じれじれと表で待っていた十一娘は誰も出て来ない奥の様子を伺っていた。

すると突然、先程の波斯国人が猛烈な勢いで意味不明な異国の言葉を喚き散らしながら飛び出して来た。

頭のてっぺんに布を巻き付けた顔がどす黒く、顔を覆う髭が恐ろしい。

十一娘は咄嗟に逃げようとしたが遅かった。

それよりも早く男は十一娘の背後に廻り込むと首を右手で締め上げた。

左手は腰から抜いた小さい半月刀を握りしめている。

「奥様っ!」

男を追って来た萬大顕が叫んだ。

萬大顕の後ろから楊謙が必死の形相で走ってくる。


十一娘には既視感があった。

十五になった年、余杭から都に帰る途中の街で

海賊遼勇に囚われこんな格好で太鼓橋まで連れて行かれた。

あの恐ろしかった経験をまた再び味わうなんて…。

男の腕が十一娘の頸動脈にぐっと力を入れた瞬間、彼女は失神した。


その直後、男が悲鳴を上げて十一娘を放り出した。

男の左肩甲骨の辺りに矢が突き刺さっている。

地面に叩きつけられようとしていた十一娘を目にも止まらぬ早業で掬い上げたのは楊謙だった。


駿馬に跨がった令宣が駆け込んで来た時、

楊謙は十一娘を抱いて「徐羅先生!」と叫んでいた。


令宣は冷静だった。

「臨波!捕らえろ。急所は外してある」

副将は部下に合図し男は取り押さえられた。

「臨波、後の事は頼むぞ」

臨波は胸を張った。

「任せて下さい。将軍は奥様を保護して下さい」

「うむ」

萬大顕が店の奥を指し示した。

「傅将軍、賊はこの奥です。地下の隠し部屋に大勢捕われてます!」

「よし、見張りは残れ。裏口に廻って封鎖しろ。突入して確保するぞ!」

「「はっ!!」」

臨波の号令で巡防營の官兵達が雪崩を打って突入して行った。


野次馬が集まる中、楊謙はまだ失神している十一娘を抱いていた。

楊謙の頭上から声がした。

「すまない。助かった」

令宣は腰を降ろすと楊謙の腕から彼女を引き剥がして自分の胸に抱いた。

「私の妻だ。感謝する…」

楊謙は愕然とした。

楊謙でも一品軍候・将軍徐令宣の顔は知っている。

徐羅先生…とは…

永平候爵・徐令宣の奥方だったのか…!


将軍は妻を横抱きにしたまま立ち上がると颯爽と行ってしまった。

残された楊謙は次第に腕から失われてゆく彼女の温もりと残り香を名残惜しく感じながらその後ろ姿を見送り首を垂れた。


想った女人は他人のもの…。

俺もそろそろ潮時かな…。

伯母が勧める見合い話を受けても良いのかも知れない。

切ない思いを噛み締めていると

またもや頭の上から今度は萬大顕の野太い声がした。

「おい、さっきは驚いたぞ!お前が暗がりの中で必死に隠し部屋を探している姿には…」

楊謙はやっと立ち上がって衣の埃を払いながら笑った。

「そうとも、まさか店の地下にあんな牢獄みたいな部屋があるとはな…しかも店の裏側から反対側の路地に出る通路まで作りやがって…奴らはあれで非合法な人身売買を長年やってたんだな…奴らの仲間があの人数で助かったな。あれ以上なら俺達も無事では済まなかったぞ」

「まあ、後は傅将軍がやってくれるさ…」

二人は顔を見合わせて朗らかに笑った。


ゴトゴトと馬車の振動が伝わって来て十一娘は気がついた。

まず令宣の切なそうな顔が目に入って今自分が彼の膝の上に抱かれているのを知った。

「旦那様…」

「気が付いたか?」

起き上がろうとしたが令宣は腕を緩めない。

「起きるな。頸をやられたんだ。このまま屋敷まで休んでいろ」

仰向けになったまま十一娘は尋ねた。

「一体、何が起こったんですか…?」

「余り今は考えるな……首は痛くないか?頭はどうだ?…帰ったらすぐに太医に診て貰おう」

十一娘は過保護な夫にクスリと笑った。

「大丈夫ですよ、旦那様にこうして優しくして貰ったら全部治りました!」

「本当か?」

「ええ!」

「治ったかどうか調べてみよう」

令宣はそう言うとそっと彼女の額に口づけた。

十一娘は茶目な様子で下からからかった。

「それ位で治ったかどうか分かるんですか?」

「分からないものだな」

令宣は悪戯っぽく笑った。

夫は彼女の上に覆い被さると今度は本気で確かめようとするかのように何度も何度もついばむような口づけを繰り返した。



後日彼ら波斯国人と仲間の漢人達は都内外に拠点をあちこち作り山東の倭寇が潜伏する村にまで奴婢として人を売り捌いていたことが判明した。

彼らは芋づる式に検挙され拠点も壊滅させられた。


しかし犯罪者達は記録を遺して居らず

結局、三名があの店に行ったのかさえ分からず仕舞いだった。


楊謙は綿密な調べによって犯罪を炙り出した功労により二階級特進となった。

楊謙の仲間でその出世にも関わらず彼の溜息が増えた事に気付いた者はまだ居ない。