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西山別院に誘ったのは十一娘だけれど

忙しい合間を縫ってさあ行こうと熱心だったのは令宣の方だった。

令宣は骨休めと言ったけれど十一娘には目論見があった。

西山別院に眠る大量の古い反物の在庫をどうにか利用したいとかねてより考えていたからだ。


嫁いで来た時は主導権を喬蓮房に握られて思い通りにはならなかった。

けれどもう主母の役割を担って三年が経った。

今は誰憚ることなく大夫人に許しを得る事が出来る。

「無論お前の好きにして良いわ」

快く承知して貰えたが大夫人は不思議そうに尋ねた。

「それにしてもそんな古い物が役に立つのかい?」

「はい、良質の物は仙綾閣で生徒の練習用に使えますし、考えようで古手にも出番はあるかと思います」

「そのまま朽ちて虫が喰うより有効に使って貰えたら何よりだわ…」


…その為にも埃を払い虫干しやら準備の采配をしておかねば。


前触れもなしに突然訪れた主人夫妻にも現院番の李夫婦は慌てなかった。

熟年の夫婦はとうに年季が明けていたがまだまだ元気で徐邸で働きたいと申し出があり真面目な働きぶりを大夫人が認めて院番に取り立てていた。

別院の使用人達が全員ずらりと並んで令宣達を門前で出迎えた。

李は愛想良く腰を低くして言った。

「いつでもお泊まりになれるようお部屋の掃除は欠かした事がありません」

「ご苦労…」

仕事ぶりは合格だ。

令宣は十一娘と顔を見合わせて微笑んだ。

部屋に通った後

令宣達に付いてきた李院番が二人に断った。

「恐れながら…旦那様と若奥様に挨拶をしたいと申す者がおります…こっちへ」

院番の後ろから歳の頃は三十過ぎくらいの女が現れた。

下働きのお仕着せを着たその女は令宣達の前に進み出ると平身低頭した。

隣に三歳くらいの男の子を連れている。

「旦那様、若奥様…小梅と申します。この子は息子の亮と申します。この度は私達親子に情けを掛けて頂き誠に有り難うございます」

十一娘は微笑んだ。

「貴女なのね」

夫に裏切られ辛かったろう。

「…この別院の賄いとして雇ってくださらなかったら私達親子は露頭に迷っていました…」

「良いのよ…顔を上げて頂戴。それより此処にはもう慣れた?」

上げた顔を見て十一娘は驚いた。

濡羽色の髪を束ねた艶めいた顔立ちの美人だった。

なよやかな柳腰が優美な線を描き大抵の男なら手を差し伸べて支えてやりたいと思うだろう。

目は憂いを含んで潤んでいる。

十一娘の胸にムクムクと疑念が湧いた。

何故こんな妖艶な妻を夫は裏切ったのだろう。

あの浮気相手の女中はこの女の半分も色気がないのに。

「お陰様で皆様によくして頂いています」

そう言って李院番のほうをチラと振り返った。

李が彼女の前に出た。

「若奥様のお計らいです。この親子の事はお任せ下さい」

十一娘は鷹揚に頷いた。

「別院の事はあなた方にお任せします。宜しくね」

李は小梅を振り返った。

「さ、旦那様達はお疲れだ。下がろう…では私共は暫し失礼致します」

「あ、待って」

十一娘は呼び止めると落雁の入った小袋を子どもの手に持たせた。

親子は何度も礼を云うと頭を下げた。

李も一緒になって頭を下げると小梅の背を軽く押すようにして出ていった。


終始黙っていた令宣は三人の出て行った扉を見ながら口を開いた。

「院番は大層あの親子を気に掛けているようだな」

十一娘は

卓上に置かれた茶器に手を伸ばしながら言った。

「そうだといいんですけど…」

「なんだ?異議がありそうだな」

十一娘は頭を振った。

「いいえ、そうじゃありません…ただ」

「ん?ただ、何だ?」

