令宣はぱたりと箸を置くと右肘を食卓に置いてじっと十一娘を見つめた。

「あのぅ〜旦那様もう朝ご飯はお仕舞いですか?」

「丁度良い…今からお前を案内したいところがある。食後の散歩がてら行ってみよう」

あら、この話の追求は終わったの?

…それならいいけど。

十一娘はちょっと安堵した。

「あ、でも旦那様私この髪型です…結い直しますので少々お待ち下さい」

「そのままでいい。笠を被ればいいだろう。それに途中までは馬車で行く」

令宣は不可思議な笑みを浮かべた。

帰って来たばかりなのにまた急に散歩?

それに案内したい所って?

風向きがおかしいが旦那様がこんな風に言い出した時は逆らっても無駄だ。


令宣が御者に何かを伝え馬車は走り出した。

「旦那様、何処へ?」

「着いてからのお楽しみだ」

旦那様の思わせぶりな言い方に何だか妙な予感がする。


さほど時を経ず到着した場所には見覚えがあった。

この先には埠頭がある!

十一娘は予感が的中した事を嘆いた。


先に馬車から降り立った令宣が手を伸ばして十一娘を待つ。

その令宣の姿は貴公子らしく端正で道行く女達がチラチラと視線を飛ばしてくる。

十一娘は令宣に気付かれないよう小さく溜息をつくと

笠に白い覆いを被せて夫の手を借り馬車から降り立った。

令宣はその妻の手を離さなかった。

歩き出しながら令宣は十一娘に尋ねた。

「どうだ?懐かしいだろう」

「あ…ええ…」

「確かこの辺りだったな?お前が露天の品を壊したのは」

握った手が汗ばんで来た。

「え?あはは…そうでしたか?」

「まだあるんじゃないか?」

令宣はわざとらしく周りを見渡した。

視線の先には確かにあの頃と同じく露天が立ち並んでいる。

「見ればきっと思い出すに違いないと思ってな…何の目的で此処へやって来たのか」

「ごほっ・・・」

ヤバい事になって来た。

令宣は何がなんでも聞き出したいのだ。


嘘は言えない。

十一娘は令宣の気持ちを傷付けない為にはどう説明すれば良いのか思案していた。


「徐殿、徐殿ではないか」

声を掛けて来たのは年配の男で背後に侍衛と思しき男達を連れていた。

「これは田二郎殿」令宣が挨拶を返した。

相手は珍しいものでも見るように令宣と十一娘を見た。

「お連れは…何処の娘御かな」

令宣は慌てた。

「あ、いやこれは私の妻です」

田二郎は十一娘の笠と垂れ絹の内から長く下ろした髪を穴が開かんばかりに凝視した。

「ほう…お内儀とな…それは失礼した。今日はお内儀と仲良く散策ですかな?」

「はい、久しぶりに」

「それは邪魔をし申した。それではまた朝議でな…」

「はい、失礼致します…」

田を見送った後、十一娘は尋ねた。

「今の方は?」

「うん…太子少師衛のうちの一人だ」

「あまり芳しくない方なのですか?」

「分かるか…よく人の粗探しをして朝議で騒ぎ立てるので人から恨まれるのだ。だからああして常に侍衛を侍らせている。あだ名は私設官報だ…」

「ぷ…」

十一娘はお腹を抱えて笑いそうになったが往来なので堪えるのに苦労した。

お蔭で先程までの憂鬱が薄らいだ。


令宣は暫く歩いてある所まで来ると足を止めた。

「十一娘、ここならお前の気に入るかな?」

眼の前には涼しげな茶店があった。

港の猥雑な場所だが蘭の鉢が至る処に飾られ文人が好みそうな落ち着いた店構えだ。

手を引かれて入ってゆくとすぐに給仕が現れ席に案内された。

埠頭の賑わいと共に青々とした川面と船が見える眺めの良い席に落ち着いて十一娘は徐ろに笠を取った。


「前の主が病を得て一時此処は廃墟のようだったが新しい店主が来て生まれ変わったんだ…臨波達と埠頭へ巡視に来る時は此処へ立ち寄って喉を潤す」

十一娘は仕事中の夫の行動を知れたことが嬉しくて自然と笑顔になった。

「そうなんですか…とても良い雰囲気のお店ですね…」

「お前の好きそうな甘い物もあるぞ」

「旦那様〜もう〜、私は食いしん坊としか見られてないんですか?」

「違うのか?」

十一娘はぷうと膨れ面になった。

「ははは、許せ」

令宣は膨れた頬を指先で突っついた。

「まあ〜…どうせホントの事ですけどね」

「そうむくれるなハハハ…」


「候爵様、いらっしゃいませ」

その時頭上から女の声がして二人とも顔を上げて声の主を見た。

粋な身なりの女は令宣に微笑みかけていた。

派手でも地味でもなく何処にでも居そうな顔立ちながらほのかな色気が身体全体から匂い立つようだ。

「何時ものお飲み物になさいますか?…お嬢様にはこちらを」

女は十一娘に品書きを差し出した。

「あゝ、そうして貰おう…妻は…」

「あら…奥様でしたか…失礼しました」

十一娘はうなじの髪を押さえて照れた。

「旦那様、私この胡麻団子と龍井茶を」

令宣は破顔して言った。

「ハハハやっぱり食べるんじゃないか」

「てへ、お見通しでしたか」

令宣は笑いながら手を伸ばして十一娘の頬を軽く摘んだ。

夫の細やかな触れ合いが嬉しくて先程までの憂いも忘れ十一娘の心は弾んだ。


その翌朝、令宣が出仕すると最早既に

令宣が賢徳著しい奥方を放って若い未婚の女子を連れ歩いていたと言う噂が朝廷中に広まっていた。


十一娘に娘の髪型をさせるべきではなかったと後悔先に立たずの令宣だった。