あの時どうして断ってしまったのだろう。
母が悲しそうな顔をする度、後悔の念が押し寄せた。
もうあれから一年余りが経とうとしている。
子衿は幼い頃から美貌と頭の良さで両親の自慢だった。
まだ数えの七つで白居易や韓愈の詩をすらすらと諳んじてみせると家族は皆大層喜んだものだった。
父親は下級役人に過ぎないが鳶が鷹を産んだと長じてどんな大家に嫁ぐのだろうと親類も期待を寄せていた。
その美貌と才知が評判になりそこそこの家からも縁談を持ち掛けられた。
ところが最初は両親が、次いで本人が
あの人はダメ、かの家は嫌だと選り好みしているうちにとうとう花の盛りを過ぎてしまった。
そうなると後添いや妾の縁談しか来なくなってしまった。
ここまで粘ったのだ。
今更引けないという気持ちが余計に子衿を縁遠くしてしまった。
そんなある日仲人が身を乗り出すように積極的に持ち掛けてきた縁談があった。
聞けば、相手は永平候爵で子持ちではあるが後妻と他に年嵩の妾が一人いるきりだと言う。
「願ってもない条件でございますよ」
仲人は唾を飛ばさんばかりに熱弁を振るい勧めた。
「先様は文武両道のれっきとしたお家柄ですから
お嬢様のように教養高くお美しければ先方もお喜びなさいますよ!」
両親は目を輝かして乗り気になった。
永平侯爵家と言えば都で知らぬ者はない。
両親は老いた自分達が先立った後可愛い娘を一生託せる人物ならば例え妾であろうとこの際矜持を棄てて嫁いで欲しいと願った。
仲人は子衿さえ承知すれば他には話を持って行かないとまで断言してくれた。
ところが子衿は妾という立場が我慢ならなかった。
自分は断じて妾になどならないのだと頑なに拒んだ。
それきりその話は止まってしまい、件の仲人から声が掛からなくなってしまった。
母親は寝込んでしまうし、父は暫く口を聞いてくれなかった。
仕方がないのだ。
自分の行く末は自分で何とかする以外あるまい。
茶楼から出ようと胸元を探ると入れた筈の財布がない。
驚き慌てて袂を叩いてみても財布は出てこない。
仕方なく茶楼の給仕を呼び事情を話すと給仕は子衿を疑り深い目で見た。
子衿は鼈甲の簪を外すと店員に渡した。
「これを預けておきます。だから一旦銀子を取りに家に帰らせて下さいな」
「あんたね、これが本物か紛い物か調べる方法がないだろう?近ごろあんたみたいな無銭飲食が多くてね」
給仕は他の客の居る前でネチネチといたぶるように嫌味を言った。
子衿は溜息をついた。
「いい加減にしないか」
低い落ち着いた声が給仕を咎めた。
「あ!これは候爵様」
目元のキリっと涼しい品格のある男が立っていた。
「私の見るところその人は怪しい人物ではない」
「候爵様がそう仰るならごもっともでございます」
給仕は急に態度を改めてヘコヘコし始めた。
「その人の分を私が支払おう。困った時は相身互いだ」
「ああそんな…そんなご心配はご無用になさって下さい」
給仕はペコペコと恐縮した末に大仰な手振りで制すると今度は子衿に振り返った。
「お代は次にお越しの際お持ちくださればそれで結構でございます。これはお返し致します」
そう言って簪を子衿の手に返した。
「必ず近日中にお届けしますわ」
仲裁の礼を言おうと振り向くと候爵と言われた男は供の男達を連れて既に階段を半ば降りていこうとするところだった。
その男らしい背中はもう半分だけしか見えなくなっていたが子衿はその背中に頭を下げた。
子衿は給仕に尋ねた。
「今の方はどなたですか?」
「候爵様……永平候府の徐令宣候爵様ですよ」
子衿は持っていた簪を落としてしまった。
「あの方が…」
屋敷に戻って自分の部屋に入った途端、
子衿はほう…と深い溜息をついた。
あの方が…永平候爵様。
男らしい凛々しい方だったわ。
何と言う奇遇だろう。
そして何と言う私の運命。
あの時私が受けていれば私はあの方の花妻になっていたかも知れないのね…。
誰もが尊敬の眼差しで見る堂々とした男らしい方。
