翌朝、令宣は朝餉を済ませると臨波と共に西山營へ向け出発した。

城内で軍営からの隊列と合流するという。


「旦那様、どうかお気をつけて…」

「うん、屋敷の事は頼んだぞ」

十一娘は内心の不安を令宣に悟られないよう精一杯笑顔を向けた。

「はい、行ってらっしゃいませ」

令宣は握っていた十一娘の手を離すと馬上の人となった。

妻の手が冷たかった事やいつもより言葉数が少ないことに令宣は後ろ髪を引かれる思いだった。


令宣の姿が見えなくなった途端十一娘は萬大顕を呼んだ。

「若奥様」

「一人でも多く旦那様をお助けする人が必要です。萬大顕殿、候爵の跡を追って頂戴。いざとなるまで気付かれないように」

味方を欺いてこそ敵を欺ける。

萬大顕はまるで十一娘から命じられるのが既に分かっていたかのように背に大太刀と大弓を帯びていた。

「若奥様、敬称は要りません。萬大顕と呼び捨てになさって下さい」

そう言うと十一娘の前に膝まづいた。

いつもののんびり穏やかな萬大顕とは思えない仕草だった。

「旦那様を頼みます」

「は!承知しました」

「私は旦那様がお戻りになるまでこの徐府を一歩たりとも出ません。ですから安心して行って頂戴」

「はっ!」

萬大顕は身軽に馬に跳び乗ったかと思うと馬身を翻して令宣達の跡を追った。


十一娘は未だ嫌な予感から抜け出せずにいた。

徐家祠堂へ一人赴いてひざまずき徐家のご先祖様に向かって旦那様の安泰を祈った。

西跨院の部屋に戻るなり十一娘は突然目の前が暗くなった。

「お、奥様!若奥様!」

床に崩れ落ちた十一娘に驚いた侍女達が悲鳴を上げた。

「大丈夫…ちょっと立ち眩みがしただけよ…寝台に連れて行って頂戴」

十一娘は彼女らに支えて貰いながら寝台に身を横たえた。


侍女の桔梗が福寿院へ知らせに走った。

大夫人は慌てて立ち上がると

「太医!劉太医をお呼び!」と命じた。

大夫人はあたふたと西跨院に駆けつけた。

「十一娘〜!大丈夫かい〜?今太医を呼びにやってるからね」

そう言って額に手を当てた。

「凄い熱じゃないか!あ〜、太医はまだかい!」

そこへ侍女に背を押されるようにして太医が入って来た。

暫く診脈していた劉太医が首を傾げた。

「大奥様、若奥様の病因は解りかねます。発熱の原因も不明です」

「あ〜、先生そう仰らずもっと診てやって下さい…ああ…令宣の留守中に何たる事!」

「大奥様、候爵がご不在とは?」

「今日から陛下の勅命で遠方へ出掛けたんですよ」

「そうですか…ならそれが原因かも知れません」

「…と言うと?」

「若奥様は候爵のご心配をなさっておられる。そのお気持ちがお身体に表れたものと考えられます」


大夫人は十一娘の手を握って頬に当てた。

「十一娘〜、どうか元気になっておくれよ〜」

「熱冷ましを処方して参ります。暫くはそれで様子をご覧になって下さい」

「先生お願い致します」

桔梗が若奥様は祠堂で長いあいだ祈ったあと倒れられたと話した。

大夫人は眠る十一娘を抱えるようにして涙ぐんだ。

「十一娘…そこまでして…令宣が心配なんだねぇ…杜乳母、ほれ福寿院にもっと軽い布団があったろう?あれを、あれを此処へ持って来ておくれ」

「はい、承知しました」

桔梗が私が運びますと付いて行った。


「気が付いたね!良かった良かった〜」

はっと気が付くと目の前でお義母様が涙ぐみながら私の手を握っておられる。

「お義母様…こんなにご心配をかけて…申し訳ない事をしました…」

「何をお云いだよ〜私に遠慮なんかするもんじゃない!」

私は幸せだ。

あの断頭台に立つまで幾度となく死を覚悟したのに、今はこんなに良くして貰って…。

「ところで、令宣は何も言ってくれないんだよ。今回はそんなに危険な任務なのかい?お前が萬大顕に跡を追わせたと聞いてね」

十一娘ははっとした。

義母上に心配をかけてはいけない。

「いえ違います。…萬大顕は腕の立つ人ですから私の護衛だけさせては勿体無いです。それに旦那様が遠征される時には私は徐府から一歩も出ないと決めています。折角の萬大顕の腕が鈍りますので旦那様のお供を命じたんです」

