妻を区彦行の馬車に乗せたのは令宣の計略だった。
計略と分かっていても二人が同じ馬車に乗っていると思うと胸がちりちりと痛み焦げていく。
二人が乗る馬車に一瞬でも早く追いつこうとしたのは嫉妬心からだった。
竹林からの帰り道、令宣は十一娘を馬車に乗せなかった。
自分の馬に妻を乗せ彼の胸に抱き都大路に入り屋敷まで歩いた。
母の為とは言え十一娘は彦行を傷つけたことを哀しんでいるだろう。
今彼女を慰め労ってやれるのは夫である自分だけなのだ。
令宣は先ほどまでの光景に胸を痛めている妻をしっかりと抱いていつもよりゆっくりと歩を進めた。

令宣の胸に抱かれながら駿馬に揺られていた十一娘は今し方の出来事に敵討ちを成し遂げた安堵とは程遠く励行の死に様を目撃した恐ろしさに震えていた。
令宣が彼女の気持ちを支えるかのようにしっかりと抱いていてくれるのでなければ座っておれなかっただろう。
十一娘は誰憚ることなく夫に身を寄せていた。
血の気のない顔をしている妻の心中を令宣だけが察していた。

徐々に近づいてくる永平候爵家では令宣の帰りを大夫人達が待ち構えていた。

大夫人は大きく溜息をついていた。
「まさか、あの羅十一娘がそのような道に外れる事をしでかすとはな・・そんな人間だと知っていたら徐家に入れはしなかったのに」
十一娘が徐家を出て行った事が報告され最後に会ったという秦姨娘が夫人から詰問された。
秦姨娘は言いにくそうに言葉を濁していたが最後には琥珀の手引きで奥様が逃げたらしいことまで話した。そしてどうやらその行き先が区彦行と係わっているのではないかという疑惑が発生した。
琥珀は直ちに捕らえられ一室に閉じ込められた。
琥珀は完全に沈黙を守っていたが令宣さえ帰宅すれば裁きの場で厳しく詮議されるだろう。
今度という今度は令宣も十一娘に容赦はしないだろう。
大夫人はそう確信しながら息子の哀しみと恥辱を思い嘆いていた。
怡真は義母を宥めた。
「まだそうと決まった訳じゃありませんよ。四旦那様がもう十一娘を追いかけています。戻ってから真相を聞きましょう」
怡真にはどうしても十一娘の失踪が信じられない。
傍目にも令宣と仲睦まじく愛し合っているのが分かるだけに仙綾閣の件ひとつで彼女が飛び出すとは思えなかった。
彼女の軟禁についても何か差し迫った裏があるとしか思えなかった。
「もしこの件が本当なら、、私は絶対彼女を許さない」
一旦怡真の言葉に矛を収めたものの大夫人の言葉には断固とした決意が込められていた。

徐家正門に令宣と十一娘が帰着した。
門番が走ってきて十一娘の足元に足台を置く。
令宣はまだ青白い顔色をしている十一娘を支えて降ろしながら案じていた。
帰宅すれば大夫人が待っていて彼女をきつく咎めるだろうからこれ以上彼女が傷付かないように私が守らなければならない。
正門から上がる前に二人はお互いを確認するかのように見つめ合った。

乳母が知らせた「大奥様、旦那様のお戻りです!」
怡真がほっとして義母に伝えた「お義母様、四旦那様が戻られましたよ」
その時福寿院の玄関から二人が揃って入って来るのがみえた。
十一娘は無言で頭を下げた。
「母上」令宣が手を組んで挨拶する。
果たして大夫人は十一娘の姿を認めて頭に血が上った。
「どの面下げて戻ってきた?!」
使用人に向かって命じた「誰か!この女を追い出せ!」
姥二人が直ぐに十一娘の傍に近づいた。だが令宣の無言のひとにらみで恐れ入って下がって行った。
大夫人は立ち上がって二人の前まで進むと息子に向かって憤って言った。
「令宣よ、この女はあんな事を仕出かして・・それなのにお前はまだ庇うのか?」
「母上!これには訳があります!・・十一娘が出て行ったのは我々が計画してやった事です」
大夫人は信じなかった。以前にも令宣は大怪我を負った時彼女を庇う為に私に嘘をついていたじゃないか。
私を説得する為に次はどんな嘘をつくのやら。
「つい先ほど、、」
令宣が続けた言葉はそんな疑いすら吹き飛ばすほど想像を遥かに超え衝撃をもたらすものだった。
「区励行が死にました」
大夫人は無論、後ろに控えていた怡真は驚愕した。
あの区家の嫡男区励行が死んだ!・・
区家の後継ぎが死んだと!
大夫人は怡真を振り返り顔を見合わせた。
殊に怡真は呆然と目を丸くしたまま驚きの表情をあらわにしていた。