あの方に寄り添って一生を歩む…どんな気持ちだろう。
徐侯爵は詩はお好きだろうか。
武人のようだけれどとても繊細な方にも見える。
私は少々とうが立っているけれどまだまだ美しさには自信がある。
子衿は鏡台の前に座り顔を映すと引出しから黄楊の櫛を取り出し艶のある黒髪をすき始めた。
翌日、子衿は昨日の茶寮に寄ると支払いを済ませその足で大通りを歩き始めた。
徐府というのが大凡の見当はついているが、時々通行人に尋ねながら歩いた。
とうとう威圧されるような大きな門の前に辿り着いた。
来てしまった。
来てどうなると言うものではない。
ないのにどうして来てしまったのだろう。
自分でも理由が分からない。
少し見ていると
馬車が目の前を通り過ぎて正門の真下に着けられた。
正門を見上げるとそこに一人の若い女性の姿が現れた。侍女に手を引かれ慎重に歩く姿は妊婦ではないかと思われた。
すぐ後ろから現れたのはほかでもない永平候爵だった。
候爵は侍女から女性の手を奪うと抱き抱えんばかりにしながらゆっくりと階段を降りた。
妾は脇門からしか出入りを許されないから、あの女性は候爵の正室に違いない。
「ゆっくりゆっくり」彼の唇が女性に語りかけている。
子衿は彼の眼差しに気がついた。
途方もなく優しい眼差しをして一瞬たりとも彼女から視線を外さない。
左手は彼女の腰に回し右手で彼女の右の手を握っていた。
かけがえのない足元が揺らがないように支えている。
愛しているのだ。あの女性を。
馬車へ乗せる時も細心の注意を払って共に馬車の中へと消えていった。
屈強そうな護衛が合図をして馬車は何処かへと出発していった。
それを見届けると子衿は溜息をひとつついてとぼとぼと屋敷へと戻った。
翌日、驚いたことに斉家をあの仲人が訪ねて来た。
再び子衿に縁談を持って来たという。
子衿は余りの偶然に気持ちが昂ってきた。
もし…もし…
まだあの話が生きているのなら、
私は今度こそ断らないだろう。
たとえあの方が奥様を愛していても構わない。
私は私のやり方で愛すればいいのだから…。
「曹文挙と仰る文人ですの。少々お歳は召してらっしゃいますが真面目で大人しい方でしてね、半年前奥様を亡くされまして…」
「え、あの…永平候爵様ではありませんの?」
「え?…あ、永平?…あっ!あのお話ですか?」
仲人は素っ頓狂な声を上げたかと思うとアハハハハと笑いこけた。
「何を仰っしゃいますやら…随分前の話ですよね?」
「はい、お返事をいい加減にしてしまってその節は申し訳ありませんでした」
「何を仰いますか…ホホホ、あの話でしたらねお断りになって却って良かったんですよ」
「それはどうして…」
「私が早手回しでいけなかったんでございますが、候爵様は元々お妾さんをお望みじゃなかったらしいんですよ。あちら様からすぐお断りが参りました」
「はあ…」
「候爵様はもう奥方様以外に妾を持たないとお決めになったそうなんです。今は屋敷には奥方様お一人だけだそうで。私は用済みだと言う事になりますわね…ほほほほほ…」
私は呆気にとられて黙った。
結局、私はその曹文挙氏と会う事になった。
両親は心底ほっとしたような顔をしていた。
人生とは思い通りにならないもの。
どちらに転んでも私と永平候爵には縁がなかった。
あの方の妻になりたいなどと夢にも叶わない相手だったのだ。
運命というものは実在するのだ。
それまで自分が頑張りさえすれば世の中は上手くいくと信じていた。
けれどそれは単なる思い込みだった。
努力だけでは手に入らないものもあるのだ。
徐府で見たあの女性を羨む自分が哀れだ。
人生も戦と同じ。
孫子の兵法にある通り
城を全うするを上と為し、城を破るは之に次ぐ。
優先すべき事とは何かを私は見失っていた。
彼を知り己を知れば百戦危うからず。
この数日儚い夢を見ていたような気がする。
夢から覚めてみると
私は私自身をさえよく知らない事に気付かされたのだった。