「まあ…また巡察ですか?」
帰宅した令宣の官服を脱がせながら十一娘は声に多少の恨みがましさを込めた。
「二十日前に山崩れがあった時に行かれたばかりじゃありませんか…」
令宣は肌着だけの姿になった。
「仕方ないのだ。ここのところ西北地域で悪天候が続いている。各農村の状況を巡険して対策を講じておかなければまた災民が出ないとも限らない。それ故今回は陛下の勅令が降った」
「旦那様…お仕事なので仕方ありません。でもお身体が心配です。決してご無理だけはなさらないで下さいね」
令宣は普段着を着せ掛ける妻の手を安心させるように小さく叩いた。
「大丈夫だ。心配するな」
「それなら今日の夕食は特に滋養のある物を召し上がって頂きます」
「頼む」
令宣は妻を抱き寄せ顔を覗き込んだ。
「寂しいのか?」
十一娘は夫の胸元を指でなぞった。
「無論です…寂しいに決まってます」
令宣はたまらなく愛おしい妻の額に口づけをした。
「私もだ…」
令宣が順調であれば十日の日程を予定した公務のその留守を十一娘は守らなければならない。
令宣の帰還が明日と迫ったその日の早朝、目覚めるや十一娘は突然福寿院に呼ばれた。
「お義母さま、おはようございます」
「十一娘…朝早くに悪いな」
「何を仰いますか、丁度ご挨拶に伺うところでした」
十一娘は福寿院の雰囲気にすぐさま異変を感じた。
前に座る大夫人と姥やの顔色が冴えない事夥しい。
見れば大夫人の前に見知らぬ父娘と覚しき一組が立って十一娘の方を振り返って見ている。
都の者でないのは風体から見て明らかだった。
この人達は誰なのだ?
大夫人自身の客なら呼び立てられない。
事は旦那様か私に関わる件に違いない。
何も言われぬのを良い事に口の重い大夫人に代わって中年の男は早速自己紹介を始めた。
「永平侯爵様の奥様ですか?お初にお目に掛かります。私めは黄檗村の世話役をしております黄忠と申しまして、本日はこのわが娘の事でお話に参りました」
娘は隣でやや肩身の狭そうな表情で畏まっている。
「先程大奥様には紹介させて頂きましたが娘は黄夕梨と申しまして、先日こちらの永平侯爵様のご厄介になったのでございます」
十一娘は夫の厄介になったと言う娘を見た。
田舎娘には違いないが肌艶の良い顔色や善良そうな瞳に好感が持てた。
化粧気はないが磨けば愛らしく化けるのではと思われた。
「率直にお話下さい。夫がどのようにお世話をしたと言うのでしょうか?」
百姓はよくぞ聞いてくれたとばかりに口を開いた。
「先日黄檗村にこちらの永平侯爵様が巡視に来られました。その折地方巡撫のお役人様からわざわざ都から巡視に来られる侯爵様をもてなすようにとお達しがありまして…」
黄忠は一旦言葉を切ってニヤリと笑った。
「そこで村の衆と相談致しまして、村で一番広い我が家にお泊り頂く事に決まりました」
十一娘はこれから展開する話に嫌な予感がした。
「何分山深い田舎の事で何のおもてなしも出来ません…それでこの夕梨が侯爵様の…そのう…お相手を務めさせて頂いたのでございます」
「何かのお間違いです…夫がそのような」
黄忠は手を振った。
「ま、ま、奥様、最後までお聞きください」
そう言い強引に話を進めた。
「侯爵様はそれはそれは酔っておられましたよ…それでも夕梨と同衾した翌朝はこう仰いました。私の手が付いたからには悪いようにはしない、屋敷で側室として一生面倒をみるからと…そう断言してお帰りになりました」
鼻高々にそう言い放った。
十一娘は唖然とし、大夫人に向かって言った。
「お義母さま、旦那様に限ってそれはありません」
大夫人はうんうんと頷いた。
「十一娘、そうだよ。令宣に限って行きずりにそんな不始末を仕出かす筈がない」
それを聞いた黄忠とやらは激昂した。
「行きずりとは何ですか?!行きずりとは…いくら農家とは言えうちも黄檗村で代々続いた由緒正しい農家だ…そのへんの馬の骨と一緒くたにして貰っては困る!…第一にうちの娘の名節はどうしてくれるんだ!」
隣で夕梨というその娘がしくしくと泣き出した。
十一娘は決然として告げた。
「明日、旦那様が帰還なさいます…宜しいですか?黄忠殿。今や旦那様は朝廷の重鎮です。巡視に赴けばその言動は朝廷を代表し、君子にあるまじき行為は厳しく陛下や百官に断罪されます!君子は独立して影にも恥じず。私にはその自分に厳しい旦那様が貴方が仰るような行動をしたとは信じられません。ですが明日侯爵が帰館なされば全てが明らかになります。それまで貴方がた父娘はこの屋敷に留まり一切外出せず言動を慎んで下さい。ここまでの旅でお疲れでしょう。朝餉もまだでしょう。明日までお二人が快適に過せるよう取り計らいます」
黄父娘は十一娘の勢いに呑まれ怯んで大人しくなった。
十一娘は二人を休ませる為南蓮院に案内するよう召使に言い付けた。
父娘が出て行くと十一娘は桔梗に命じた。
「各門番に命じて。私の許可なくあの二人を外出させないようにと」
「はいっ!」
・・・「はあ〜」
大夫人が溜息をついた。
「お義母様、あの父娘が外で有ること無いこと喋れば旦那様の名誉に傷が付きます」
「うんうん、そうだろうとも。十一娘よくやってくれたよ」
「お義母様…娘はともかくどうもあの父親には問題がありそうです」
「うんうん、確かに。役人を接待する為に娘を利用し挙げ句に妾として差し出そうと云うんだからね…ほんに腹黒い父親だこと」
世の中には酷い親も居るものだ。
十一娘は気分を変えるようににっこりと微笑んだ。
「お義母様も朝からお疲れでしょう…私がお相伴させて頂きますので朝餉を召し上がった後、一休みなさって下さい」
大夫人は単純に喜んだ。
「そうしよう…あゝ嬉しいね…お前が一緒に食べて呉れるなんて…」