令宣は久々に夜の都督府軍営に居た。
都督検事執務室の背後にある令宣の当直室にも粗末な寝台がひとつ置かれてある。
溜まった書類に目を通し終え、令宣は立ち上がると背伸びをした。
そのまま厠へ行き身体を湯で拭き清めた。
再び検事室の扉を開けた途端、令宣は異質な気配に気付いた。
殺気ではない。
殺気とは違う何かがこの部屋に忍び込んでいる。
猫か?
いや、人だ…。
人が息づいている。
それは後ろにある宿直室から伝わって来た。
令宣は壁に掛けた剣を静かに手にした。
宿直室への扉を開くと寝台のほうに目が吸い寄せられた。
気配の元はそこだ。
白っぽい何かが横たわっている。
令宣が入って来たのにそれは身動ぎもしない。
手にした燭台を前にかざす。
「何者だ」
令宣は侵入者の顔の前に剣の切っ先を突き付けた。
見も知らぬ女が下着をはだけた姿で横たわっていた。
令宣の足元には女が脱ぎ捨てた衣が散っている。
女はゆっくりと上半身を起こすと身をくねらせた。
肩紐は肩から外れ、たわわな胸が露わになり櫻色の乳輪が覗いている。
「将軍様、わたくしです」
令宣は再び同じ質問を繰り返した。
「何者だ」
女は三十を幾つか超えた年かさに見えた。
女は潤んだ目を令宣に向けた。
「先日、お助け頂きました妙音房の女将、華蘭です」
令宣は無表情に詰問した。
「どうやって侵入した?」
「門衛のお役人様にお夜食を差し上げました。これを奥様から将軍様への差し入れだと言ったら通して下さいましたよ」
女は平然と枕元の酒と酒肴を指さした。
客に音曲と舞を提供する妙音房は先日騒乱があり巡防營の見廻りの兵が出動した。
たちの悪いやくざ者が辺りを仕切っておりみかじめ料を支払わない妙音房で暴れたのだ。
その日巡視していた令宣がその場を指揮した事があった。
女将は肩紐を更に下げて白くぽってりとした乳房を見せつけると妖しくも淫らな笑みを浮かべた。
「あの日見事に采配して頂きわたくし共心から感謝しているのですよ…今夜はそのお礼に参りました。奥様はご懐妊中とか…どうかわたくしの真心をお受け取り下さいませ…」
瞬間辺りを凍らせるような冷たい声が響いた。
「失せろ!」
令宣は剣の先で床に散らばった衣を掬い取ると女の上に投げつけた。
「二度と現れるな」
令宣がさらに酒瓶を剣でなぎ倒したのでその凄まじい怒りを見て女は震え上がった。
令宣は検事室を出ると宿直の兵舎まで一直線に向かった。
「今夜の門衛は明日軍規に照らして処罰する!首を洗って待っておれ!」
宿直達はざわめいたが令宣は振り向かず帰宅の途についた。
夜半になり西跨院に帰宅した令宣を寝間着姿の十一娘が出迎えた。
十一娘は令宣の軍服を脱がせながら問うた。
「旦那様、今夜は都督府にお泊まりではなかったのですか?照影が知らせて来ましたが」
「予定が狂った。明日一番に軍営へ戻る事にする」
十一娘は令宣の表情が硬い事に気付いていた。
彼女は温かい茶を令宣の手に握らせた。
「今夜は冷えますね。生姜茶をどうぞ。温まってからお休み下さい」
令宣は一服すると寝台に横たわった。
十一娘が隣に身を滑らせると令宣は腕を伸ばしその温もりを引き寄せて抱いた。
彼は目立ってきた彼女のお腹を愛おしそうに撫でた。
暖暖の弟が宿っているのだ。
十一娘は先頃梅翠楼のかむろという幼い少女の訪問を受けた。
少女は梅翠楼の燕燕という芸妓の付き人だと名乗って小綺麗な名刺を見せた。
永平候夫人に直接手渡すように頼まれたと言って小さな風呂敷包みを渡された。
燕燕という芸妓も知らないし貰ういわれは無いと断ったが渡して帰らないとお姐さんにぶたれると泣かれたので十一娘は慌てた。
中身を確かめるから待つようにいい
風呂敷包みを開けると一冊の草子が現れた。
一見何の変哲もない普通の読み物の類に見えたが、中身を読んで驚いた。
懐妊中でも夫を喜ばせる閨房の技術について微に入り細を穿つ文章が綴られていた。
十一娘は真っ赤になって草子を取り落としたが、かむろは草子を拾ってチリを払い再び十一娘の手に握らせた。
「お願いします。受け取ってくれないとお姐さんに折檻されます」
涙を浮かべる少女を見て十一娘は溜息をつきながら少女の頭を撫でた。
「分かったわ。受け取るから泣かないで…」
駄賃だと言って菓子の袋を持たせると涙を浮かべたのは演技だったのかコロッと満面の笑みを浮かべて飛ぶように帰っていった。
燕燕という芸妓が何の積りでこれを渡してくれたのかずっと疑問だった。
「旦那様…実は旦那様にお伝えしないといけないことがあります…」
令宣は十一娘の額に唇をつけながら尋ねた。
「なんだ?言ってご覧」
「この前見知らぬ芸妓からこの本を預かりました」
十一娘は頬を赤く染めて起き上がり
枕元に隠してあったその草子を恐る恐る令宣に見せた。
令宣はサッと目を通すと驚愕した。
彼も起き上がって妻に向き直るとその両肩を抱いて説いた。
「十一娘、私はお前がこんな下賤なものを読むのは賛成出来ない。何も考えなくていい!お前が私の隣に居てくれるだけで私は満足なんだ。私は決してお前を裏切らない」
「旦那様…分かっています。私の為に妾も置かずに私だけを愛して下さっています。でも、でも私も旦那様に負けない位旦那様を愛しているんです…」
「十一娘…」
「ですから、、、旦那様を喜ばせて差し上げたいんです。この本はほんの少し目を通しただけです。恥ずかしくて…あゝ…でも…旦那様…」
「十一娘…」
燕燕はあー久しぶりに良いことをしたと自己満足に浸っていた。
燕燕は妙音房の女将が永平候爵に横恋慕している事を聞きつけていた。
何とかあの色狂い女将の魔の手から夫婦を守る算段をと巡らせた結果この方法に辿り着いた。
夫婦が固く結び合わさっておれば怖いものなしだ。