令宣と十一娘が乗った馬車が遁甲路に差し掛かった時、いきなり飛び出して来た女と接触した。

御者が喚く声で異常を知った令宣が降りて行った。


「あ、旦那様!この人が突然飛び出して来たんです!」

御者が指差した先には

女が石畳の上に仰向けに転がっていた。

「奥様!大丈夫ですか?」

十一娘が急いで降りて来て女に手を貸そうとした。

ところが女は十一娘の手を振り払ったかと思うと大きな声でわあわあ言葉にならない悲鳴を上げだした。

何処か打ち所が悪かったのか?

十一娘は驚きながらも尋ねた。

「奥様、お怪我はありませんか?」

大した転倒ではないらしく衣もどこも汚れてはいない。

女はむくっと半身を起こすと十一娘を指差し興奮した様子で罵った。

「この泥棒猫!私の夫を返せ!」

そう怒鳴ったかと思うと令宣が止める間もなく十一娘に掴み掛って来た。

ビリッ!!

物凄い力によって十一娘の衣の袖が裂ける音がした。


慌てて令宣が十一娘を背後から抱いて女から引き離した。

令宣は茫然としている妻の背中を撫でた。

「大丈夫…大丈夫だ」

その時一人の士太夫があたふたと慌てふためきながら路地の奥から現れた。

「すまぬ…申し訳ない!誠に申し訳ない!それは私の愚妻です」

士太夫は平謝りに謝りながら妻の身体を抱いて起こした。

途端に女は夫にしがみついた。

「あなた!貴方…」

俯き加減に謝る男を見て令宣は仰天していた。

「知音…じゃないか?楊知音」

士太夫は顔を上げた。

十一娘はドキっとした。

驚くほど端正な顔立ちの貴公子だった。

頭の良さを示す広い額と切れ長な瞳は憂いを湛えて美しく高い鼻梁とやや薄い唇が高貴さを表している。

面やつれしているようでいて品の良さは隠せない。

「…徐令宣か?…面目ない…久し振りに会ったと思えばこのような体たらくで」

「仔細がありそうだな…」

「面目ない」

楊知音はそう繰り返した。

十一娘が令宣に肩を抱かれたまま尋ねた。

「奥様はお怪我なさっていませんか?馬車と接触なさったのです」

彼は弱々しく首を振ると頭を下げた。

「驚かれたでしょう。これは妻の病の発作なのです。病に免じて驚かせてしまった事をお許し願いたい」

彼の視線はふと十一娘の破れた衣の袖に止まった。

「その袖は…!妻の仕業ですね?」

十一娘は首を振った。

「奥様のせいではありません…それにこちらにも落ち度があります…」

「いや、そんな訳には……そうだ令宣、後日伺って弁償させて欲しいが…いかんか?」

「知音、旧交を温める良い機会だ。是非会いに来て欲しい。だが妻の衣の心配は無用だ」

令宣はそう言って微笑んだ。

「分かった…今日の事は本当に済まない…改めて参上する…令宣。ではお内儀も…失礼する」

楊知音はその妻を抱きかかえるようにして遁甲路の奥へと消えていった。


再び馬車に乗ると十一娘は尋ねた。

「あの方なのですね?旦那様の同門で三羽烏と言われていた人は」

「そうだ…しかしお前も驚いただろう…大丈夫か?お前こそ怪我はないだろうな?」

「大丈夫です…旦那様がすぐ庇って下さいましたから…」

十一娘はそう言うと令宣の胸にもたれ掛かって甘えた。

令宣は妻のつむじを優しく撫でた。

「楊知音が来れば今日の事を釈明するだろうな…」

「お気の毒です…奥様が心の病となれば」

令宣は十一娘の袖の破れ目を手に取った。

「しかし恐ろしい力だな…」

「はい、残念ですけれど今日この袖では旦那様推奨の京林堂には食べに行けそうもありません」

「馬車で待っておれ、土産用に包んで貰おう」

「そう仰ると思ってました!」

十一娘は人の目がないのを良いことに令宣の頬に口づけした。

すかさず令宣から甘い仕返しを受けたのは言うまでも無い。