「いえ、ちょっと邪推してしまいました」

令宣はそれ以上の追及をしなかった。

ただ黙って薄っすらと憂い顔の妻を見ていた。


その夜、湯浴みも済ませあとは寝るだけとなった頃、

十一娘はふと昼間に下見をしておいた反物倉庫の鍵を掛け忘れたのではないかと不安になった。

ひゅうひゅうと風が出て来た。

先ほどからあちこちガタガタと風に煽られる音がする。

火の気はないけれど倉庫の扉が開くのではないか。

風雨が入って反物が濡れないかと心配だ。

「旦那様、ちょっと見て来ます」

令宣が書付けから目を上げた。

「大丈夫か?風が強くなってきたぞ。私が行こう」

そう言って立ち上がろうとするのを十一娘は押し留めて笑った。

「大丈夫ですよ、これ位の風。お任せ下さい」

十一娘はにこっと笑うと鍵束を取り勇躍出て行った。

風で灯は用を為さないけれどまだ薄暮が遺っている。


夏の嵐は庭木の枝や葉を千切れよとばかりに揺さぶっていた。

激しい風に十一娘の洗い髪が縺れそうになる。

片手で髪を抑えながらようやく母屋裏手の倉庫の入り口にまで辿り着いた。

その途端、女の淫らな喘ぎ声が聴こえ十一娘の頭は真っ白になった。

「ああ…あ…ん…旦那ぁ…」

「旦那と呼ぶな…儂は院番だぞ…李様と呼べ…」

「あ…ん…李様ぁ」

「儂と懇ろにすればな…いつまでもお前を雇ってやるから安心しろ…シャオメイ…お前は綺麗だな…小梅…儂を頼っておればな…ハアハア…これからも可愛いがってやるぞ…こんな風にな…」

「ああん…李様あ…李様ぁ…」

睦言と淫靡な水音が交錯して聴こえ男女の交わりの真っ最中だと言うことが十一娘に伝わってくる。

はあはあと息遣いが荒くなり女のよがり声が一層高くなる。男女の絶頂は近付いている。

十一娘は早く此処を離れなければと焦るが足が縺れて云う事を効かない。

その時その暮明の中で

突然黒い影が背後に現れ十一娘の口を塞いだ。

「う、、旦那様、、!」

令宣は唇に指を当てた。

涙目になっている十一娘を令宣は横抱きに抱き上げると再び嵐の中を母屋に向かって歩き出した。


母屋の扉を後ろ手でぴしゃりと閉めると令宣は妻を寝台に降ろした。

十一娘は動悸と震えが収まらない。

「旦那様、、」

「白家職の言った通りだな」

十一娘は青白い顔で夫を見つめた。

夫は白家職から何を聞いたのだろうか?

「庭師が白状したのだ。あの女は淫乱な質で次々と夫を裏切り何人もの男と密通を繰り返していたそうだ。本家の女中はあの夫に同情してああ云う関係になったようだ…子どもも誰の子か分からないと話していたそうだ」

旦那様は知っていらしたのだ。

「旦那様…昼間、院番の様子がおかしかったのでもしやとは疑っていましたが…私何も分かっていませんでした」

令宣が肩を落としている十一娘の背中を優しく擦った。

「大丈夫か?」

「はい…」

「世の中には色んな人間が居る…全てを理解しようとするのは無理なのだ」

「旦那様…一体どうすれば…」

「明日、私が引導を渡そう。院番は今更辞めさせられない。時期を見て引退させる。…女はあの調子ならうちには置いておけない」

十一娘が訴えた。

「子どもが可哀想です…」

「心配するな。私が片を着ける」

令宣の力強い腕が十一娘の肩を抱いた。


翌朝、令宣が院番と話していると厨房の老婆が話しかけて来た。

「旦那様、院番さん、あのう…小梅と子どもが何処を探しても居ないんです。荷物もありません」

院番がガタリと椅子をひっくり返して立ち上がった。

「小梅!」


「旦那様、あの親子は何処へ行ったのでしょう」


帰りの馬車に揺られながら令宣が締めくくった。

「結局子どもと引き離されるかも知れないと勘付いて逃げたのだ…子どもに対しての気持ちだけは一途で本物だったらしい」