琥珀は懸命に彦行一行を追った。

区彦行は塞外と言われる荒涼とした北辺の地へと流刑となった。

かの地を目指し徒歩で行く一行はわずか10数名。

靖遠侯の犯罪とは関わりのない子どもを含む縁者数名とその使用人たちである。 

護送の官吏が幾人か職務に当たっている。

先頭を歩く彦行が見えた。

「区公子!」

彦行は琥珀が追って来た事に驚き足を止めた。

「琥珀…」

「区公子、私も一緒に行きます!」

「琥珀、これから行くところは厳しい土地だ。お前が付いてきても何もしてやれない。帰りなさい」

彦行の口調は愛も同情も拒絶して断固としたものだった。

それっきり彦行は琥珀を顧みることなく再び歩みを始めた。

琥珀は彦行の後ろ姿を凝視してその場に佇んでいた。

琥珀は自分の心の中を覗いていた。

夢中でここまで追って来た。

追いていけば塞外で厳しい暮らしをすることになる。

だが公子の側に居たい気持ちのほうが勝っている。

公子は奥様を諦めたからと言ってすぐに私を振り向いて下さるような方ではない。

けれど失いたくない。

これからの公子を支えられるのはやはり私だけ。

再びそう決心すると一行の一番後ろに追いて歩きはじめた。


茂国公家では今日もニ姉・王若夫人が養子である王公子承祖を叱りつける声が響いていた。

逃げる承祖を棒をもって追いかける二姉の前に十一娘が現れた。 

「二姉、相変わらずね。体罰や脅しでは子どもは萎縮するだけよ。まだ子どもなんだから根気よく教えないと…」

「おやまあ、誰かと思ったら永平侯爵夫人じゃないの」

「二姉、この度はお世話になりました。今日はお礼に伺いました」

「十一妹、礼品まで贈ってきてそんなにお世話をしたかしら?」

「二姉が牢に面会に来てくれて振興兄に大切な事を伝えてくださって本当に助けられました。お陰様で私も徐家も救われました」

「ふん、大袈裟よね。別にあんたの為にした訳じゃないわ。あんたが虐められるって事は私が恥をかかされるのとおんなじだからよ」

相変わらず素直じゃない言い方に皆が笑いを堪えていた。

「座れば?」

二姉はツンとしながら椅子を勧めた。

十一娘は先程の親子のやり取りについて尋ねた。

「二姉、承祖が何かしたの?」

「使用人と一緒になって酒や博打をやっていたのよ」

「二姉、子どもは好奇心で面白そうなものに惹かれるのよ。提案だけど承祖を諄と同じ学堂に通わせたらどうかしら。良い友達と学問を学んで規則正しい生活を送るようになれば悪い遊び仲間とは自然と離れるようになるわ」

