。一方的にあいつが近付いて来たんだろ」

「そ…それはそうだけど…でもやっぱり…ぐす…愈君にご迷惑を掛けました…」

すっかり項垂れている暖々に柳愈の口元が綻んだ。

理不尽にも自分の責任でもないのにあの悪党のせいで小さな子供のように怯えて。

思った事がつい口をついて出た。

「可愛いな…君は」

泣いている彼女に不適切だったろうか。

さてどうやって彼女を慰めようか。

愈は暖々の額にかかった乱れた髪を梳いてやった。


窓の外はすっかり名残りの日が落ちて夕闇に色とりどりの灯籠が一層映えている。

彼の瞳は灯火を映したかのように途方もなく優しい色を湛えていた。

俯いた暖々の頰を右の掌で包み込むと彼は暖々の上にゆっくり腰を屈めた。

彼の視線は彼女の牡丹のような唇の上をしばし彷徨っていたが躊躇いを捨てて額を傾げるとそっと自分の唇を重ね合わせた。

驚いて目を見開いた彼女の睫毛が瞼を掠める。


彼女の目に映った愈の瞼は軽く閉じられていた。

急速に心が落ち着いて来て暖々は感じ入っていた。

愈君…目を瞑ったらこんなお顔なんだ…綺麗だわ


花びらのように柔らかく温かく潤った感触。

先ほど彼女の流した涙の塩っぱさ。

薄く刷いた白粉の香りが鼻腔をくすぐる。

頰の産毛の柔らかさを指でなぞる。


彼の口づけは触れたかと思うと離れ離れたかと思うと触れて啄む。

彼女が怯えないように親鳥が雛に与えるように

愈は細心の注意を払って内心の激しさを抑えた。


胸が高鳴り

泣いていた事も夢の中の出来事のよう。

気が遠くなりそうになり

そう長い時が経った気がする。

暖々は自分が息を止めている事に気付かなかった。


愈が唇を離してこの上もなく優しく微笑んだ。

「暖々、息をするんだ」

「は…愈君、わたし…」

どちらからともなく笑顔になって二人は額を突き合わせた。

気が付けば青白い月が二人を見守るようにぽっかりと中空に浮かんでいた。


料理屋を出てそぞろ歩いていると愈も暖々も自分達の足取りが驚くほど軽いのを感じた。


繁華な大通りを少し外れたところまで来た時だ。

「あれ…君のご両親じゃないか?」

愈が指す方角を見れば彼方の太鼓橋の頂点に居る二人連れは紛れもなく徐侯爵とその夫人だった。

二つの影はひとつになって寄り添い頰と頰が近付いてゆく。


「あっ!」

暖々は慌てて愈の顔を両手で挟み込んで視線を遮った。

「愈君!見ちゃダメ」

ダメと言われても

愈の目は今の光景をしっかり捉えていた。

見なくたって

永平侯爵夫妻の仲の良さは都中に知れ渡っている。

「どうして…ご夫婦なんだから…」

暖々は羞じらっていた。

「よ…ヨソのお宅と違ってウチは特殊なの…家の両親は何時でも何処でもアレで…」

「何時でも何処でも」

「そう…」

赤くなって俯いている暖々を愈が真顔でじっと見詰めた。

「暖々、恥ずかしがるような事か?」

「え…?」

「君を娶ったら、僕も君のご両親を見習おうと思う」


暖々は一歩下がった。

「愈君…マジですか……」