「四義姉上、ご存知ですか?」
「丹陽、何のこと?」
先程から丹陽の刺繍の手は止まっている。
「この国の西の端にある湖沼地帯に瘴気の漂う危険な沼があって…そこに定顔草という薬草が生えているそうなんです」
十一娘の記憶にはない。
「初めて聞くわ…その薬草は」
「実は昨日後宮で妹妹から聞いたんです」
大夫人が身を乗り出した。
丹陽の遠縁の娘は宮中に出仕して陛下に見初められ嬪として封ぜられていた。
丹陽は自由な外出が赦されない彼女の為に時折訪ねて行ってやるのだった。
「なんでも…その薬草の薬効は驚く程で煎じて飲むと病は癒え、皮膚や顔は若返り、しかも効果は長年続くそうなんです」
「へえ…信じられないね」
大夫人は大いに興味を惹かれたようだった。
「そんな不思議な薬草があるのなら呑んでみたいものだね」
十一娘は命名に感心して頷いた。
「なるほど、若さが長年続くから定顔草と云うのね」
怡眞がいつもの微笑を湛えて尋ねた。
「それで実際にその薬草を試した人はいるの?」
丹陽は皆がこの話題に食い付いたので嬉しそうだった。
「それが、陛下も探させようとなさったらしいんですが、その沼の瘴気が酷くて採りに入ろうとした者は悉く命を落とすそうです」
大夫人は残念そうだった。
「じゃあ何かい?その草を採ろうとすれば命と両天秤なんだね?」
丹陽はもう刺繍を放り出していた。
「はい、命を落とさないまでも瘴気を吸って四肢が麻痺して寝たきりになる者もいたとか…陛下は成功した者には莫大な褒賞を与えると約束なさったそうなんですが…一か八かで出発しても還らぬ者が大勢出たらしく兵達もなかなか手が上がらないそうです」
「命あっての物種だものねえ…」
大夫人はそう言い侍女に茶のお代わりを煎れるよう命じた。
花の庭を西跨院に向かって歩いてゆくと怡眞から呼び止められた。
「十一妹」
怡眞は最近十一娘をこう呼んでいた。
「二義姉上」
「貴女に聞いて貰いたい話があるの」
怡眞は睡蓮の池に浮かぶ六角堂に十一娘を誘った。
「どんなお話でしょう」
「この話は…」
怡眞の声は普段にも増して静かだった。
「先程の定顔草に関係しているかも知れないの」
「え…本当に?それは興味深いですね」
怡眞は至極真面目な顔をしていた。
「私の遠縁に当たる女性…仮に…小蓮としておくわ…」
十一娘は頷いて話の続きを待った。
「小蓮は私の叔母くらいの年齢よ…彼女の親は早世して親戚筋に当たる私の大叔母が養女として引き取ったの。とても美しい人だった。だから私は幼い頃随分彼女に憧れていたものよ…」
怡眞は記憶を辿りながら慎重に言葉を紡いだ。
「年頃になった小蓮には縁談が複数あったの…けれどどうしたものか突然その小蓮が文を残して失踪してね、捜索してもとうとう行方が分らなかったの。それから二十年も経ったある日一人の娘が大叔母を訪ねて来て自分は小蓮の娘だと名乗ったの。その子は失踪した時の小蓮その人だと言っても過言ではない程小蓮と瓜二つだった…娘の話では母小蓮は病で亡くなったと言ったそうなの」
十一娘は無言で頷いた。
「大叔母は彼女の姿形に小蓮との血の繋がりに疑いの余地は無いと判断して、ともかく大喜びでその娘を屋敷に迎え入れたの。」
十一娘は相槌をうった。
「小蓮の娘が来て、大叔母はまるで以前の小蓮との暮らしの日々がそっくり帰ってきたかのように思ったそうよ。、、」
失ったと思っていたものが還ってきた。
その喜びたるや。
池の畔で小鳥が囀る声だけが耳元に届く。
「それでその後どうなったんでしょうか?」
怡眞は一呼吸置くと再び話し出した。
「一年余り…その平穏な暮らしが続いたけれどやはり大叔母にとって若い娘を独り身のまま自分の手元に置いておくのは気が咎めたのね…伝手を辿って相応しい相手を探そうとしたの…そうしたら小蓮の娘は心を閉ざして部屋に籠もり何日も姿を見せなくなってしまった…心配した大叔母が使用人に無理やり扉を開けさせて部屋に踏み込むと小蓮の娘は…」
「娘は…?」
「娘は居なかったの」
「えっ!?消えたのですか?」
「娘は居なかったけれど…娘の髪を結って娘の服を着た白髪混じりの老嬢が一人で床に横たわっていたの…つまりそれが…」
「小蓮の娘だった…のですか?」
「大叔母は言ったわ。最初から小蓮の娘など居なかったんだと。小蓮自身が屋敷に帰って来たのだと…何らかの不思議で小蓮は歳を取るのを止めていたのよ。ただ世間を欺く為に自分の娘に成りすまして戻って来たのだとね。けれどその無理が祟ってその歪みが一気に表れたんじゃないかと見ていたわ」
「それで…大叔母さまは?」
「大叔母は少しのあいだその老嬢と共に暮らして…」
十一娘は息を止めた。
怡眞は手首に通した数珠を撫でた。
「二人はほぼ時を同じくして冥途に旅立って行ったわ」
十一娘はやっと息を吹き返した。
「もしや二義姉上は…その小蓮が定顔草を飲んだのではないかと疑ってらっしゃるんですね?」
怡眞はきっぱりと答えた。
「ええ、そうなの…私一人の胸に収めておくつもりだったけれど急に貴女にだけは話したくなったの」
小蓮は…定顔草で永遠の美しさを手にしたのかも知れない。
けれど秘密を抱えて孤独で幸せじゃなかったのではあるまいか。
西跨院に戻ってきた十一娘は暫くのあいだ一人ぼんやりしていた。
気がつくと令宣の帰宅時間となっていた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
令宣は敏感に十一娘の変化を感じとった。
「どうした?元気がないぞ」
「旦那様、若さって何でしょうか?そんなに大切なものなんでしょうか?」
令宣は笑って妻の頰を軽くつねった。
「考え込んでると思ったら急に妙な事を言い出したな」
十一娘はゲンコで令宣の胸を叩いた。
「んもう…真剣に聞いてるのにい…」
令宣は上機嫌で袂から箱を取り出した。
「開けてみろ」
箱を開けると都で評判の化粧品店秀麗堂の薔薇の化粧水が入っていた。
十一娘は急に晴れやかな顔になった。
「まあ、旦那様この限定品が欲しかったんです。人気があり過ぎて並んでもなかなか買えないので諦めていたのです」
「ははは、あそこの主人に無理を言った。お前が欲しがっていると母上が教えてくれたのだ」
十一娘は夫の首にかじりついた。
「旦那様〜ありがとうございます!お義母様にも明日お礼を言いに行きます」
令宣は掌で十一娘の頰を包み込んだ。
「元気を取り戻したな。お前が喜ぶ事なら何でもしてやりたいのだ」
「旦那様…ありがとうございます。旦那様のお気持ちが何より嬉しいです」
「なら、そんな事で悩むな…。お前の喜ぶ顔を見ると私は元気になる。お前から活力を貰っている。だからいつも喜んでいてくれ」
人生は美しい。
歳を経てもなお麗しい。
そう有りたいと願えば年齢に相応しい美しさはいつでももたらされるのだ。
定顔草は誰の目にも触れず毒の沼でひっそり咲いていれば良いのだ。