「なによ、また私に説教しにきた訳?あんな事があったのにあんたっていつも偉そうよね」

「二姉……そこまで言うんならもう帰るわ!」

そこに金蓮が茶を運んで来た。

「お茶くらい飲んで帰りなさいよ」

憎まれ口しか叩かない姉に呆れながらも十一娘は茶碗を受け取り蓋をずらした。

特徴的な雀舌茶の茶葉が拡がり馥郁とした香りが立ち込める。

「二姉…私の好きな雀舌茶を覚えててくれたの?」

金蓮が嬉しそうに説明した。

「徐奥様、これは王若奥様が徐奥様の為に取り寄せました。茶葉もお持ち帰りください」

「二姉!嬉しいわ。ありがとう」

二姉はツンと頭を聳やかした。

「あんたに飲ませるのは勿体無いけど、学堂の紹介料よ」

十一娘が笑うと釣られてニ姉も笑った。

「ふん、高かったんだから」

十一娘はいつも挑戦的で苦しめられた思い出もあるこの皮肉屋の姉がいざとなれば妹思いで信頼出来る頼もしい姉であったことに胸の中が温かくなってゆくのを覚えて微笑んだ。


花園の蓮池の中央にある四阿で十一娘は琴を奏でていた。

事件の前まで旦那様に喜んで貰おうと随分と練習したものだった。

令宣がその音色を聴きつけてゆっくり近付いて来る。

冬青は令宣の合図で笑顔で離れて行った。

ある箇所まで来ると流れていた曲が突然乱れて止まった。

十一娘が眉をひそめて何度か繰り返す。

令宣はそっと背後に立つと手を添えて導いた。

その姿は雛を守る親鳥のようだ。

一曲終えると十一娘は令宣を振り返って微笑みを返した。

「やはり旦那様は凄いです。何度練習してもコツが掴めなかったのに旦那様の指導ですぐに弾けました」

「上手く出来ているのにわざとだろ?」

十一娘はくすりと笑って立ち上がった。

「傳殿から聞きました。旦那様は琴の名手で都一の腕前だったとか。お義父上が亡くなられてから琴を絶ったことも。そうなんですか?」

「父と兄が亡くなり私の双肩に徐家の命運が掛かってきた。遊んでいる訳にはいかなかったんだ」

「でも旦那様の琴が聴きたいんです」

令宣は振り返って妻の顔を見た。

長いあいだ琴に触れることを自らに禁じていた。

一度禁を破れば区家との戦いに負けてしまうような思いに囚われていた。

その頑なな殻を妻は溶かそうとしているのかも知れないとくすぐったい気持ちになった。

「旦那様の誓いはお義父上とお義兄様へのお詫びだと分かっています。旦那様は徐家を守る為にご自分の自由を全て諦めて尽くして来られたんですよね」

十一娘は夫の手を取った。

「でもそれではご自分に罰を与えているのと同じです。もう十分なさいました。旦那様にはもっと楽しく過ごして頂きたいんです」

令宣は妻の肩を抱き寄せて満足気に目を閉じた。

「お前が居れば十分だ、、」

十一娘は夫の胸に頬をもたせかけた。

「旦那様、人生は短いものです。趣味を無くしたらつまらないですよ。お義父上もお義兄様もきっと旦那様に楽しく暮らして欲しいと願ってらっしゃいますよ」

旦那様、私は誰になんと言われようと刺繍を手放しませんでした。 

でもそれは旦那様が護って下さったからこそ可能だったのです。

だから旦那様にも大好きな琴を諦めて欲しくはありません。

彼女は気持ちを込めて令宣の瞳を見上げた。

基本的に令宣は妻の言葉に抗えない。

令宣は横目でちらりちらりと琴を見ていた。

頑なな思いとはうらはらに琴に触れたいと願う強い誘惑が襲ってくる。

胸の奥からもう己を許しても良い頃合いだと言う囁きも聴こえてくる。

とうとう令宣は琴の前に座った。


流れてくる音の涼やかさは散策していた大夫人と怡真のところまで届いた。

「怡真や・・この琴の音は・・」

「四旦那様ですね、、」

顔を見合わせて久しぶりに見事な令宣の音色に聴きいった。

それは幸せな徐家の音色となって緑滴る初夏の庭園に拡がった。

同時に五弟令寛と丹陽夫婦もこの音色に耳を傾けていた。


隆慶初年、隆慶帝は海禁の解除を布告した。

海外貿易政策を推進し民間貿易の門戸を開いた。

これにより東南沿岸部の民間海外貿易が盛んになり新たな時代の幕開けとなった。

これは慶隆解港と呼ばれた。


【五年後の中秋節】

福寿院の中庭には大きい円卓が設えられて家族が集まっていた。

「中秋節に誡君も帰って来れると良かったのにね」

怡真が嬉しそうに答えた。

「ええ、あの子は今勉強に打ち込んでいます。よく文を送ってくれます。親孝行なんですよ。本当にいい子だわ」

怡真は素直に育ってくれた自慢の息子に目を細めた。

夫が出張中の五姉が徐家を訪ねてきた。

「大夫人、ご無沙汰しております」

「よく来たね!」

「誘って頂きありがとうございます。銭明が雲南に行ってしまい中秋節は一人で過ごすのかと思いましたがここは賑やかですね」

大夫人は歓迎した。

「貴女は十一娘の姉妹なんだから家族よ。遠慮は要らないよ。中秋節は家族で集まらないとね。来てくれて嬉しいよ!」

そこへ令宣も来て加わった。

