戸部の新任主事楊謙は大通りに面して人の出入りが絶えない仙綾閣を見上げていた。

陛下直筆の扁額「天下一繍房」が目を惹く。

楊謙にとって女性達が多く出入りする繍房に足を踏み入れるのは容易い役割ではなかった。

早くに母を亡くし女きょうだいも居らず、やもめの父と兄弟に囲まれて育った楊謙は一瞬目眩に見舞われそうになった位だ。

さっさとこの役目を終わらせよう…そう心に決めて階段を上がり一歩玄関へと入った途端見事な刺繍品がそこここに飾られた花園のような光景に思わず足が止まった。

美しく着飾った女性達があれこれと品を手に物色する華やかな姿、彼女達が振りまく香の匂い。

戸部の役所の埃臭い部屋で文書に囲まれて墨をすっておれば良かったと後悔してももう遅い。

後輩に頼まれて現場仕事に応じてしまった迂闊な自分が恨めしい。

とりあえず受付と覚しき場所の女性店員に声を掛けた。

「戸部から調査に参った。この店の支配人はおるか」

店員は楊謙の人相や身なりにさっと目を走らせると頭を下げた。

「お役人様、只今ご案内致します」

女性店員は更に腰の低そうな若い男の店員に目で合図した。

男性店員が先に立ち「こちらへどうぞ」と案内する。

連れて行かれた先は書棚のある小部屋で真ん中に置かれた机の前にやや年増の主と覚しき女性が座っていた。

楊謙が入ってゆくと女は立ち上がり丁寧に挨拶をした。

「これはお役人様お役目お疲れ様でございます。私が仙綾閣で実務を担当しております簡清露と申します」

「お主がここの主か」

「はい、共同経営者でございます」

「では、もう一人居るのだな?」

簡師匠は一瞬目を見開いた。

仙綾閣が永平候爵夫人の店と知らない者が入って来た事に驚いた。

「左様です。月に三回程こちらに参ります」

「では、その者も呼んで貰いたい。調査に遺漏があっては困る」

簡師匠はどうしたものかと思案したが、結局弟子に命じて十一娘を呼びに行かせる事にした。

余り時を置かず徐家の馬車が到着した。

部屋へ入って来た十一娘を見て楊謙は驚いた。

身なりは既婚者だが想像していたより遥に若い女だった。

この仙綾閣の繁盛振りを見てもっと年配者が来るものと思い込んでいたので訝しく感じた。

極く淡い萌黄の着物に薄化粧の若夫人は楊謙の目に眩しく映った。

身体から発する清々しい香りが彼の鼻腔にまで届いて楊謙は若干の動揺を来した。

「徐羅十一娘と申します。お役人様この度はお役目お疲れ様です。何なりとお尋ね下さい」

礼儀正しく余計な言葉を発しないその態度は彼の知る女性の誰よりも賢そうだった。

彼は日頃屋敷でくだらないことを姦しく喋り散らす女中に辟易としていた。

楊謙は我に帰ると鹿爪らしく本題に入った。

「ここのところ、都に流入する在郷者が増加している。先祖伝来の田畑を棄てて都に入ったものの食い詰めて犯罪に手を染める者も多い。戸部では戸籍改めを行い不法滞在者を洗い出すつもりだ。仙綾閣が調査対象となったのは戸部の調べで難民の女子を多く職人として在籍させているからだ」

畏まって聞いていた十一娘は頷いた。

「誠にその通りです。仙綾閣は難民出身の在籍者の名簿を戸部の役所に提出しております」

「早速、その職人達を一人一人此処へ呼んで貰いたい。名簿と照らし合わせたい」

簡先生が呼びにやり一人づつ検分されていった。

「ここまでは正確だった。ところでこの名簿に記されている者のうち、この3名が朱で抹消されているが?」

「それは先年辞めて行った者達です」

喬夫人の間諜に唆されて最終的に戻って来なかった三人の難民達だ。

「辞めた…とは何処へ行ったのだ?」

徐羅氏は困った顔をした。

「それが行方が分からないのです…」

楊主事はここではたと十一娘を見据えた。

「分からないでは済まない。この都では現実に届け出の無い奴婢の闇の売買が行われている。それこそが問題なのだ。此処でそれが行われていないと証明出来るのか?」

彼女らは農民であって奴婢ではないので奴婢名簿には乗らない。

それを闇で売買するとなればご法度の人身売買だ。

「突然辞めて行ったのです。辞めた日にちについては給金の元帳を調査して頂ければ分かります」

「…給金元帳を此処へ」

調べは時間をかけて綿密に行われた。

辞めた経緯についても質問された。

これは喬家の陰謀に触れる事になり事を荒立てたくないと十一娘は咄嗟に判断した。

十一娘は事実を敢て伏せ彼女らが給金について不満があって辞めたとした。

ところが楊主事は納得しなかった。

「給金の元帳を見たが市中の平均と比べてそう低い金額ではない。難民として出て来た女達が不満を持つとは考え難い。今そちらが申告した理由が正しいのか、誠に辞めたのか、何処へ失踪したのか改めて調べる余地がありそうだな」


この堅物の役人はどんな些細な事も見逃さない。

もう既に日も暮れている。

これは面倒な事になってしまった…。

十一娘は困り果てたが顔にも出せずに居た。