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碧玉のところへ令宣の訪れは無く彼女の怖れていた事は現実になった。
羅大奥様の企みとは言え結果私は姨娘として一室を与えられた。
薄っすらとではあったがそのうち旦那様の心が動き私を哀れに思って訪れて下さるのではないか、そんな希みを抱かないではなかった。
寵愛を得られなくても姨娘の一人として扱って下さるのなら私は救われる。
けれどその儚い希みは哀しい妄念に過ぎなかった。
待てど暮らせど旦那様の訪れはない。
一縷の望みも絶たれ碧玉は鬱々とした日々を送っていた。
一月ほど経った或る日…碧玉は元娘に呼び出された。
「旦那様はいらっしゃらないようね」
「…はい」
元娘は暖閣の卓上を爪でコツコツ叩きながら苛立ちを隠そうとはしなかった。
「折角お前を旦那様の姨娘にして上げたのに…旦那様も旦那様よ…何時まであなたを放っておくつもりかしらね」
棘のある言い様に碧玉はがばと元娘の前にひざまずいた。
「お許しください…私が不甲斐ないのです」
元娘は見下ろして言った。
「お立ちなさい…私があなたを罰していると思われるじゃないの」
碧玉は慌てて立ち上がった。
「は、はい…申し訳ありません」
暫しの沈黙にも碧玉は居た堪れない思いで耐えていた。
「佟姨娘…守りに徹していて安心出来るほどお前はその若さ以外に自分に魅力があるとでも思っているの?」
元娘の言葉は碧玉の心を刃物で引き裂いた。
「め、滅相もありません!」
「なら、旦那様を振り向かせるよう努力しなさい…厨房に行って旦那様の為に汁物でも作りなさい」
碧玉は慌てて再びひれ伏した。
「は、はい!仰る通りに致します」
「お行きなさい」
侍女であった時なら厨房に入って行く事は何の苦も無かった。
姨娘の衣装を身に着けた今、厨房に入ると厨司や手伝いの使用人からジロジロと見られ中には聞えよがしに嫌がらせを云う者まで居た。
「旦那様が酔ったのを良い事に寝台に上がったらしい」
「あたしもやろうかな?笑」
「バカ…夜中にそのご面相を見たら旦那様が泡を食うぞ」
「どう言う意味よ!」「そういう意味さ、笑笑」
「なんて事云うんだい」
「あんたも図々しい女だね…」笑…
……
やっとの思いで湯を作り小鍋を盆に載せた。
半月溿に辿り着くと丁度照影が中から出て来た。
「佟姨娘」
「照影さん、旦那様に湯をお作りしたのですが…」
照影は頷くと書斎に入って行った。
「旦那様…、今表に佟姨娘が来ています。旦那様に湯を作ったそうです」
令宣は筆を止めて一瞬顔を上げ照影を見たがすぐさま書き物に戻った。
「お前が受け取っておけ…礼を云うように」
照影はすぐに出てくると言いにくそうに頭を下げた。
「佟姨娘、今旦那様はお忙しいので後でお渡ししておきます。…ありがとうと仰っていました…」
旦那様は会っても下さらない…。
とぼとぼと歩くうちに足は自然と行きなれた東跨院への道を辿っていた。
「碧玉?」
俯いて歩いて居ると誰かに呼び掛けられた。
前から歩いて来たのは秦姨娘と侍女の二人連れだった。
「違ったわ…今は佟姨娘だわね」
秦姨娘のいつもの穏やかな顔つきを見た瞬間、佟姨娘の瞳から意図せず涙が零れ落ちた。
「どうしたの!?」
碧玉は俯いたまま嗚咽を堪えている。
秦姨娘は辺りを見廻すと碧玉の肩を抱いた。
「此処は目立つわ…私の部屋に…」
「…うう…」
碧玉は秦姨娘と侍女に支えられるようにして歩いた。
秦姨娘は碧玉の背中を暫くのあいだ擦っていた。
碧玉はやっと口を開いた。
「秦様、申し訳ありません…」
「私に謝らなくてもいいのよ…あなたの辛い立場はよく分かるわ」
慰めの言葉を聞くと碧玉の目から再びどっと涙が溢れて来た。
「貴女は嫌だったのよね…なのに奥様が無理強いしたんでしょ?」
碧玉は慌てて言い訳した。
「奥様ではありません…羅家の大奥様が…」
「同じよ…奥様は知ってて知らないふりをしているだけ」
秦姨娘がそう断じる言葉に碧玉はぎょっとして顔を上げた。
「…そうでしょうか?」
秦姨娘は皮肉めいた笑顔で頷いた。
「貴女は純粋ね…だから利用されたのよ…」
碧玉は内心驚いていた。
秦姨娘は何時遭っても柔和な顔をしている大人しい女性だと信じていた。
反対に文姨娘は本音を口にしよく大奥様に叱られていた。
その点、秦様は奥様にも勿論大奥様にも従順でそつのない女性。
そう思っていた。
その秦姨娘から今のような言葉を聞くとは…。
意外だったが、それでも今苦境にある私を理解してくれるのは秦姨娘しか居ない。
碧玉はそう信じた。
碧玉は秦姨娘の手をしっかり握ると東跨院の離れでの一件をすべて話した。
秦姨娘は黙って聞いていた。
「貴女に心底同情するわ…それと、、これは心に留めておいて欲しいのだけれど…」
「何でしょう?是非聞かせて下さい!」
「旦那様に期待してはだめよ」
「それは…」
「旦那様は貴女だけじゃない。奥様も妾も愛してはいないわ…人を愛する事が難しい人なのよ…」
「それは本当ですか?」
「しかも色好みではないから気晴らしに現れる事さえないわ…だから貴女が今後寵愛を期待しても辛い思いをするだけかも知れないと云う事よ」
この屋敷で最も古株の姨娘から言い聞かされた言葉は
心にとどめを刺し碧玉に深い絶望感を抱かせた。