翌日、尹清は渋る父を急かして徐府を訪れる事にした。

「遠慮する事ないわ。彼にとってお父さんは生命の恩人なんだから」

「そうは言っても人様の屋敷は肩がこる…」

「彼のほうから持ち掛けたのよ、心配ないって…」


十数年ぶりに訪れた徐府の正門はやはり威圧感があった。

しかし心配は無用だった。

門衛は二人が名乗り訪うと頭を下げ慇懃に奥へと案内してくれた。

まず福寿院の客間へと案内され、そこで大夫人から二人に大層な歓迎の言葉が告げられた。

「ようこそお越し下さいました。ご無沙汰しておりました。その節は令宣が大変お世話になりありがとうございました。徐家は先生の御恩を忘れた事はありません。そして團様、お嬢様、お国の為に長いあいだお勤めご苦労さまでした。都にご帰還誠におめでとうございます。お住まいがお決まりになるまでどうか此処を我が家と思ってゆっくりとお過ごし下さいませ」

令宣からの言い付けで南蓮院という離れの屋敷を用意してあると言う。

挨拶など無用で出入りも自由にと言われた。

早速南蓮院に荷物を運ばせ休ませて貰う事になった。


南蓮院は心地よく整えられていた。

静かな庭からは小鳥のさえずりしか聴こえて来ない。

円卓の上には茶や菓子、そして果物が盛られた籠が置かれていた。

書棚には興味深い読み物まで揃っている。

「おい、なんとも結構な待遇だな…」

今朝まで驛站の黴臭い薄暗い部屋に寝起きして食事も粗末なもので辛抱していたものだから余りの違いに面食らうばかりだった。

「これも偏にお父さんの人望よ…彼戦場では本当にお父さんの医術に助けられたっていつも感謝してたもの」

尹清は笑ってゆったりした暖閣に寛いだ。


それにしても彼はいつ来るのだろうか。

先程数人の召使いによって昼餉が運ばれて来た。

食べ切れない数の皿が運ばれて来て尹清達は断るのに苦労した。

それより彼の顔が見えないと不安だ。

一先ず彼と話して落ち着きたい。

この広大な屋敷内の何処に行けば令宣に会えるのか。

もしかして彼は私達に落ち着く場所を提供した事で満足しているの?

だから会いに来ないの?

尹清は次第に苛立って来た。


「お父さん、私ちょっと散歩してくる」

「おい、あまり勝手に彷徨くなよ」

「自分の家だと思えって言われたわ。散歩ぐらいいいでしょ」

南蓮院から出て歩くと両側に竹藪のある小道がありそこを抜けたところから林と花園が広がっていた。

はて、この広大な屋敷内の何処を探せば令宣に会えるのだ。

通りかかった下働きの少女に声を掛けた。

「ちょっとあなた、徐候爵は何処にいるの?」

「は、旦那様ですか」

「そうよ、徐令宣候爵。もう夕方だから帰って来てるわよね?」

少女はいささか鈍いのかきょとんとしていたがやがてまっ直ぐにある方向を指差した。

「あっちです」

「あっち?」

「ご案内します」

少女はかなりの距離をずんずんと歩き辿り着いた半月型の門をいくつか潜り抜け、ある大きな庭の片隅に出たかと思うと正面の屋敷を指差した。

「ここで見てれば旦那様が来ます」

ここで見てれば来る?訳分かんない事を言う子ね。

「ありがとう。あなた名前は?」

「梅香です」


彼女の言う通りそこから香が焚かれた部屋に人影が見える。

まるで少女のように若い女性が熱心に刺繍をしている姿が目に入った。二人の侍女たちが側で糸を巻いたり女性に何やら話し掛けたりしている。

中心にいる彼女がふいに手を頭にやり簪を直した。

見たこともない見事な翡翠の簪は翠に艶々と光を放ち彼女のこうべを飾っていた。

その時

彼女の上に男の影が差して彼女が振り向いた。

その顔はこの上もなく嬉しそうに輝いた。

「旦那様!お帰りなさいませ」

彼女が立つと、侍女達は潮が引くようにその場から消えて居なくなった。

令宣の手が彼女の背中をかき抱く。

「会いたかったか?」

「ええ…勿論です」

彼女はためらう事なく夫の首に両の腕を巻き付けるとうっとりと瞳を閉じ誘うようにほんの少し唇を開いた。

令宣と彼女はひとつの影となった。


「なんてこと…」

尹清は頭に血が昇った。

なんなの、あれを私に見よと言うの?

馬鹿にして!

むっとして先程案内してきた梅香という少女を振り返ると少女の姿はかき消えており影も形もなかった。


尹清は足早に南蓮院に戻ると早速父親に向かって言った。

「お父さん、さっさと家を探して早く此処を出ましょ!」

父親は悟ったように含み笑いをした。

「そうだな…いくら快適でも他人様の屋敷は落ち着かん。なるべく早く決めるさ」

私が散歩から帰って急にそんな事を言い出したのに父は理由を聞きもしない。

父には娘の考えなどとうにお見通しだったのだ。

私はそれに気付いて急に恥ずかしくなり顔を背けてしまった。

「そうね、、いい家が見つかるといいわね…」

「見つかるさ、きっと」

(お前に相応しい相手もな…)

父親はその言葉を飲み込んで娘に微笑みかけた。