「母上にご挨拶を、、皆揃ったな・・母上、諭から手紙を貰いました。今回の郷試に受かりました。しかも上位だそうです」

「諭ちゃんは勉強熱心だから懸頭刺股★の精神できっと出世するわ。文姨娘も先々いい暮らしが出来るよ!」

皆が一斉に笑ったところで令宣が辺りを見回した。

「十一娘はまだですか?」

「あ~、昨日諄の縁談の件で姜若奥様がいらしてね。十一娘は朝から結納の支度に大わらわなんだよ」

「またそんなことは私がやるのに・・暖暖の事だけで手一杯でしょう」

「父上~!」当の暖暖が走ってきた。

徐家の一人娘の公女暖暖は徐家の家族兄達全員から愛されていた。

「父上、また母上に私の事告げ口したでしょ。母上に叱られたらどうしよう」

令宣は可愛くて仕方ないというように暖暖の小さな鼻をつまんだ。

「父上が暖暖を悪く言う訳ないだろ?」

十一娘は徐家を命懸けで護ってみせた事で陛下も賛辞を惜しまない賢夫人として名高い。

謙遜したところで今や押しも押されもせぬ名流夫人となった。

暖暖に関して言えば、十一娘のお腹にいるあいだから都中の名家から生まれるのが公女なら是非嫁に貰いたいと申し込みが殺到して令宣の頭を悩ましていた。

大夫人は暖暖を目に入れても痛くない程に可愛がり、書道や学問、行儀作法などの躾は怡真から囲碁や礼法は丹陽から習い幼い暖暖の日々も結構忙しい。

そこへやっと十一娘がやってきた。

「皆さんお揃いですね!五姉ごめんね。待たせたわ」

「冬青を呼び戻すべきかな。臨波が福建へ連れていってからお前は大忙しだ」

「そんな事をしたら新任指揮使の傅殿に恨まれます」

「明日人手を増やす手配をするわ。きっといい侍女が見つかると思うの」

丹陽が気を効かせて提案した。

「ありがとうございます。実はもう羅家の義姉が解決してくれたの。振興兄が漳州府の市舶司に就任して羅家の侍女全員を連れていけないので徐家で引き受ける事になったのよ」

「それなら安心だ」

「十一娘、さあさあ皆を座らせておくれよ!」

大夫人が急かして円卓で中秋節のお祝いが始まった。

乾杯の音頭を令宣がとった。

「一献目を母上に捧げます」

「やめておくれ。一杯目はやはり十一娘だよ〜。」

十一娘は赤くなった。

「何を仰るんですか。義母上を差し置いて恐れ多いです」

怡真が大夫人の隣から言い添えた。

「十一娘、謙遜しないで。仙綾閣は評判が上がって弟子も増えて刺繍品の輸出で都一になりました。陛下から天下一繍房の扁額も賜りましたしね」

怡真の言う通り仙綾閣は陛下直筆の扁額もさる事乍ら簡師匠と十一娘の店と知られて貴婦人達が競って訪れる名店となった。

怡真も再三訪れているうちに今では簡師匠と気持ちを通い合わせる大切な友人となっていた。

大夫人も目を細めて褒めた。

「十一娘、お前と簡師匠は私達女子の憧れの的だよ~」

「もうお義母様、褒め過ぎですよ。さあ皆様の健康を祝して」

全員が唱和した。

「「家和して万事成る!!」」


吉日、徐令宣と徐羅十一娘は皇宮へ参内した。

十一娘が陛下より叙階賜わる栄光の日であった。


黄総監が詔を読み上げる。

「天命を受けし皇帝の詔に曰く

永平候爵夫人羅氏は賢く貞淑にして誠実、徳と孝行心を備え繍房仙綾閣に於いて多くの弟子を教え技術を伝えたその功により、一品吿命夫人に封ずる。謹んでこれを受けよ」


「まるで夢のようです。」

「夢ではない。お前自身の努力と才覚で手にしたものだ」

「それは違います」

「どこが違うのだ?」

「どんな時も私を信じて支えて下さる貴方がいなければ私は力尽きていました。あなたがいなければ今の私はいません。旦那様ありがとうございます。

あなたの大きな愛で私は悔いのない人生を歩んでいます」


月の光を筆に付けて あなたを描く
琵琶の音律を借りて あなたを歌う
盛装が輝き あなたの顔を照らし
ここに辿り着き あなたが永遠に寄り添う

恋心を燈し あなたを守り 
あなたの囁きに 愛が溢れている
四季を遍歴し 風月を愛でる
あなたが最も美しい景色

あなたと一緒に 蝉時雨を楽しみ
隔たりは雲と散り あなたの唇を求める
疑いは霧と消え 運命と寄り添う
日の出を迎え 新たな風を待つ

三月の風 七月の青空
星を数え 春景色を楽しみ
秋景色を描き 絶景を見尽くす
遠く離れても 心は通じ合う

白髪となっても 永遠に共に居る





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★懸頭刺股

けんとうしこ

苦学すること。

非常に努力して勉学に励むこと。

漢の時代の楚の孫敬そんけいは、勉強中に眠くなると天井から下げた縄を首にかけて、机にうつ伏せになるのを防いだ。
出典:『蒙求』

同じく、戦国時代の蘇秦そしんは、勉強中に眠くなると自分の内股をきりで刺し、眠気を覚まして読書を続けた。
出典:『戦国策』

 懸頭刺股恐ろしいですねwww

次回振り返って感想を書こうと思います😊