
弟子石林を伴った唐天師が再び福寿院を訪れたのは二日の後だった。
「大奥様、一昨日下見させて頂き弟子と検討致しました。あの東跨院の三棟のうち一番古い東棟が最も傷んでおり、一箇所雨漏りの跡も確認しました。この棟が一等初めに修復と改修が必要かと思われますのでそれから取り掛からせて頂きたいと思います。こちらが提案書と見積もり書です」
大夫人は書類を受け取ると老眼の目を細めて見入った。
「雨漏りかい…やはりねえ…人が住まないと家は荒れ果てるんだねえ…棟梁の事は信用している。この見積もりにも間違いはないだろう。早速棟梁の都合の良い日に普請を始めてくれれば助かるわ」
「左様ですか。承知致しました。それでは早速、早々に縁起の良い日から取り掛からせて頂きます」
「ああ、そうしておくれ…あ、それから今の主母は令宣の嫁の十一娘だ。これから長い付き合いになるから挨拶しておくと良いわ」
「はい、心得ました。今からご挨拶に伺います」
十一娘は二人の挨拶を受けてにっこりと微笑んだ。
「義母から聞いていました。これから暫くお世話になります」
「こちらこそ。それでは細かい工程についてはまた白家職にお伝えします」
「ご苦労様でした」
棟梁とその弟子は部屋を出てゆくと思いきや、弟子の石林が足を止めて十一娘を振り返り思い切った様子で尋ねた。
「若奥様…、先日お茶を運んでくれた翡翠と云う侍女はこちら西跨院の侍女でしょうか?」
十一娘は突然大工の口から翡翠の名前が出たのを訝しく思った。
「翡翠?いいえ、彼女は此処には居ないわ。…何故?」
石林は慌てた。
「あ、いえ、結構です」
くるりと後ろを向くと十一娘の追及を避けるようにあたふたと師匠の跡を追った。
工人らしい律儀で素朴な石林が慌てる様子に十一娘はある事を予感した。
彼女は大工二人の後ろ姿を暫く見つめていた。
十一娘は秦姨娘が亡くなってからずっと密かに翡翠を案じていた。
幾年月秦姨娘に仕えながら翡翠は彼女の真意を打ち明けて貰えなかった。
本来なら主人と奴婢は一蓮托生の筈が秦姨娘は翡翠を犯罪に加担させなかった。
翡翠は蚊帳の外に置かれた。
彼女を巻き込みたくなかったとも言えるし
恐らく翡翠は徐家を裏切れはしない。
秦姨娘はそう思ったのだろう。
秦姨娘に守られた反面、秦姨娘に手酷く裏切られたとも言えはしないか。
その心の傷を思うとあの素直で優しい気性の彼女が可哀想でならない。
東跨院に茶を届けに行った翡翠の心はまだ癒えてはいないのだろう。
「奥様、お呼びでしょうか?」
翡翠の表情は相変わらず控えめだ。
「東跨院の補修は唐殿にお願いする事になったわ」
翡翠は黙って頷いた。
何故自分が呼ばれたのか疑問が生じたのかも知れない。
「翡翠、工事のあいだ大工さん達のお世話をしてくれる?長年東跨院に居た貴女だから勝手が分かっているでしょう?」
翡翠はほっとしたように微笑み素直に頭を下げた。
「はい、承知しました」
「お願いね」
その後、東跨院が着工となって幾月かが過ぎた。
その日、十一娘が文机について仕事を片付けていると桔梗が石林の訪れを伝えた。
石林は胸板の厚い体躯を縮めて俯き加減で入って来ると突然彼女の前に跪いた。
「どうしたの!?立って頂戴」
「奥様、どうか私と翡翠の結婚をお許しください」
少し上げた顔は思い詰めていた。
「先ずは立って」
石林はゆっくりと立ち上がると尚も頭を下げた。
「翡翠は?」
「彼女は奥様に申し訳ないと…その次第は奥様がご承知だと…」
その短い言葉の中に十一娘は翡翠が何に苦しんで来たのかをやっと理解した。
翡翠は長年仕えた秦姨娘が徐家を裏切り若奥様の命までも危うくした事を自分の責任のように悔いているのだ。
秦姨娘が打ち明けなかったばかりに自分は徐家を苦しめたと思い込んでいる。
十一娘は小さく溜息をついた。
「石林さん、翡翠を呼んできて頂戴。この件は侯爵に相談して決めます。でもその前に翡翠は思い違いをしているわ。先ず彼女の誤解を解かないと」
「奥様、、」
「この件、私は翡翠の気持ち次第だと思っているの」
石林は感極まったような表情を浮かべた。
「奥様…ありがとうございます…翡翠を呼んで来ます」
「翡翠」
翡翠は石林よりも小さく縮こまっていた。
「翡翠、、随分誤解をしているようね」
翡翠は不安げな顔を上げた。
「えっ?」
「秦姨娘の事は貴女に何の責任もないわ。貴女も徐家と同様秦姨娘に欺かれたのよ。同時に徐家も秦姨娘に気の毒な事をしてしまった。…だからこの件はおあいこなの。彼女が徐家に対して犯した罪はもう償われている…貴女は新しい人生に踏み出せば良いのよ?」
「奥様…」
「貴女はどうなの?石林さんを好いているの?」
もし石林の片想いなら誤解を解いてやらねばならない。
翡翠はぽ〜っと頬を染めた。
「そ、それは…」
「石林さんを好きなのね?」
真っ赤になった翡翠の声は消え入りそうに小さかった。
「は…はい…」
十一娘は思った。
秦姨娘の最期の願いを。
平凡な普通の人に嫁いで可愛い子どもを沢山産みたい。
私はきっといい母さんになれる…。
天はその願いを翡翠に託したのかも知れない。
その夜、令宣は寝台に寝そべり鏡台の前で長い髪を梳く十一娘の話を聴いていた。
「ふむ、それで私に許可を?」
「はい、私はとても良い縁談だと思いますが旦那様はいかがですか?」
「返事を聞きたいか?」
十一娘はあらっと云う顔で振り向いた。
「無論です。旦那様は何かご異義がお有りですか?」
「お前次第だ」
「えっ?」
「さっきから待ってるのに其処から全然動かないじゃないか」
十一娘はわざとらしく睨んでみせた。
「旦那様?」
「早くこちらへ来い。そうしたら返事を聞かせてやる」
「もう〜…何なんですか〜」
今説明した事を聴いてないのかしら。
ぶらぶらと近づいて来た妻を令宣の腕がしっかりと捉えると待ち切れない夫の忙しない口づけでその夜は始まった。
