その日はやって来た。
今日は仙綾閣に楊知音の妻佳怡がやって来る。
刻限より早くやって来た佳怡は十一娘が伝えておいた通りの地味な着物を着て教室の後ろにひっそりと座った。
繡女達は新入りが入って来たとこっそりと目配せをしていた。
「皆さん、今日は見学の方が見えています。皆さんと一緒に学びますので皆さんはいつも通り励んで下さいね」
十一娘が挨拶すると一斉に「はい!」と素直な返事が返ってきた。
佳怡の言った事は謙遜ではなかった。
十一娘は針の持ち方から教えねばならなかった。
器用に糸を操る繡女達の中にあって恥ずかしいだろうに佳怡は照れもせず懸命に学ぶ姿勢を見せた。
授業の終わる頃には十一娘が特別に用意していた手巾に小さな花の図柄を刺し終えて目をキラキラと輝かせていた。
繡女達が教室を出てゆくと十一娘は褒めた。
「佳怡さん、初めてにしては上手に刺せてますよ」
「本当に?」
「ええ」
「恥ずかしいわ…でもこの歳になるまで興味が持てなかったのに不思議です…師匠の教え方がいいんです」
十一娘は笑った。
「師匠はやめて…あ、そうだ…その後おうちはいかがですか?跡取りをお迎えになって随分雰囲気が変わったのでは?」
佳怡は嬉しそうな様子で語った。
「ええ、夫も私も親業は初めてなので戸惑う事も多いわ。でも祖父母が助けてくれますので何とか日々を送れています。私は夫から息子を甘やかすなと叱られてばかり」
そうぼやいた。
「おいくつですか?」
「今年九歳になります。母上と呼ばれるのはくすぐったいわ…でも甘えてくれるのが嬉しくてつい…」
彼女の綻んだ顔は華やかに上気してつい先日までの暗い表情が嘘のようだ。
「隆は、あ、息子は隆と申します…実家では大勢の兄や従兄弟達に埋もれて甘えさせて貰えなかったのです…ですからうちでは思う存分甘えて来ます」
十一娘は笑み崩れた。
「それは良かったですね!」
彼女の境遇に心から同情を禁じ得なかった十一娘は今の幸せそうな佳怡の姿が嬉しくてならなかった。
表から萬大顕が呼んだ。
「奥様〜、お迎えに上がりました〜。馬車で旦那様がお待ちです」
佳怡は慌てた。
「まあっ、私ったら自分の事ばかり話して徐奥様をお引き留めしてしまいました」
十一娘は佳怡の手を取った。
「いいんですよ。良いお話を聞かせて頂きました。それではまたお会い致しましょう」
二人は店頭まで出てそこで別れた。
佳怡は丁寧に頭を下げた。
「此処で失礼します。侯爵様に宜しくお伝え下さいませ…」
十一娘は敢えて佳怡に刺繍を学ぶのかを尋ねなかった。
希望するなら彼女の方から申し出てくれる筈だ。
馬車に乗り込むと令宣が待ち構えていた。
「今日もご苦労だったな…」
十一娘は夫の隣にぴたりと座った。
「旦那様こそお疲れ様です」
ゴトゴトと進み出した馬車の中で彼女は令宣の腕に自分の腕を絡めた。
令宣は気分を良くして妻を見た。
十一娘は更に令宣の胸に頭をもたせ掛けた。
頬を緩める令宣。
「どうした?ん?分かったぞ…何か欲しい物があるんだな?」
十一娘は顔を上げると口を尖らせた。
「んもお〜、旦那様ったら…私だって旦那様に甘えたい時があるんです」
「ははは、いつも甘えてるじゃないか」
「それは…そうですけど…旦那様はお嫌ですか?」
「十一娘、分かった上で問うのか?」
令宣は右の手で妻の顎を摘むと軽く口づけをした。
十一娘は蕩けるような声で囁いた。
「…旦那様、これが欲しかったんです…」
漏れ聞こえてくる甘い会話に警護して歩く萬大顕がやれやれと頭を搔いているのを二人は知らない。