彦行は安泰と船の整備に大わらわだった。

持ち船にまた乗れるとは夢にも思わなかった。

再びこの船に戻れた時は頬をつねったものだ。


もとより彦行に以前の面影は無い。

塞外の荒野での暮らしが彦行の外見を変えた。

妻帯者として髷を結い髭も蓄えた。

青白かった皮膚は浅黒く陽に灼けていた。

埠頭へ戻って来た時船頭主は現れた痩せぎすの男が彦行だとは気付かなかった。

そして本人だと気付くと多いに喜んだ。

「あの船は手入れしてある。あんたを待っていたよ」

以前の船は都察院に接収されている筈だ。

彦行達はあれ程の規模は無理でも小船でも良い。

借りられるものなら…と此処を当てにして来た。

「どういう事ですか?」

「私も役所から預かってからあれをどうしようかと考えていたところが、、一年前に永平候爵があの船を買って私に管理を任せてね…」

一年前と言えば恩赦が決まり審理が始まった頃だ。

「永平候爵が…」

「お前さんが帰って来たら使って貰いたいとね」

安泰が明るい顔で彦行の袖を引っ張った「若様!」

「若様はやめろと言っただろう」

彦行は安泰を叱った。

「でも若…あ、いや旦那様、いい話じゃないですか!」

彦行は躊躇った。

確かに喉から手が出る程だが…

「いや、しかし甘えるわけには行かない」

「旦那様!」

船頭主はまあまあと宥めた。

「林旦那さん、お前様が受けてくれない事にはこの話も宙に浮いちまうんで私も板挟みになって困るんでね…私の立場も考えておくれよ…永平候爵もあんたがそう言ったら元手を拵えていずれ買い戻してくれればいいと…そう仰ってましたよ」

彦行は腕を組んでじっと考え込んでいた。

安泰はその逡巡する様子に隣でヤキモキしていたがやがて彦行も腹を括ったようだった。

「分かりました…永平候爵に私から挨拶とお礼を言いに行きます…」

「そうそう…それがいい」

船頭主は顔を綻ばせて彦行の肩を叩いた。

これが彦行達の商売再開の第一歩となった。


「やれやれ、暑いですね〜ここらで一服しませんか?」

「琥珀が水筒を持たせてくれた…そこにあるだろう」

「あ、これですね…」

休んでいると船の影で人の話し声がした。

「ホントにこれで眠れるの?」

「へえ…四半時ほどぐっすりですよ…おまけにご希望通り催情性もありますから…起きた後あっちはびんびんでさ…いっひっひ…」

「これで足りる?」

女が男に銀子を渡したようだった。

「まいどあり〜」


去ってゆく男を見て安泰は顰め面をした。

「旦那様、あいつは榔安という闇の薬屋です。前からこの辺では有名ですよ」

彦行は舳先の上から女を見ていた。

「ろくでもない事を企んでいるようだな…」


忙しさもあって暫くその光景は忘れていた。

が、数日後の夕刻、埠頭の一角でその事件が勃発した。

巡防營の兵達と商人風の男達そのまた侍衛までが入り乱れてものものしく立ち廻りが始まった。

彦行と安泰は物陰からこの様子を見ていたが

統率された官兵達により賊は程なく制圧された。

「旦那様、あれ…!徐候爵ですよ!」

指揮していた令宣が兵達の間から垣間見えた。

令宣は肩を押さえていた。

「負傷されたんですかね…?」

心配そうに言う安泰の横で彦行が立ち上がった。

「あの女だ…」

「え?」

「安泰、あの女だ。この前…闇の薬屋から怪しい睡眠薬を買っていた女だ」

安泰が見ると、確かにその女が令宣にピタリと寄り添って茶店の奥へと消えていくのが見えた。

彦行はその様子からただならぬものを感じ取った。

「安泰、徐候爵が危ない」

「どうしましょう!」

「知らせるんだ!官兵に…そうだ十一娘!徐候爵が怪我をしたと言って十一娘を呼ぶんだ!」

安泰が走って行った。

まだ混乱が治まり切らない現場に走った安泰は官兵の一人を捕まえると、この茶店の者だが将軍が怪我をなさってここで休んでいらっしゃる。徐家の奥様に急ぎ知らせに行って欲しいと頼んだ。


「どうだった?」

「流石徐候爵の部下です。すわ一大事と駈けて行きましたよ」

彦行は少しほっとした。

「良かった…手遅れになる前に来て欲しい」

安泰は茶店を伺った。

「あの女…徐候爵にあの薬を使うつもりでしょうか?」

「恐らくな…」

「悪辣ですね…」


薬で眠らせその後どうするつもりか知らないが徐候爵があの女と関係が出来てしまえば苦しむのは十一娘だ。

彦行は十一娘が不幸になる事だけは許せなかった。

その為に自分の為すべき事はやったと彦行は胸を撫で下ろした。