密輸冤罪事件
この事件で最も辛い目に遭ったのは
言わずもがな令宣夫婦だが
陰でひっそりと耐えていたのは五娘・銭明夫婦だった。
特に夫の銭明は発端を作った張本人として随分と苦しんだようであった。
銭明はやはり密輸に直接関わった叛徒として牢で激しい拷問を受けた。
十一娘は主犯として嵌められたが銭明は従犯としてやはり刑が確定していた。
十一娘の刑が執行された後は銭明の番であった。
牢の中で恐怖の日々を過ごした銭は元々書生上がりで世事に疎かったがこの事件を契機に彼の人生観は一変した。
牢から解き放たれると一目散に屋敷へ帰り人が変わったように科挙に向け脇目も振らず勉学に打ち込むようになった。
世の厳しさを肌身で嫌と言う程思い知らされそれまでの甘さや楽天主義を改めたようだった。
五娘も自分達夫婦のせいで令宣達に迷惑をかけたとあって暫く徐家にも顔を出さず落ち込んでいた。
心配した羅家の義姉や二娘が時折妊婦の五娘の為に差し入れに行っては慰めていた。
十一娘はひとまず身体が落ち着くと一番に五娘の元を訪れた。
「五姉、皆のお蔭でこうして戻って来れたわ、五姉と義兄上に心配をかけたわね」
五娘はひたすら涙を流して十一娘に抱きついた。
「十一妹!ごめんなさい…私達のせいよ…貴女に合わせる顔がないわ」
「五姉、そんな事言わないで。五姉達のせいじゃないわ…区家の企みのせいよ。銭義兄上は巻き添えにされただけ…被害者よ」
「ううん、銭明も心から反省してるの。今は遮二無二勉学に励んでいるわ。何が何でも科挙に合格していつか徐家にお返ししなければと…」
「それより五姉、身体を労ってね。今は元気な子どもを産む事に専念してね。徐家も…夫も金銭的な事は心配するなと言ってるの。私達が応援するから…ね?」
「ありがとう!十一妹…私達夫婦は一生かかっても侯爵と貴女に恩を返し切れないわ…本当にありがとう」
そう言ってまた泣いた。
一か月後五姉は健やかな男子を出産した。
銭明は発奮して更に勉学に拍車が掛かった。
翌年、銭明は科挙合格者の中に自分の名を見つけた。
銭家は既に銭明の母親と同居しており、五姉はそれなりに苦労しているようだった。
元々皇女の屋敷を賜った広大な徐家とは比べるべくもないが銭家の屋敷は少々質素で手狭過ぎた。
その屋敷内での同居は五姉にとって過酷なものとなった。
銭明の母親は銭明が故郷で神童の誉高かった過去を何時までも自慢気に話すような人だった。
それ故嫁に対して注文が多く、五姉の一挙手一投足にまで夫に値する振る舞いを要求するのだった。
おっとりした性格の五姉は何事にも悠揚迫らぬ物腰で、それがまたせっかちな母親とはそりが合わないのだった。
銭明の科挙合格で銭家は早速兄弟親類を呼び祝いの膳を囲む事にした。
二姉側として兄の振興夫婦、令宣十一娘夫婦、茂国公家若夫人の二姉が出席した。
銭家の東南の親類は遠方の上、高齢者が多く出席は適わないと祝いの品や文だけを寄越した。
席上、銭明の母は杯を掲げ堂々と挨拶した。
「皆様我が息子明の祝いの席にご多用中ご参集頂き誠にありがとうございます。まだ出仕についてご沙汰がありませんが必ずやこの国の支柱となるべく明は奮起努力致す事でございましょう」
銭明は真っ赤になって否定した。
「は、母上、やめてください!かような大袈裟な挨拶は…恥ずかしいじゃありませんか。ようやく試験に合格し端緒についたというだけに過ぎません…」
令宣が銭明の立場になって執り成した。
「銭明兄、謙遜には及ばない。この度の合格誠に目出度い。僭越ながら徐家より一献捧げます」
それで皆が一斉に盃を飲み干した。
令宣は続いて銭明を安心させるように話した。
