陛下巡幸の当日となった。

沿道は無論出発地点の皇宮を警護する者の緊張は高まった。

皇宮内は禁軍と錦衣衛が護る。

令宣は都督府の最高責任者として順天府や巡防営と連携して都全体の守りを担う。

交代で警護に着くとは言え、令宣は当分軍営に詰めて帰れなくなるだろう。


早朝、旦那様と朝食を頂いていると旦那様が仰った。

「十一娘、陛下の留守中都の安寧を脅かそうと言う連中が都に流入していると情報が入った。この事態が落ち着くまで表へは出るな。白家職に命じて屋敷の者には徹底しておく」

「旦那様、やはり軍営に詰めてしまわれるのですか?」

令宣は切ない目で妻の手を握った。

「警護態勢が落ち着くまでの間だ。こんな時に私とてお前を残してゆくのは不安だ」

十一娘は夫を心配させまいと健気に振舞った。

「いいえ、旦那様には都を護る大切なお役目があります。屋敷内の事はお任せ下さい…ただ旦那様のお身体が心配なのです…」

令宣は瞳を潤ませて心配してくれる妻がひたすらに可愛い。

「十一娘…照影を遣いに寄越すから心配するな…」

「旦那様、、」

それ以上何も言えず妻は夫の胸に身をもたせかけた。


旦那様は肩を抱いてよしよしと背中を撫でて下さった。

周りに人目が無ければ口づけをして慰めて下さった筈だ。

旦那様はこれから都の東門に他の文武百官と共に打ち揃い出立される陛下をお見送りしなければならない。

夫と照影の後ろ姿が正門から見えなくなると十一娘は福寿院の義母の元へ参じた。

「お義母様、旦那様のお言いつけを聞いて参りました」

「あぁ、十一娘来てくれたのかい…もう令宣は出掛けたの?」

「はい、先程お見送りしました」

「令宣も大変だ。陛下のお留守になるこの機に乗じて都を騒乱に陥れようとする輩が居るらしい…」

陛下巡幸中に錦衣衛兵精鋭の大半が随行するので宮中には都の市中の兵が動員される。市中の防衛線は自ずと手薄になりそれを狙った無頼の輩が跋扈する。


杜乳母がはたと気付いて大夫人に耳打ちした。

「まさか…令寛様はお出掛けになったりなさらないでしょうね」

「何だって?令宣が都の護りをしている最中に万一の事があれば令宣の足を引っ張る事になる…杜乳母、令寛達をお呼び!」

「はい大奥様」

杜乳母が合図をすると侍女が走って行った。

大夫人は十一娘にこぼした。

「あの子はねえ…芝居と来たら目がないからこういう時でも家を護らず芝居小屋に出掛けかねない」

十一娘が執り成した。

「お義母様、最近令寛殿も屋敷のお仕事を勤めてなさっておられて頼もしいです」

「そうかい?」

大夫人は十一娘の言葉を嬉しく思う反面、本気にするのは未だ早いと言う顔だ。

暫くすると丹陽県主がやって来た。

「令寛はどうしたんだい?」

丹陽は済まなさそうな顔で報告した。

「お義母様、夫は昨夜から出掛けてます」

「なに?何処へ行ったの?」

「江南から有名な一座が上京したとかで芝居仲間の公子達を連れて萬來胡洞へ…」

大夫人は頭を振った。

「病膏肓に入るね…あの子の芝居好きは。普段なら何も言わないが今は非常時だ。令宣が苦労して徐家を盛り立ててもこんな大事な時に何かあったらたちまち朝堂から引き摺り降ろされるのだからね…」

丹陽は眉を八の字にして謝った。

「申し訳ありません、お義母様。今から人をやって帰って来て貰います」

いつもは丹陽に優しい義母もこの時は不満を隠さなかった。

「丹陽、あの子に言い含めておくれ。いくら令宣に甲斐性があっても令宣一人じゃこの徐家を支えられないんだ…」

丹陽は小さくなった。

「はい…そうします」


萬來胡洞の芝居小屋「苹水館」では今しも人気の演し物である三国志演義に万雷の拍手が送られていた。

令寛と仲間の公子らは飲み物を片手に御満悦だった。

そこへ芝居小屋の亭主が現れて耳打ちした。

「徐様、お屋敷から伝言です。直ぐにお屋敷にお戻り下さい」

令寛は不機嫌そうに零した。

「何だって?今一番良いところなのに…」

令寛は不満を口にしながら渋々腰を上げた。

令寛が椅子を引き立ち上がったその拍子に背後に居たらしき男にぶつかってしまった。

「あ…失敬…」

言いかけた途端、令寛の上半身は円卓に突っ伏していた。

令寛も背が高い方だがその男は更に長身の大男だった。

男が強い力で押し返した為に令寛は円卓上に肘を付いて倒れたのだ。

茶器がガチャンと高い音をたてて転がる音がした。

「何をするんだ!」

「手前がぶつかって来たんだ。文句を云うな」

令寛の友人達が一斉に立ち上がった。

「おい!令寛が君子らしく謝罪したと言うのにいきなり暴力を振るうとは!」

「ふん…謝罪など俺の耳には聞こえなかったぞ」

公子達は口々に大男を詰り始めた。

「貴様!謝れ!」

「ほう…数を頼んで絡むとは君子が聞いて呆れる」

男は懐に手を入れ合口を出すふりまでして威嚇した。

芝居小屋の雰囲気は一変した。

小屋の主人が青い顔をして止めに入った。

「旦那様方!お止め下さい。ここは芝居小屋でございますよ!他のお客様にご迷惑が掛かります。どうか穏便に穏便に…」

元々喧嘩などする気の無かった令寛は素直に応じた。

「亭主、騒がせて済まなかったな」

大男はまたフンと捨て台詞を残し令寛達を睨みつけると肩を聳やかして去って行った。

令寛は独り言を言った。

「あいつ、この辺りで見掛けない顔だが…」

亭主が小声で令寛に囁いた。

「それもその筈でございますよ…あの方は…」

「ん?」

亭主は令寛の耳元に寄ると声を潜めた。

「…あの方は晋端王の侍衛でございますよ…晋端王が藩王に即位される以前はお忍びの若様に付いてよくあちこちの芝居小屋に来ていたので憶えております。当時から荒っぽいお方でした」

令寛は驚愕した。

「ご主人…今の話は他の者には内密にしてくれぬか」

亭主は心得たように頭を下げた。

「それはもう…私共も関わり合いになるのは御免でございますから…」

藩王が陛下の許可なく領地を離れる事は即ち謀反と言う事だ。

しかも今日は陛下巡幸の初日。

陛下が藩王を都に招き謀反の呼び水となる危険を冒すとは思えない。


令寛は仲間達に挨拶するとそそくさと芝居小屋を後にした。