大夫人は感心した。

若いのに何から何まで見通してるんだねえ。

この子はつくづく徐家の護り神だよ〜。

有り難い有り難い…南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

大夫人は十一娘の腕を撫でさすりながらこれも仏様のご加護ご先祖様のお蔭と感謝していた。


三日が過ぎ四日目の朝、令宣は約束通り徐府への帰還を果たした。

「旦那様!」

「十一娘!」

二人は正門の下で人目も憚らず抱擁した。

「義母上様が心配してらっしゃいました」

「そうか…では母上のところへ挨拶に行こうか」

「はい」


福寿院の広間では令寛丹陽夫婦が待っていた。

「母上、只今戻りました!」

「挨拶はよい。無事で何よりだ。それで任務はしっかり果たせたのかい?」

令宣が話し始めると広間は凍り付いた。

「西山營の呂将軍に逆臣の疑いが持ち上がり私は陛下に調査と対応を命じられたのです…ですがそれは別の黒幕による罠だったのです」

令寛は不謹慎にも好奇心を抑えられなかった。

「四兄上!黒幕とは一体誰なんですか?」

丹陽までもが身を乗り出して目を輝かせている。

「覚えているか?区励行の妻の出身を」

「無論ですよ。礼部尚書の周家ですよね!」

「そうだ」令宣の目がチカリと光った。

「周家は区家と結託を計ったとして陛下の信頼を失い

尚書の職責を解かれた。現在は浙江省の役所で主事の仕事に甘んじている筈だ。つまり逆恨みと言って差し支えないが我が徐家を敵視している。

まだある。重要な黒幕がもう一人」

令寛は得意げに回答して見せた。

「兄上、喬蓮房の父…喬家ですね?」

「そう、喬家だ…ここまで正体を現さず陰でねちねちと我々に因縁をつけるに留まっていたが現王朝の端境期に来て、我ら徐家を朝廷から取り除きたい欲に駆られて目が見えなくなったようなのだ」

令寛は腹ただしげに呟いた。

「くそ!兄上こそ喬家の犠牲になったのに…」

はあ…と大夫人が盛大な溜息を零した。

「区家が瓦解した今、両家の利害が一致したのだろう…両家は手を結び私を陥れる計画を立てたのだ」

十一娘が令宣に茶を勧めた。

令宣は一口啜るとほっと息をついた。

「奴らの計画はこうだ…先ず西山營の呂将軍に近い者を使って朝廷で噂を流す」

「将軍に逆心あり…と」

「そうだ、西山營は都から離れていて普段行き来もない。噂を流すには持って来いなのだ。…当然陛下は部下を遣わして噂の真偽を確かめようとする」

「そこで四兄上の出番となったんですね?」

「都から西山營までは陸路を上がっていくしかない。途中は山賊が横行する山谷か崖ばかりだ。黒幕は私の行く道に先立って待ち伏せしそこで私を殺害するつもりだったようなのだ」

十一娘は思わず身震いした。

「彼ら黒幕の計算違いは、呂将軍は権力闘争への野心など薬にしたくとも持ち合わせない清廉潔白な人物だと言う事だ。これは私が陛下に直言した事だ。陛下は私の言葉を信用して下さった。噂の出処も捕まえた。だから今回は呂将軍へ伝書鳩を通じて兵を出して貰いもっとも襲われ易い場所の特定と捕縛をお願いした。…陛下は私に兵符を授けて下さったから都の兵を使い正々堂々と黒幕の私兵を挟み撃ちにしてやったと言う訳です」

「ほーーーっ…」

すべてを聴き終わると全員が深い溜息をついた。

大夫人もワナワナと震えていた。

「令宣〜、そんな危険な任務と分かっていて…どうして…お前の命が、、」

「母上、許して下さい。しかしこれで当分徐家の安全を脅かして来た連中とは縁が切れるのです。これで喬家も都を離れざるを得なくなりました」

「令宣や〜〜」


その夜、西跨院はようやく落ち着きを取り戻して鎮まりかえっていた。

「旦那様、萬大顕とは会われましたか?」

「十一娘、お蔭で助かった。現場に萬大顕が飛び込んで来なければ私にもう一つ刀傷が増えていたな」

「良かった…」

身体にまだ力が戻って来ない。

そのせいで全身で令宣にもたれ掛かっていた。

「十一娘、騙して悪かった。しかし作戦がどう転がるか分からない時点では何も伝えられなかったんだ」

「分かっていますよ。旦那様の事は何もかも信じていますから」

「くくく」

令宣は笑った。

「旦那様、何が可笑しいんですか?わたし笑われるような事言いました?」

令宣は嬉しくてたまらない。

「ふふふ…行くな行かないでくれと

あれ程頼んでたじゃないか…ふふふ」

「頼んでません!」

「いやいやいやですって泣いていたぞ」

十一娘は真っ赤になった。

「くぅ〜〜……そ、それは…旦那様の空耳です!」

「空耳なんかであるものか…」

令宣はやにわに強く抱き締めると耳元で囁やいた。

「十一娘…もう一度言ってくれないか…いやいやと」

首筋に彼の熱い吐息がかかる。

「可愛い過ぎる…あの声がずっと耳から離れないんだ…」

「…」

「もう一度」

「いやです!」