あっ!

と思った時にはもう

柄杓の水が人様の衣装の裾にかかった後だった。

【叱られる!】

売られ売られて下働きの下女としてこのお屋敷に奉公にはいったのが三日前。

恐怖に駆られた梅香は桶を置くと身を縮めて這いつくばった。

「も…申し訳ありません!」

てっきり罵倒されるものだとばかり思っていた。

「よい、何ともない。立ちなさい」

落ち着いた声がしてその人はそのまま立ち去ってしまった。

「旦那様〜」

後から付き人らしき少年が荷物を持ってその主を追って行った。


「あれが…旦那様」

初めて見た…。

梅香は地べたに座ったまま呆けていた。

一瞬見たその人のお顔を梅香は生涯忘れないとさえ思った。

上品なお顔…。

落ち着いた大人の声だ…

なんと優しい物柔らかな方なんだろう。

反対に後ろ姿は凛々しい男らしさが溢れている。

去った跡に残された香り

森の香りみたいな匂い

この香り!

もっと吸い込まなきゃ

スーーッ

ぼーっと夢心地に浸ってると頭ごなしに怒声を浴びせられた。

「バカっ!いつまでそうやってんだ。さっさと掃除を終わらせろ!」

庭番に怒鳴られやっと現実に戻った梅香は手を動かし始めた。

それでも今しがた見たお顔を忘れないように何度も繰り返し思い浮かべては心に刻み込んだ。

いやあのお顔が忘れられる筈がない。

昼餉を食べに女中部屋へ戻った時も、目の前にある椀のお粥が冷えてくるのも構わずにんまりと空想に耽った。

同室の少女達が肘をつつき合いながら気味が悪そうにこちらを伺っているけどどうでも良かった。


旦那様…ここに来るまでの屋敷の主人と来たらろくなのが居なかった。

あの旦那様に比べたら芋か南瓜だよ。

小鈴は小皿に盛られた芋の煮物を突付いた。

いつかあの旦那様が私のほうを振り向いて下さるような事があるだろうか…。

そうだったらいいな…。

空想しただけなのに梅香は顔を赤らめた。

出会いはたいしたことなかったけど、次に会ったら何か話せたらいいのに。

いや旦那様のほうから言ってくるかも。

「梅香と言うのか、さっき見かけた子だね」とか、

うふっ!ってあり得ないか…ちぇ。


「ねえ…キモいんだけど…」

「一人でにやにやして」

「ほっとこ、関わり合いにならないほうがいい」

気がつけば梅香だけ部屋に一人ぽつんと取り残されていた。


慌てて昼餉をかき込むと女中の待機所へ走って行った。

女中差配役の鄭乳母が梅香をじろりと見た。

「梅香、あんたはまだ新入りで此処の屋敷の配置も分かっちゃいないだろ。だからあちこちの掃除を順繰りしながら覚えるんだ。午後からは西跨院の若奥様のところへ床掃除に行くんだ。分かったかね。奥様が居られたら無作法のないよう黙って務めるんだよ」

「はい…」

若奥様と言う事は旦那様の奥様か!

よおし…どんな女か見てやる。

鄭乳母の隣に立ってた先輩の女中光児さんが私を西跨院とやらに連れてってくれた。

今日は二人でそこの床掃除をする。

西跨院にも横手に井戸がありあたしはそこから水を汲んだ。

桶をいっぱいにして布を浸し固く絞る。

奥の間に人影が見えた。二人…三人。

「光児さん、あの人達」

「そうだよ、若奥様と桔梗さんと明々さん」

若奥様…

びっくりした。若いんだ。

目がクリクリっとしてんの!

旦那様の奥様だからもっと歳上かと思ってた。

あたしよりいくつか歳上ってだけだよねありゃ。


その若奥様がこちらに向かっておいでおいでをした。

あたしと光児は若奥様の前に並んで立った。

若奥様はにこにこしてて眩しかった。

近くで見た若奥様は肌が白くてぷるっとしてんの!

ぷるっと。

奥様のほうから声をかけてくれた。

「そちらは初めてよね?」

光児があたしの腕をつついたのであたしは直立不動で返事した。

「あ!はいっ!梅香といいます」

若奥様はニコッとして言った。

「可愛い名前!よろしくね」

「はっ、はいっ!」

「光児、これ後で二人で分けて食べなさい」

桔梗さんが私達に紙のおひねりを手渡してくれた。

「「ありがとうございます!」」


後でおひねりを開けると黒いピカッと光る物が入ってた。

光児がこれは黒飴と言うんだと教えてくれた。

こんなの初めてだ。

飴を貰ったのもだし、向こうからよろしくって言われたのも初めてだ。

その飴はまるで宝石みたいに艶々黒ぐろと光っている。

光児は早速口に入れてたけどあたしは勿体無くて食べられなかった。

そっと女中部屋にある自分の引出しにしまった。


梅香は考えこんだ。

若奥様は若い

凄い美女じゃないけど愛らしい顔をしている。

性格は〜気さくで優しい。

あたし、良くない事を考えてしまったかなあ…

旦那様の気を惹きたいとか考えちゃったもんなあ…

飴ひとつで単純な奴だと思うけど

やっぱり人のものを羨むって良くないよなあ…


夕飯を食べたあと、あたしはこっそり西跨院に行ってみる事にした。


西跨院の窓は開け放たれてて菊の香りがする御香が焚かれてた。

こっそり見てると

私の目に衝撃的なものが飛び込んで来た。

わ、わ、若奥様に

後ろから来た旦那様がいきなり

いきなり抱きついて、く、く、口づけ…


くりくりぷるっの若奥様に

あの穏やかな、紳士の旦那様が…烈しく…嗚呼っ


呆然とした顔で女中部屋に帰ったあたしを見て

皆がにやにやしてる。

「梅香、あんた西跨院に行ったね?」

ギクッとした。

「え?」なぜ分かる。

「丸わかり。旦那様と若奥様のアレを見たら誰でもそんな顔になるんだよ」

「ウソ」

「ホントだって。此処にいる全員が見せられてるんだから」

「毎日あれだものね」

「毎日…」


なんてこった。


あたしは引出しからあの飴をつまみ出すと口に入れた。

すごく甘い……。

飴の甘みがこの苦い思いを消してくれますように。

あたしはそう願いながらゆっくりと口の中で溶かした。