「私も及ばずながら義兄の出仕については微力を尽くす積りでいるのだから。お母上、どうかご心配なさらず…」
銭の母は田舎貴族の例に洩れず都の者に対する負けん気や気位だけは高かった。
「徐殿、徐殿は大将軍と聞き及んでおりますが、科挙は受験なさいましたの?」
令宣は直裁な問いに苦笑しながら答えた。
「残念ながら文科は受け損ないました。若い頃に軍へ入隊しましたので武科のみです」
「あら武科は合格なさったのですか、失礼ですがどのような成績で?」
銭明はもう赤い顔を通り越し青くなっていた。
「母上!失礼じゃありませんか!?」
「いや、銭兄気にしないで。お母上にお答えします。探花(三位)です」
「あらまあ、そうなんですか…まあ文科には劣りますがそこそこ優秀な方ですのね」
「母上〜…」
銭明は絶望的な顔になって俯いてしまった。
そこで気配りの振興兄が場を和ませようと景気よく乾杯の音頭を取った。
「さあもう一献、我らが銭明殿の科挙合格を祝って!」
「乾杯!」
乾杯を終えた後やっと五姉が言葉を挟んだ。
「皆様、ありがとうございます。心ばかりの粗餐ではございますがどうぞたくさんお召し上がりになって…」
帰りの馬車の中で令宣は口数の少ない妻を気遣った。
「故郷で銭明を夫亡き後一人で立派に育て上げられたんだ。女丈夫と言えるだろうな」
「そうですね…これでお姑様のご苦労も少しは報われるといいですね…」
令宣は元気の無い妻の肩を抱いた。
「どうした…五姉の事を案じているのか?」
十一娘は薄く溜息をついた。
「ええ…あんなに気の強いお姑様ですから…五姉はけして弱くありませんが…この先辛い目に遭わないといいですけれど…」
令宣は妻の頭を赤子のように優しく自分の肩にもたせ掛けた。
「心配するな…何かあればお前が行って慰めてやればいい。金子で解決出来るような事であればそうするがいい」
十一娘は頭をもたげると明るい顔になった。
「旦那様ありがとうございます。それを聞いて安心しました」
徐家に到着した時はもう辺りを暗闇が支配していた。
徐家の正門をくぐりながら令宣はまた妻に話しかけた。
「お前は五姉の家ばかり心配するが、そう言うお前も苦労したではないか」
十一娘は頭を振った。
「苦労などありません。お義母様は私が嫁いで来てからただの一度も間違った事を仰った事はありませんもの」
「お前に死を命じた事は?」
「いいえ、それは私に非がありました、お義母様は正しい事を仰いました。徐家の興隆は旦那様の武勲の賜物ですが何よりお義母様という支柱がなければ成し得なかったと思います」
「恨んではいないと?」
「旦那様、当たり前です。お義母様は心の広い大きな方です。私は徐家に嫁いでお義母様のような母上を持てた事が一番嬉しいんです。私は幸せ者です」
令宣は微笑むと妻を支えながら西跨院の方角へと歩いて行った
「杜乳母、聞いたかい」
「はい」
令宣達は正門まで夜の散歩に出ていた大夫人に気付かなかった。
大夫人はそっと涙を拭いた。
「あの子がねぇ…」
散々無理を言いあの子には苦労をかけた。
それなのに少しも恨まずかえってあのように私を信用してくれている。
十一娘に理不尽を強いた事は数々あれど錯乱していたとは言え彼女に死を命じた出来事は大夫人の心にしこりを遺していた。
それは時間と共に十一娘との間に見えない壁となって立ちはだかっていた。
それももう今の十一娘の一言で済われた。
「杜乳母、私はもうあの子を嫁とは思わない」
「はい」
「あの子は私の娘だ。実の娘だよぉ〜…」
そう言って流れ落ちる涙に手巾を当てた。
「はい…確かに」
杜乳母も貰い泣きをして
二人は暫くの間柱の陰で動けなかった。