西跨院の寝室に桔梗の悲痛な声が響いた。
「奥様〜、やっぱ私じゃ無理です〜」
十一娘は鏡を見ながら吐息をついた。
「そうねえ…明々が居ないと厳しいわね…」
今日は明々がお休みしている。
いつもなら明々の代わりに大夫人から髪結いの上手い姥を借りるのだが昨日はうっかり手配を忘れた。
桔梗はこういう手先の事は本当に不器用だ。
「今から大奥様のところへ行ってきます」
しょんぼりしている桔梗を十一娘は止めた。
「いい、いい、旦那様は出張だし今日はどこにも行かないつもりだから誰にも見られないわ。ほら、こうして髪を降ろした娘の髪型なら自分でも出来るもの」
桔梗は申し訳無さそうにしながらもホッとしていた。
「奥様はお若いし、ホントに未婚だと言っても誰も疑わないです!」
そう言って十一娘の降ろした長い髪を梳った。
鏡に写る十一娘の姿は独り身の頃と殆ど変わらない。
「そうね。童顔だとよく言われるけど、それも悪くないわね」
二人が顔を見合わせて笑っていると山西から戻って来た令宣が寝室に入って来た。
「樂しそうだな…」
「あ、旦那様!お帰りなさいませ!」
「うむ、思ったより仕事が順調に進んで今朝一番に入城した」
臨波にからかわれても早く帰ろうと道中を急がせた事は内緒だ。
令宣の着替えを済ませると二人は早速朝の膳を囲んだ。
出張先の話をひとしきり語り終えると突然令宣が尋ねた。
「十一娘、今日はその髪型なのか?」
十一娘は頭に手をやると頬を染めて照れた。
「今日は明々がお休みの日なのでいつものように結えませんでした…娘時分にしていた髪型、変ですか?」
令宣は目を細めた。
妻の初々しい可愛らしさに惚れ直していたが素直に言葉にするのは気恥ずかしかった。
「いや…ふとお前と出会った頃を思い出した…あの頃はお前もよく私に反抗ばかりしていたな」
「もう…いやだ、旦那様。そんな事忘れて下さい!」
「埠頭で会った時も…私の忠告を振り切って逃げたしな」
十一娘はギクッとした。
結婚から逃げようと余杭へ行く船を探しに行った時の事だ。
「…よく覚えておいでですね…」
「尋ねる時期を逸したが、あれから何処へ何をしに行ったのだ?」
まさか彦行と再会して彼の船に乗せて貰う手筈を整えていました…などと言える筈がない。
「ん〜…何だったんでしょうか?…もう忘れてしまいました」
何だ、言えないのか?
頭の良いお前が忘れるものか。
令宣は妻の顔を疑わしそうな顔で見た。
「目が泳いでるぞ」
旦那様の目はやたら真剣です…。
「泳いでません…あ、旦那様このピリ辛の味噌を万頭に挟むと美味しいんですよ!旦那様の好みのお味です」
令宣は妻の顎をぐいと摘んだ。
「誤魔化すな」
十一娘は両手をひらひら振った。
「あ…あ…誤魔化すなんて滅相もない…」
令宣は益々疑わしそうな目で十一娘を見つめる。
この髪型のせいで夫にあらぬ疑惑を抱かせてしまった。
「あ〜ん、旦那様〜ほんとに忘れちゃったんですよ〜」
しらばくれるしか方途がないよ…。