令宣が福寿院の広間に入ってゆくと予想通り元娘が先に来て座っていた。
令宣を見ると立ちあがり黙礼した。
大夫人の機嫌は悪くはない。
「令宣や」
「母上…」
「昨晩の事は聞いたぞ」
「母上、誤解です!」
大夫人は突如として顔色を変えた。
「何が誤解だ。東跨院の者は皆見ていたのだ。元娘が知らせに来てくれた。皆が知っている。お前と碧玉が入って朝まで出て来なかったとな」
令宣は妻を見たが元娘は夫と視線を交わそうとはしなかった。
「そんな!母上ご諒察下さい…私は泥酔しており碧玉が其処に居た事も知らなかったのです…碧玉に証言させます」
「令宣、そんな言い訳が通用すると思うのか?誰が信じる?碧玉の貞節はどうするのだ…あん?」
「母上!」
「幸い元娘が物分かりの良い嫁で有り難い…お前の妾として認めると言ってくれた」
「母上!」
「もう良い…妾が増えてこの徐家に子宝を与えてくれるのなら言うことはない…令宣、もう良い。もう何も云うな」
それまで黙っていた元娘が初めて口を開いた。
「お義母様、西の外れに使って居ない部屋がありますのでそこを碧玉の居所に充てます。半月溿から旦那様が通われるのにも便利です」
大夫人は目尻を下げて嫁を褒めた。
「そうかい。元娘、お前は細部まで気が回るねえ…」
元娘は腰を低くして頭を下げた。
「正妻として当然為すべき務めです」
「それより今のお前は大事な身体だ。そんな雑事は乳母や使用人に任せて元気な跡継ぎを産む事だけに専心しなさいよ」
「はい、お義母様、心掛けます」
「話は以上だ…令宣、元娘を部屋まで連れて行ってお上げ」
昨夜の今日で全てが繋がった。
福寿院の門をくぐり抜けると令宣は妻に問い質した
「謀ったのか?」
「旦那様、何を仰っているのか解りません」
「何故私に相談しない…私にはこれ以上妾など必要ないのだ…」
「本当に私は知らなかったのです…碧玉が貴方の妾になりたかったとは寝耳に水でした。計略を用いたのは碧玉です。私の指図かどうか碧玉に尋ねてみて下さい」
あの弱々しい侍女にそんな度胸がある筈がない。
白々しい言い訳など聞きたくもない。
「もういい…」
東跨院の手前で令宣は引き返した。
碧玉は元娘の前で小さくなってひざまずいて居た。
「碧玉、今日からお前を旦那様の妾にするとお義母様も認めて下さったわ…有り難く思うのね」
碧玉はどう返答して良いか分からず途方に暮れていた。
奥様はどこまでご存知なのか?
羅家の大奥様の言い付けであった事は御承知なのか?
奥様は全くその事に触れようとはなさらない。
表向きには私が旦那様の妾になろうとして旦那様の床に自ら入った事になっている。
もう噂は屋敷中に広まって私を見る使用人達の目が異様だ。
彼らの突き刺さる視線が怖い。
いやだいやだ…もうこんなところには居たくない…
「あなたはこれから佟姨娘よ。居所も決めて来たわ。今から荷物を纏めて移りなさい。侍女はまだ決めてないけれど一人付けるわ。着物も仕立てさせる。当座は私のお古になるけれど使いなさい。運ばせるわ」
元娘様の言葉一つでどんどん物事が決められてゆく。
その恐ろしいまでの展開の早さに従いてゆけない。
身も心も。
頼みの綱だと信じようとした旦那様も今朝の様子からして私を見る目は冷たい。
正義感の強い明晰な男が策略を巡らせて謀るような女に心を許すとは思えない。
寵愛を得ようなど遠い夢の出来事に過ぎない。
碧玉は孤独の淵の闇の深さを覗き見たような気がした。
元娘の話は続きさらに碧玉を追い詰めた。
「佟姨娘、旦那様によくお仕えして頂戴。くれぐれも旦那様の機嫌を損ねないように慎重に。後の二人に負けないようになさい」
だがしかし碧玉の懸念した通り
元娘が用意させたその居室に令宣の訪れは遂に無かった。