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あたしは横たわる候爵の隣に身を滑らせた。
帳の薄暗闇の中で私は自由に振る舞った。
指先で彼の頬に触れて輪郭をなぞる。
そっと頬擦りする。
彼の身体からは男らしい体臭と衣服に焚き込められた香が混然となって立ち昇りあたしの心は震え、身体の奥に火を着けた。
その愛おしい唇に口づけしようとした瞬間、表から慌ただしい蹄の音が聴こえて来た。
あたしは彼を起こさないよう注意を払いながら寝台を降りた。
窓から覗くと官兵が丁度馬から降りて後ろから来た馬車に何かを伝えている。
息を殺して見つめているとその馬車から降り立ったのはあの時店に来た候爵の妻だった。
一体誰が呼んだの?
誰かに勘付かれた?
あたしは覚悟を決めた。
引き際を間違うと彼とはこれっきりになってしまう。それが怖かった。
珠児は帳を開け素早く令宣の唇に自分の唇を重ねると身を離した。
そして急いで階段を降りると何食わぬ顔で玄関を出た。
馬車から降りた令宣は妻の手を取ろうとした。
十一娘はチラッと視線を走らせただけで自力で降りてしまった。
令宣は眉根を寄せると強引に十一娘の手を掴んだ。
令宣の手は万力のようで十一娘は手を引かれるまま西跨院の寝室まで連れて行かれた。
「旦那様!」
十一娘が抗議しようとすると夫はかってない程に烈しく妻の唇を奪った。
何度も角度を変え貪るように口づけをされるうちに十一娘の身体から徐々に力が抜けていった。
令宣が顔を離すと十一娘の大きな瞳からは涙が流れ落ちていた。
「十一娘…すまない…だが本当なんだ。あの場所に居たのは私の本意ではない…眠っていたのも薬湯のせいだ。まさか…」
まさか珠児に盛られたのか?…という疑念は呑み込んだ。
「旦那様……もういいんです…旦那様が重大なお仕事の最中に女性の部屋で眠り込むなんて有り得ません…私には分かっています」
夫が自らあの部屋に行くなんて考えられない。
きっと理由があるのだ…。
令宣は十一娘の頬に伝わる涙を優しく指で受け止めた。
「では、何故泣いているんだ?」
「……」
十一娘は俯いて令宣の眼を避けるように後ろを向いた。
「…自分が情けないんです、、旦那様があの人の寝室に居ると知っただけで頭に血が上りました…」
「十一娘…」
「そして貴方が本当にあの人の寝台に寝かされているのを見て許せないと思いました…旦那様の傷の心配をしなければいけないのに…それよりも」
堪えきれない想いが一気に溢れ出て言葉を詰まらせた。
「頭では分かっているのに嫉妬してしまいました…だから…だから自分が許せないんです」
令宣の内から十一娘への愛が迸り出た。
「十一娘…悪かった…私の不注意だ。もうこれからはお前を心配させない…誤解を招くような行いは厳に慎む…だから…泣き止んでくれ。お願いだ」
珠児が自分に対して好意を持っている事は気付いていた。だから距離を取ろうと内偵紛いの行いも止めるよう忠告した。
だがまだまだ甘かったらしい。
令宣はもう一度妻を抱き締めると頬の涙を拭き、今度は打って変わって優しい口づけをした。
蕩けるような口づけに十一娘の身体からまたもや力が抜けた。
「え〜、ゴホン…」
「ゴホッ」
隣の居間から桔梗と明々の咳払いがする。
「旦那様、奥様…夕食の準備が整いました」
十一娘はハッとして令宣から身を離した。
「ありがとう…今行くわ」
「では、後は奥様にお任せします」
二人は気を効かせて下がって行った。
「十一娘、長いあいだ寂しい思いをさせて済まなかった…明日は休みを取る。お前と一日中ゆっくり過ごす」
十一娘は令宣の盃に清酒を注いだ。
「旦那様、事件は無事に解決しそうですが事後処理でお忙しいのでは?」
令宣は盃を美味そうに呑み干した。
「この案件も臨波が担当する。取り調べや報告書の上奏も臨波が行う」
「そう言えば最近傳殿の上奏が増えましたね」
「臨波を何時までも私の副将にしてはおけない…そろそろ品階を上げて一本立ちさせるべき時だ…臨波には十分その才も実力もある」
「そうなんですね…」
「あと何件か大きな案件を臨波に任せて実績を挙げ品階を賜わるよう私も働きかけるつもりでいる」
「さすが旦那様ですね!」
「煽てるな、冬青の為に喜んでいるな?」
「ん〜どうでしょうか、一人立ちして遠くへ赴任を命ぜられたらそれはそれで寂しいですし…」
令宣は微笑んで妻の手を握った。
湯浴みを終えた令宣の身体を丁寧に拭き、十一娘は寝台に座って軟膏で肩の傷の手当をした。
「旦那様、傷は案じていたより随分軽症ですね…」
「そうだ、こんなかすり傷。傷のうちに入らん」
十一娘も臨波と同じ疑問を感じて首を傾げた。
「一体誰が知らせるよう命じたんでしょう?」
「さあな…」
令宣にはそんな疑問よりも大事な事があった。
「十一娘…おいで」
令宣は妻の手を引いた。
「旦那様…」
バサッ
枕元に例の草紙が落ちて来た。
あれやこれや寝間の技術を教える文字の羅列の合間に男女が絡み合う淫らな図版が垣間見えた。
「十一娘、これは捨てよと言ったぞ。何故まだ此処にある?」
「捨てよとは仰いませんでした…それに私は人から頂いた物を無闇に捨てたりしません」
「捨てなさい」
「捨てません」
「十一娘、どうしてだ」
突然十一娘はぽろりと涙を零した。
令宣は動揺した。
「旦那様…私、旦那様に愛されて幸せです…でも私も旦那様を今よりずっと幸せにして差し上げたい。だからこの草紙は下世話かも知れませんが…捨てません」
令宣は呟いた。
「十一娘、、バカだな…これ以上ない程お前を愛しているのに…証拠を見せてやる」
令宣は妻の手を取ると自身の…。
「旦那様、、あゝ、こんなに?…」
西跨院の寝室を蒼白い月だけが静かに見守っていた。