夕刻、照影が令宣からの伝言を持って西跨院にやって来た。

軍営で会議があり長引くので先に休むようにと。

最近は旦那様も順調だと安心していたので十一娘は不意に不安に駆られた。

なんだろう。

これくらいで不安になるなんて…と自分でも変だと思いつつも何となく嫌な予感がするのだ。

直感と言ってもいい。

それでも夫の仕事に口を挟んではいけない分別はある。

十一娘は会議中でも摘めるよう厨房から辛点心を多めに見繕って照影に持たせた。


その夜遅く令宣が帰宅した。

「旦那様お帰りなさいませ」

「まだ休んで居なかったのか?」

「はい」

「明日から西山營に出張する。二、三日戻れないからその積もりで居てくれ」

彼の衣を脱がせる手伝いをしながら十一娘はやはり聞かずにはおれなかった。

「旦那様、それは危険な任務なのではありませんか?」

令宣は十一娘の両肩に手を置くと安心させるように微笑んでみせた。

「あらゆる仕事に危険は付き物だ」

旦那様は平然と仰ったがハッキリと否定はされなかった。

そうと知れば黙ってはおれなかった。

「行かないで下さい!」

十一娘は令宣の腰にしがみついて頼んだ。

「どうして旦那様でないといけないのですか?」

令宣は妻の柔らかな頬を優しく摘んでみせた。

「そうだ。私でないと解決出来ない事なのだ。口の硬いお前だから云うが西山營の呂安保将軍に謀反の疑いが掛かっている。将軍に変わりがなければ巡視としてそのまま帰って来れるが万一二心ありと判明すれば最悪一戦交える事になるだろう。知っての通り今陛下は病の床にある。東宮である裕王に無事引き継がせるのは我々臣下の任務なのだ。こんな時期に虎視眈々と我が国の領土を狙う周辺国にも野心を抱かせてはならない。内乱を起すものがあれば速やかに収束させねばならないのだ」

「でも将軍は貴方以外にもいらっしゃるのに何故旦那様ばかり…」

十一娘は分かっていた。

自分の言葉が身勝手な我儘であるのを承知していたが口から流れ出るのだ。

令宣の目はいよいよ優しくなっていた。

子どもに向けて諭すように背中を撫でた。

「うん?十一娘、どうした?聞き分けのない事を言って…」

十一娘はかぶりを振って夫に抱きついた。

「いやいや…行かないで下さい…」

「もう決まった事なのだ。陛下の信頼を裏切る訳にはいかない」

令宣はいつになく我儘を云う妻が愛しくてたまらなかった。

「安心しろ。呂将軍とは特に親しくもないが私には二心を抱くような人物とは思えないのだ。きっと無事に帰って来れるさ」

「いやいや…行ってはいや…」

令宣はむづがる妻に破顔した。

「やれやれ…我儘お姫様には困ったものだな」

令宣は言葉とは裏腹に強烈な男の喜びを感じていた。

そして堪らなく愛しいその顔に口づけの雨を降らせた。


夜半、十一娘は寝乱れた寝間着の襟をかき合わせると隣で眠る夫を起こさないようそっと寝台から降りた。

寝室から出て夜空を見上げると真ん丸い月が西に傾いていた。

その方角に手を合わせると十一娘は熱心に祈った。

どうしても夫が行かなければならないのなら私に出来る事は祈ることだけだ。

「観音様、どうか夫が無事に帰って来れますように…」


障子越しに写ったその姿を令宣もまた見つめていた。