貂紫雲がやって来た翌日の朝、

旦那様が半月冸に行ってしまわれる。

私の朧げまなこにはその後ろ姿しか見えなかった。

私はゆっくりと起き上がると寝間着のまま洗面を終えて鏡台の前に座った。

そして昨夜夫に乱されてもつれた髪を梳った。

それにしても静かだ。

小鳥のさえずりしか聴こえない。


隣からいつもの桔梗と明々の声が聴こえてこない。

見れば桔梗も明々も書き物机の端で居眠りしていた。

自分の寝坊を棚に上げ私は笑いながら二人を叱った。

「こらこら何時まで寝てるの!」

「ふあ?……」

桔梗は半眼を開けこちらを見上げるとバネ仕掛けのように飛び上がった。

「あっ!!奥様!申し訳ありません!!」

立ち上がると隣の明々を揺さぶって起こした。

「もう日は高いわよ…髪を結って頂戴」

「す、すみません!」

二人は猛省しながらテキパキと動き出した。


「珍しいわね…あなた達が居眠りなんて…」

明々は器用に手を動かして十一娘の髪を結い上げていく。

明々は都で髪結い処を経営するのが夢だと言う位髪結いが得意なのだ。

彼女に任せてから十一娘の髪は乱れた事がない。

「それが不思議なんです…旦那様が奥様をお起こししないようにって言いつけて出ていかれたら、急に二人とも眠けが襲って来たんです」

桔梗も相槌を打った。

「弁解になりますが本当に不思議な位眠くなりました」

日頃勤勉な二人なのに突然どうしたんだろう。

「そうなの…私も寝坊したからおあいこね…」

十一娘は笑って慰めた。


この部屋に入った途端…?

私はある疑惑を持った。

昨夜の旦那様…、そして起きられなかった私。

旦那様はいつもとても優しいけれど…。


昨夜何度も睦み合い令宣がようやく妻の身体を離したのは夜明けが近づいてからだった。

気だるさと眠気でそのまま熟睡してしまった。


十一娘は寝室の窓辺に行くと暖閣の小机にある香炉を調べた。

香炉の蓋を開けるととうに火は落ちて灰色の燃え滓だけが残っている。

次に窓辺に置いた香箱を開いた。

いつもの香木の上辺に少し色合いの違う破片が残っていた。

これにピンと来た十一娘はその香箱を風呂敷に包んだ。

昼食をとりに西跨院に戻って来た令宣に十一娘は訊ねた。

「旦那様、午後から香を選びに参りますが旦那様もご一緒にいかがですか?」

「ほお…香か、いいな。ここのところ忙し過ぎてお前を構ってやる暇がなかった。久しぶりに都大路を二人で散策するか」

「はい!」


仲睦まじく手を繋いで大通りを歩くと心が晴れやかになる。十一娘が確認するように手のひらに力をこめると令宣も握り返してくれる。


芳薫堂と看板の上がった老舗が徐家御用達である。

二人がその暖簾をくぐると店主が奥から出て来て自ら出迎えた。

「これは徐候爵様、若奥様。ようこそお越し下さいました」

十一娘は辺りを見廻すと店主だけに聴こえる小声になった。

「ご亭主、実は見て頂きたいものがあります」

店主は彼女の様子に改まった顔になった。

「左様でございますか。それではこちらへどうぞ」

亭主は奥まった部屋へ二人を案内して椅子を勧めた。

「奥様、ここでお話下さいませ。外には漏れません」

「お気遣いありがとう」

「いえいえ、早速お伺い致しましょうか…」

十一娘は双方の間の卓上に風呂敷を置いて包を解いた。

「これを見て下さい。私が購入したものではない香が乗せられています」

隣の令宣の顔に緊張が走った。

「十一娘…!」

「旦那様、今朝部屋で見つけました」

亭主はその香を指先で摘み上げ色形を見た後鼻先で嗅いだ。

「候爵様、奥様…申し上げにくいのですが…」

令宣が先を急かした。

「ご亭主、遠慮なく言ってくれ」

「これは間違いなく媚薬です」

二人の顔に緊張が走った。誰が…何の為に…。

「これは、口にするのも憚られますが後宮で妃嬪が使用したり、或いは妓楼で内緒で使われるものでご禁制品です。…紅双夢と言われる媚薬でして男と女では及ぼす効果に違いがあります。女は眠気を誘われるだけに留まりますが、男は…言うまでもありません」

十一娘が尋ねた。

「毒…なのですか?」

「無論この手の薬材が身体に良い訳は有りません。数回使用する位なら宜しいが幾度も重ねると心の臓に負担をかけます」

令宣は十一娘を見た。

「これを入れた者に心当たりはあるか?」

十一娘は頷いた。

「恐らく…」


深刻な顔の二人に亭主が忠告した。

「奥様、悪意か否かはさて置き、外部から持ち込まれたものなら候爵様が解決して下さる事でしょう。これは私が責任を持って処分致します。奥様は帰られたら香炉の灰をお棄て下さい。これ以上のご心配は無用です。お忘れ下さい」

二人は立ち上がり亭主に礼を言った。

「ありがとう。ご亭主のお陰で助かりました」

「何を仰いますやら。こんな事でお役に立てるものなら何時でもご相談下さい」

店頭に戻り何時もの注文を済ませて表に出た十一娘に令宣が尋ねた。

「昨日と言えばあの役者か」

「はい…貂紫雲かと…部屋に入ってくる寸前に窓辺近くに潜んでいましたから香箱に手を伸ばせます」

「一体何が目的なんだ…」

「私もそれが不思議なんです。…迂闊でした…ともあれこれを教訓としてこれから香箱を置く場所を考え直します」

「そうだな。何が起こるか分からぬ。用心しなくてはな…」

「ただ、彼が犯人だという確たる証拠もありません。考えてみたんですけれど、あの人はもしかしたらいつもの習慣であの香を持ち歩いていたのではないでしょうか。昨日は身体検査をされると思って咄嗟に処分したのかも知れません」

令宣は感心した。

「なるほど、それが一番納得出来る答えだな…」


令宣達は都大路を歩きつつ明るい日の光を満喫していた。

令宣が指差した。

「そこに茶店がある。お前が好きな団子でもどうだ」

「いやだ!…団子がお好きなのは旦那様じゃありませんか!私にかこつけないで下さいますか?」

「無理するな。お前の好きな団子を食べに行こう」

十一娘は赤くなって周囲を見廻した。

「もうっ!大きな声で仰らないで…恥ずかしい…もうっ…」


令宣は一人思っていた。

媚薬など必要ない。

私はお前を一晩中離さない自信があるのだと。