しかし、、十一娘の失踪と励行の死に関連があるとは思えないが?
その疑問に答える為に令宣は二人を座らせ発端から現在までを逐一詳細に話して聞かせた。

「悪を尽くした結果だな・・・区励行は自業自得というものだ」
大夫人は得心した様子だった。
無実の大旦那様と世子の命が断たれ断絶の危機を迎えたのは区家の謀略だった。
以来どれ程区家に陥れられ煮え湯を飲まされて来た事だろう。
積もりつもった悪が己に返って来たのだ。
因果応報である。
夫人は一呼吸置くと今度は十一娘の方を向いて尋ねた。
「十一娘、、、三日が経った。お前の選択を聞かせて貰おうか」
「義母上様、義母上の徐家を守りたいと言うお気持ちは分かっています。けれど冬青は私の侍女です。彼女を嫁に行かせるか売るかは私の裁量権です。私が決めます。彼女の事で取り引きはしません」
私も冬青も徐家に対して悪い事はしていない。
だから冬青を徐家の自由にはさせません。
十一娘にはそれ相応の覚悟があった。
理不尽な要求を呑むつもりはなかった。
夫人は十一娘の決意が固い事を見てとって息子に尋ねた。
「令宣、お前はどう思う・・」
「母上、私達は夫婦です。私は十一娘の決めた事を尊重します」
「分かった。だが人倫の秩序は祖先が遺した掟だ。それこそ徐家が徐家であり続ける根本なんだよ」
「母上、そこは賢明なご決断を。時は移り世も変わっていきます 掟も変わっていかなければなりません。いつまでも昔の掟で今の世を量ってはなりません。そうでなければ、海上貿易禁止という祖君の掟の廃止を訴えた父上と二兄上の悲願はどうなるのでしょうか。
父上は間違っていますか?二兄上は間違っていますか?母上は私の事も間違っていると仰るんですか?」
「海禁の廃止は国と民の繁栄を願って志の高い事だ。仙綾閣などが比べものになるのか?」
「小さな悪事でも犯してはならず、小さな善事でもしなければなりません。十一娘は仙綾閣で難民に刺繍の技術を教えています。行き場のない難民がそれによって生きる術を得ました。これは朝廷の後顧の憂いを解決した事でもあります。これもやはり国と民の為ではありませんか。女だからと言って掟を守って家に閉じこもらなければならないのですか?それが本当に徐家の役に立つのでしょうか?・・母上は自分の胸に聴いてみてください」
十一娘は令宣を見た。
令宣の言葉のひとつひとつが十一娘の胸を強く打った。
彼は私を一人の人間として大切に思ってくれている。
彼女は泣きそうになりながら夫を見上げていた。

「十一娘はこれまで仙綾閣の事で徐家を疎かにした事が一度でもありますか?母上はここまで彼女を追い詰める必要がありますか?」
「その言いよう、私が間違っていると言いたいのか?」
「冬青は純粋な小娘です。その小娘を利用して母上は目的を達成しようとしました。その点で母上は間違っていると思います」
劣勢に立った大夫人は息子に自分の立場を思い出させようとした。
「私は・・私は徐家の為にしたんだよ、忘れるな、私はお前の母だぞ!」
大夫人がそう言った時背後から二人の帰還を聞き付けた五弟令寛と丹陽県主が駆け付けてきた。

