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梅雨の走りに烈しく降った雨がようやくあがって今夜は満月に叢雲が掛かっている。
十一娘は寝室の扉の向こうに目をやった。
眠り込むにはまだ早い…
けれど髪も梳いたし寝巻きにも着換えた。
結局十一娘は薄い絹の夜着のまま寝台の上に横たわり読みかけの本を読むともなくめくっていた。
旦那様はまだ帰って来ない。
今日は遅くなるとは言われていたけれど…。
その時バタンと扉を開ける音が聞こえた。
「旦那様!」
起き上がって玄関まで出迎えると袴の裾を泥で真っ黒に汚した姿で令宣が立っていた。
「旦那様!どうされましたか?」
令宣は苦笑いをしながら汚れた袴と靴を脱いだ。
「十一娘、水をくれ…喉が乾いた」
「はい今直ぐに」
令宣は湯呑みの水を一気に呑むと下履きだけの姿で暖閣に座った。
どんな時でも整った着衣にこだわる令宣には珍しい。
よほど疲れておいでなのだ。
「今日は智異山で暴れていた山賊の一味が都に流れて来て潜伏していたのを捕縛したのだ…凶悪な連中で明日まで待ってはおれなかった…とりあえず順天府の牢に繋いだが後は臨波に任せて帰って来た」
その危険な任務を聞いて旦那様が見えないところに傷を作ってはおられないかと十一娘は慌てた。
「お怪我は?お怪我はありませんか?」
「大丈夫だ…それより風呂に入りたい」
「準備してあります…もう冷めているかも知れませんから熱い湯を沸かします」
「いや、いい、ぬるい位が丁度良い」
小さな生傷でも熱い湯は沁みて堪えるだろう。
令宣は衝立の奥に消えた。
夜着の支度をしていると令宣の密かに笑う声が聞こえて来た。
十一娘は令宣の身体を拭く為に衝立の内に入った。
「旦那様、今何を笑ってらっしゃったんですか?」
「思い出し笑いだ」
「んもう厭だわ。教えて下さい…何を思い出されたんですか?」
令宣は含み笑いをしながら湯舟から立ち上がった。
十一娘は夫の裸身が眩くて視線を下げて近づいた。
十一娘は彼の引き締まった筋肉質の身体を洗い晒しの布で顔から背中から丁寧に拭いてゆく。
今だって夫の身体を見るのも触れるのも恥ずかしい事に変わりはないけれどこれは妻の務めなのだと自らに言い聞かせていた。
それでも前を拭く時には恥じらいで耳朶が真っ赤になってしまう。
夫はこんな私をどう眺めているのだろうか。
「お前が初めて此処へ来た時、熱すぎる湯に私を入らせようと企んだな。一家を御すものはこれくらい耐えろと言ってたな。今日のぬるい湯に浸かっていてそれを思い出したのだ」
「え!?あ!そんな古い話を…あれはその…旦那様の湯浴みが恥ずかしかったのです。企むなんてそんな酷い事をする筈が…」
そうだ。
あの頃の私は旦那様を遠ざける事ばかりに逸って旦那様のお気持ちを忖度した事はなかった。
未熟とは言え若さとは何と薄情で残酷なものなのか。
旦那様も早く忘れて下されば良いものを全て憶えているのだから憎らしい。
「いくら恥ずかしいからとそんな仕打ちをするか?普通…そう言えば湯から出た後もお前は私の着替えも手伝わず逃げて行ったな」
十一娘は話が不利な方向へと流れたので手早く拭き終えた。
新しい下着を着けさせながら首を傾げるととぼけた。
「そ、そんな無作法な事をしましたか?…」
令宣は夜着を着せかけた妻に振り返るとその両肩に手を置いて断言した。
「してた。それが今ではこんなに甲斐甲斐しく仕えてくれるようになった…隔世の感があるな」
「旦那様、そんな大袈裟な…」
「いや本当に嬉しいのだ」
十一娘は夜着の腰紐を締めながらてへへと照れた。
「そんなに仰ると…我ながら成長したのかもって気がしてきました」
令宣は愛おしそうに妻の頬に触れた。
「十一娘、あの頃はお前を私の妻にするには若過ぎると思って心配していた。私に嫁いで果たしてお前が幸せなのかと内心不安で仕方なかったのだ」
実際、病床の元娘から十一娘を後添にと頼まれた時には自分には若過ぎて彼女の人生を無にすると答えた。
「旦那様…そんな事を考えてらっしゃったんですか?…私のほうは旦那様のように地位のある方は何でも思い通りになるので自信満々な方だとばかり思っていました」
「ははは、そんな事はない。世の中思い通りにならない事が大半だ…表向きは平然としていても心というものは弱いものさ」
私が旦那様に冷たく接した事が旦那様の心の傷になっていなければ良いが。
旦那様が辛抱強く待っていて下さったからこそ私の今の幸いがある。
「そんな…旦那様みたいな方に嫁げて私以上に幸運な女はいませんよ」
令宣は妻の瞳を覗き込んだ。
「十一娘…」
「あっ…」
突然十一娘の身体がふわりと宙に浮いた。
令宣は妻を横抱きに抱えると寝台へと向かった。
「だ、旦那様、お疲れなんじゃ…」
「ははは、今の言葉を聞いて元気になった。お前の幸せは私の幸せだ。お前を失望させたくない」
「ええっ!?」
「ははは…」