これから行く仙綾閣は永平公爵夫人の店…。


こんな事になるならもっと上等な物を着て来るべきだった…。

子衿の頭に浮かんだのは先ずそんな事だった。

地味で冴えない女だと思われたくない。


向こうは私の事など露ほども知らないのに。

子衿は情けなくなった。

こんな時に人間は本音が出るのだ。

人間は中味が大切だ、見栄を張るなど愚かな人間のする事だと高を括っていてもいざとなればこの体たらく。

子衿はそっと頭に手をやり、せめて乱れ髪がないかと整えた。


仙綾閣は大層賑わっている店だった。

上客が揃っているのか皆身に着けている物が品よく垢抜けている。

子衿は益々身の置きどころがないような気がして来た。

「いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか」

店の奥から落ち着いた印象の女性が微笑みをたたえながら現れた。

義姉が説明している間その女性を観察していたが人を逸らさない受け答えといい人を安心させるような微笑みといい子衿さえ先程までの警戒心を解いていた。


「一着持っているとどんな場所でもお召し頂ける色と柄だと思います。これで羽織ものはいかがでしょう」

義姉は掌でその女性を指した。

「簡先生の作品ですか?」

女性はぱっと顔を明るくした。

「いえ、これは徐羅先生の作品です」

義姉は興奮して扇子で口を押さえるようにして再びその絹を覗きこんだ。

「徐羅先生の…んまあ…徐羅先生の!」

義姉はそれを繰り返した。


美しい枇杷色の地に同系色の小花が散らされた絹は控えめでありながら決して埋もれてしまわない華やかさを備えていた。

子衿でさえその美しさを眺めていると先程までの憂鬱が溶かされてゆくような心地がした。


義姉がその時突然店内に友人を見つけたと言って席を立った。

一人にされて私は余程居心地の悪い顔をしていたのだろう。

簡先生という方が私の気持ちを引き立てるかのように穏やかに声をかけてくれた。

「こういう生地選びは慌てないで時間をかけてゆっくりと見るのがコツなんですよ」

その時、簡先生が私を非常に優しい目で見ている事に気が付いた。

「この刺繍をした徐羅先生はどんな方なんですか?

…候爵夫人ですもの、きっと大家のお嬢様なんでしょうね?」

候爵夫人がこの店の経営者であると聞かされた時から思っていた。

きっと誰もが羨む境遇。

深窓の令嬢が玉の輿に乗り潤沢な資金にあかして趣味の店の経営者に名を連ねる…。

私の言葉には羨望と多少の棘が込められていたかも知れない。

簡先生は微笑みを絶やさないで静かに語り出した。

「この仙綾閣は今でこそ順調ですがこれまで波乱万丈でしたのよ。私と同じく徐羅先生も火の粉を勇敢に搔い潜って来た娘なんです……。

人が生きるのは苦役に過ぎぬと言いますものね。

それは天上人であっても私達のような境遇でも同じだと思いませんか?

私達の仕事はせめてその人生に彩りを添えて明るい顔で過ごして頂けるようにお手伝いする事なんです」

簡先生は立ち上がると傍らの小抽斗から一枚の手巾を取り出した。

手渡された艶のある繭色の絹には見事な淡紅色の薔薇の刺繍が施されていた。

「これをお持ち下さい。今日お会い出来た記念に差し上げます。こうした小物を手にしていると気分も華やかになりますし歩くお姿に気品を添える事が出来ます」

子衿は自分には普段手巾を手に歩く習慣などなかった事に気付いた。


簡師匠はこの女性が来店した当初から気になっていた。

誰もが絹選びに胸を躍らせながら入って来るこの店で何故か一人暗い顔をしていたからだ。

話をしているうちに少し明るくなって帰って行ったその後ろ姿を簡師匠はほっとして見送った。


その絹を注文する事にし、義姉に送られて屋敷に戻った私を夫が出迎えてくれた。

今日行った先が仙綾閣である事を話すと夫の口から思いもかけぬ話を聞かされた。

密輸疑獄事件。

仙綾閣経営者二名が獄中の人となったこと。

永平候爵が真相を明かす為に自らも追われる身となった事。

夫人が斬首寸前で冤罪が晴れたこと等など…。

これらは朝廷では知れ渡った事実だと言う。


子衿は恐ろしかった。

今日見た華やかな世界からは想像も出来ない。

あの優しい簡先生が獄舎に繋がれ

侯爵夫人があの若いみそらで断頭台に立ったとは。

彼女はその命で夫を救おうとし夫も彼女の為に命を縣けた。

三者共に何と言う激しい生き様だ。


永平候爵が妻以外に妾を持たないと決めたのは自然の成り行きだったのだ。

二人の間にはつけ入る隙などないのだから。


他人を羨んだり妬んだり

私は自分の手に入らないものを数えて自分を苦しめて来た。

そんな私でも穏やかな夫との暮らしを手に入れて少しは変われるのだろうか。


子衿は薔薇の手巾に小さな幸せを感じている自分が前より少しだけ素直になった気がして一人微笑んだ。