令宣はひざまずいた。
夫を見て十一娘もひざまずく。
「母上、私は母上の息子です。それと同時に十一娘の夫でもあります」
令宣は宣言した。
「徐令宣はここに誓います。もう一生妾を迎えません」
彼の声は凛として福寿院の広間に響いた。
十一娘は令宣の宣言に驚いて思わず夫の顔を見た。
後から飛び込んで来た令寛も兄の隣にひざまずいた。
「私も四兄上と一緒です!今後私も二度と妾を迎えません!ただ丹陽だけを守ってゆきます」
控えていた丹陽は胸がいっぱいになって令寛の後ろ姿を見つめていた。
「お前は何で口を挟んでいるの!」
大夫人は何時もの癖で令寛を叱った。
けれど令寛は兄の決断に力を得て一歩も引かなかった。
「母上、四兄上は徐家の為にどれ程犠牲を払って心血を注いできたか!なのに自分の為にたった一度の選択をする権利も与えられないのですか!?、、今日徐家があるのは四兄上が命懸けで努力してきたからです!情と理と義に免じて今回は兄上の思うようにさせてあげてはいかがですか!」
令寛の言う事は道理であり間違ってはいない。
大夫人は俯いた。
徐家の盛衰が令宣に掛かっていると思う余り息子の自由な意思を無碍にして来た事は否めない。
今まで令宣を大事によかれと信じてやって来たつもりだったがそれは母の立場である自分の思い込みだったのかも知れない。
以前は頼りなく遊び事にしか興味がないと思っていた令寛がこのように兄を思う徐家の一員として成長していた事も目覚ましかった。
大夫人は俯いたまま小さく溜息をついた。
そこにまた丹陽県主が加勢した。
「義母上、四姉上が嫁いだ当初主母の権利を妾の喬蓮房に奪われたせいで都の笑い者になりました。でも四姉上は恨み言ひとつ言わず、それどころか黴米の件では自分の嫁入り道具を売って徐家を救いました。それは徳をもって恨みに報いた事です。・・それに諄は義母上の嫡孫です。もし四姉上が真の病因を見つけ出して治療を施さなかったらそれこそ諄の全快もなかったでしょう。その後、先の奥様の真実も暴いてくれました。その上仙綾閣で難民達を救済した事も徐家に美名を勝ち取りました。これだけの事をしてもなお四姉上はやりたい事が許されないんですか?義母上、義母上は四姉上に厳し過ぎませんか?」
丹陽県主の執り成しは大夫人の痛いところを突いて理路整然としていた。
大夫人は俯いたまま言葉を返せなかった。
それまで端座していたニ義姉・怡真が立ち上がった。
「お義母様、既に区彦行も仙綾閣を去りました・・十一娘はこのまま仙綾閣に居ても構いませんね?」
大夫人は顔を上げるとまじまじと怡真の顔を見て尋ねた。
「怡真、、、もしかして私が間違っていたのか?」
その声は掠れていた。
発端は竹絵の件だった。区彦行の描いた竹絵は怡真に体調を崩すほどの衝撃を与えた。大夫人にとってそれは許し難い出来事であり、十一娘を仙綾閣から去らせるに十分なきっかけであった。
だが区励行が往き、彦行も去ったとなると状況は変わった。
十一娘には自身と徐家の仇を討った功労が残った。
当の怡真が許しているのに私だけがこだわり続けてよいのかと大夫人も疑問を感じ始めていた。
怡真は続けた。
「私は十一娘が仙綾閣に通う事には反対しませんよ。元々、私は彼女がそこで利用されるのではないかと言う事だけが心配でした。でも今、四旦那様と彼女は一心同体のようです。他人に左右されるような事はないでしょう。区家はもう報いを受けました。ですから私も心配する必要が無くなりました」
ひざまずいていた十一娘がさらに深く頭を下げた。
「義母上様、私は本心からこの徐家を自分の家だと思っています。皆様も私の家族だと思っています。徐家に不利なことは絶対にしません。どうか私を信じて下さい!」
大夫人は黙って嫁の顔を見つめていた。
立っていた丹陽が令寛の隣にひざまずき頭を下げた。
「義母上、四姉上はこの徐家の主母ですが私もこの徐家の嫁ですから成果だけを享受する訳には参りません。今後は私も四義姉上に協力します。義母上、お許し下さい!」
誇り高い丹陽がたたみかけたので大夫人も折れる以外ないと覚ったのか大きな溜息をついた。
そしてついに頭を振りながら降参した。
「そうだな・・事此処に至っては・・お前達の好きにしなさい」
全員が頭を下げた。
「ありがとうございます!母上」

怡真は大夫人を休ませようと広間から連れて出て行った。
令宣と十一娘はまだ緊張の覚めやらぬ面持ちで視線を交しあった。

なんと長い一日だっただろう。
令宣と十一娘はその夜遅く西跨院に戻って来た。
二人は屋敷の外に立ち月が淡く照らす前庭を見ていた。
夫婦が敵を討つ事が出来たのは二人が互いを信頼しきっていたから。
加えて家族が援軍となり大夫人を説得出来た。
十一娘はしみじみと夫に語った。
「私、ずっと家庭内の争い事が嫌いでした。そこから逃げる事ばかり考えてました。・・それに候爵家に嫁いだら自由が無くなると思って・・」
だから結婚から逃げようと無謀な計画を立て結婚した後も縁を繋がないよう彼を拒み続けた。
そんな不実な私を夫は辛抱強く導き愛してくれた・・。
彼女は万感の思いで夫を見上げた。
「でも旦那様は結婚してからいつも私を庇って下さいました。二人でずっと困難を乗り越えてきました。私、旦那様が居てくださればもう怖いものなど何もないようです」
夫は優しい眼差しで彼女を見つめて微笑んだ。
十一娘は袂から和離書を出した。
「ですからこの離縁書はもう要りませんね」そういいつつ破ろうとした。
その手を令宣が止めた。
「いいや、これはこのまま置いておこう」
令宣の意外な言葉に十一娘は夫の顔を見つめた。
「・・これがあれば、、今を大事にしようと思えるからな」
十一娘は頷き再び和離書を袂に戻した。
朧に光る月だけが二人の証人だった。

夜半、令宣は隣に妻の温もりがない事に気づいて目覚めた。
姿を捜すと十一娘は寝床を抜け出して一人母の形見となった香袋を眺めていた。
蝋燭の僅かな明かりがその横顔を仄かに照らしている。
令宣はそっと近づくとその肩を抱いた。
「夢で母が会いに来てくれました・・」
母を思い出して哀しみを堪えている様子が可哀相で堪らない。
「犯人はもう裁かれた・・お母さんもあの世で安らかだろう・・」
令宣は妻を自分に引き寄せて慰めた。
「これからずっと私はお前の傍にいるから」
十一娘は夫の肩に赤子のように顔を埋めた。そうすると波が鎮まるように穏やかに心が満たされていくのを感じた。