もう完全に陽は落ちて暗くなったその旅館・泰明舘の表で数人の男達がサイコロ遊びをしている。

臨波が巡防営の兵と到着するとその中の一人がすっくと立ち上がった。

安泰だった。

臨波に近寄りそっと耳打ちした。

「女は中にいます…裏口も見張らせています」

「ご苦労だった…」

臨波が目で合図すると官兵達が音を立てず続々と踏み込んで行った。

内部に入ると痩せぎすの長身の男が待ち構えており無言で繍緣の部屋の位置を指し示した。


よもや踏み込まれるとは予想していなかったのだろう。

繍緣は咄嗟に子供を抱きかかえようとしたが、それよりも臨波達の動きが早かった。

官兵の一人が繍緣を羽交い締めにし、臨波が暖暖を抱き上げた事でこの救出劇は一瞬で終わりを告げた。


長身の男は林彦行と名乗った。

彦行は面変りしていた。

色白だった肌は日に灼け鬚を蓄えた姿に臨波でさえも一目では彦行と分からなかった。


彦行は見張りの男達は塞外から戻ったばかりの区家の身内だと紹介した。

彼らが慎重に入れ替わって尾行したお陰で繍緣に気付かれなかったのだろう。

彦行一行の協力が無ければこの宿屋も見付からず繍緣に逃げられていた。

思えば…

区家の陰謀により候爵と奥様は陥れられたが、彦行の協力で冤罪は晴れた。

一転、区一族全員が罪に問われたが令宣の執り成しで無実の者は連座による斬首を免れ都にも戻れた。

そして今日、令宣の娘は区一族の協力で救われた。

臨波はこの巡り合わせに不思議なものを感じた。


「暖暖!!」

正門に現れた臨波の腕に居る娘を見て十一娘は走った。

臨波から手渡された娘を抱きしめ泣きながらしきりに頬ずりする妻に令宣は涙ぐんだ。

長いあいだ令宣と共に戦場を駆け巡って来たが

男泣きに泣く令宣を臨波は初めて見た。

感慨に耽っていると

臨波に今度は妻の冬青が腕を預けてきた。

「えへへ…お手柄だったね!」

冬青の笑顔が可愛いかった。

「俺達も早く子どもが欲しいよな…頑張ろうな」

冬青がバシッと臨波の背中を叩いた。

「何すんだよ!痛いなもう〜この馬鹿力」

冬青は頬を赤らめていた。

「だってなによ…頑張ろうって!言い方!」


十一娘と暖暖を西跨院に落ち着かせた令宣は臨波と半月溿で協議した。

「刑部と相談したがこのままであれば恐らく繍緣一人の単独犯行とされそうだ」

「候爵…この犯罪を示唆する可能性があるのは喬公爵家ですね。動機も十分です」

「喬家は繍緣が都に入ってからは一切接触していない。証拠を残すようなヘマはしまい」

「悪辣ですね…繍緣が手元に多額の銀子を持っていた事や偽造の通行手形を所持していた事で疑いは残ります。単独犯は有り得ないですよ」

「…何とか証拠を掴まなければ」


この秋、喬蓮房は重い病だと診断され喬家が徐家の荘園から引き取って行った。

その後の消息は公にされていない。

蓮房の身柄が喬家に戻った事で喬家が逆恨みの復讐に出た可能性は否めない。


黒幕が喬家だと堅く信じ込んでいるのは徐大夫人だった。

大夫人は犯人が繍緣と聞き、可愛い孫が蓮房の恩讐の犠牲になった事に心を痛め寝込んでいた。

何もかも私が蓮房を贔屓し専横を許した結果引き起こされた事だ…。

寝台の上で暖暖の生還を聞いてやっと起き上がる事が出来た。

「杜乳母…私の罪が孫を苦しめたんだ…」

「大奥様のせいではありません…それに私の薦めた姪が失態を侵しました…若奥様に合わせる顔がありません…」

「そうだな…食事と言って厨房で長々と油を売ってたんだ…罰は免れまい」

「はい……」


徐家の長い一日は終わった。

その夜の西跨院寝室。

暖暖に乳を含ませる十一娘は幸せだった。

令宣はその妻の肩を抱いて寄り添っていた。

妻の乳を吸う暖暖の様子に令宣は目を細めた。

「やはり母親の乳は美味しいんだな…」

「これからは出来るだけ私がお乳を上げる事にします」

「だがお前も忙しい…無理をするな」

十一娘は令宣に微笑んだ。

「ううん、大丈夫ですよ…上げたいんです。勿論これからも乳母の手を借りますが…」

十一娘は涙ぐんでいた。

「旦那様、私…今日ほどお乳を上げるのが嬉しいと思った事はありません」

令宣はそっと十一娘のこめかみに口づけをした。

「私の事も忘れるな…」

十一娘はにっこりした。

「旦那様こそ忘れないで下さいね…」

忘れるものか…

令宣は妻の美しい乳房にそっと手を触れた。

気がつけば夫は妻の頭を抱え込むようにして深い口づけに没頭しているのだった。