「桔梗、この方を昨日の音楽堂までご案内して上げて


「はい」

紫雲はまた一段と腰を低くして頭を下げた。

「ありがとうございます…」

庭園に向かって歩くそのなよやかな姿を見ながら十一娘は彼の柳腰に感嘆した。

女性でもあのように華奢で儚げな風情は出せない。

桔梗の方が余程男らしく映るので可笑しかった。


桔梗の出自は徐家古参の歩兵の家である。

彼女は幼い頃からその父に仕込まれ一通りの武芸に通じている。

令宣がそこを見込んで十一娘の侍女に命じた。

侍女として唯一屋敷内での懐刀を赦されている。


紫雲は桔梗に付いて歩いていたが途中の分かれ道まで来ると立ち止まった。

「ありがとう存じます。ここまでご案内頂ければ後は一直線ですので場所は分かります。どうぞ若奥様に宜しくお伝え下さい」

桔梗は頷いてもと来た道を戻った。


西跨院に居た十一娘は桔梗がいつになく緊張した面持ちで帰って来たことに異変を感じた。

「桔梗、どうしたの?」

桔梗はシッと唇に人差し指を当てた。

「奥様、ご用心下さい」


背後から西跨院に忍んで来たのは貂紫雲だった。

桔梗は懐から懐刀を出し目にも止まらぬ素早さで鞘をなぎ払うと紫雲の首に白刃を押し当てた。

「跡をつけていたのは知っている!奥様の部屋に来て何が目的だ!」

紫雲は怯えて涙目になりその場にヘタリこんだ。

「お…お許し下さいませ…お、奥様のお部屋に入らせて頂くにはこの方法しかないと思い詰めました…どうかお許し下さい…」

桔梗は容赦なく刃を押し付けた。

「若奥様を徐大将軍の奥方様と知っての狼藉か!」

紫雲は力なく涙を浮かべている。

十一娘は桔梗の腕にそっと触れた。

「桔梗…違うのよ。彼の目的は旦那様だわ…」

「え!?どういう事ですか?」


へたり込んだ紫雲が刃を突きつけられたまま答えた。

「はい…昨日候爵様がお手に取られた花をたとえ一輪でもわたくしに頂戴出来ないかと、恥を忍んで参りました…」

「はあ〜〜〜っ?」

桔梗は目玉を剥いてその告白を聞いた。

「なんだってぇ〜?あんたが旦那様を?」

十一娘は桔梗を制して一旦懐刀を下げさせた。

桔梗もこの優男に反撃能力などない事は見抜いているので素直に主人に従った。

例え反撃されても素手で倒す自信がある。


「紫雲さん、貴方が旦那様を思っている事は気付いていました」

紫雲はくったりとしていたが観念したのかその情念を湛えた瞳に涙を浮かべて告白を続けた。

「候爵様を一目見た時から恋慕の情消え去らず…でも、でもこの卑賤の身は候爵様に近寄ろうなどと畏れ多い考えは持ち合わせません…昨日も候爵様が公演の間中奥様のお手を握っておられた事を存じております…どうか…どうか…この痴れ者と罵って頂いても結構ですから…」

後は嗚咽が響いた。


十一娘は暫く沈黙していたがやがて

昨日の花を挿した花瓶から数本の花を選び取り、紫雲に差し出した。

紫雲は震える手で花を受け取ると十一娘を救われたような瞳で見上げた。

十一娘は優しい声で諭した。

「苦しい恋をしているのね…心ほど自由で、心ほど自分の思い通りにならないものはないわ。お帰りなさい。もう此処へは来てはいけない…桔梗は強者よ。貴方の身が危ういわ」


紫雲は頷くとよろめきながら立ち上がり何度も何度も礼を言い頭を下げて出ていった。

桔梗が「脇門まで連れて行きます」と跡を追って行った。


十一娘はその夜令宣にすべてを話した。

「お前の身に何もなくて良かった…。桔梗に褒美をとらせろ」

「はい、そうします。旦那様が配慮して下さって助かりました…それにしても…」

「それにしても…なんだ?何が言いたい」

令宣は笑って妻を抱き寄せた。

「旦那様さすがです!都一の西施を虜にするなんて」

令宣は苦笑いをした。

「よせ!そんな事で喜べる訳がないだろう…令寛じゃあるまいし…」

そう言うと、ふと真面目な顔になって十一娘を抱く腕に力を込めた。

「知ってるだろう?私はお前しか愛せないんだ…今夜何度でもそれを証明してやる」

令宣は妻の寝間着の襟に手を掛けた。

「え…?あ、嗚呼っ…旦那様…」


翌朝、桔梗と明々が現れると令宣一人が既に身支度を終えて半月畔に行くと言い残して出て行った。

「奥様はまだお休みだ。お疲れだから起こさないように」


旦那様が去った後、桔梗と明々は同時に肩をすくめた。

「やれやれ…」


その後、貂紫雲は江南の有名劇団に引き抜かれ籍を移して都を離れた。

徐家では令寛一人がしきりに残念がっていた。