「いいお酒です!」
陶乳母が感激して注がれるままに口に運ぶ。
その夜秦姨娘は陶乳母を部屋に呼び入れ高価な酒を惜し気もなく並々と注いだ。
「さ、呑んで・・。」
自らも口に運び酔った勢いを装って言った。
「今思えば元奥様は私達と違って羽振りが良かったわね。それに引き換え旦那様は私達妾の事なんて眼中にないわ」
「秦様には分からないと思いますがね、、元奥様も本当は大変だったんですよ!」
「それはどういう意味?旦那様は元奥様を大事にしていたわ。侍女だった碧玉を妾にしたのも元奥様に頼まれたからでしょう。殆ど彼女の所には行かなかったけれど・・」
「碧玉の件はね・・裏があるんですよ」
「と、言うと?」
秦姨娘は更に陶乳母の盃に酒を満たした。
「あの頃元奥様は諄様を身篭っておられたでしょう。それで旦那様と共寝出来ませんでしたからね、寵愛を失わないようにあの碧玉を旦那様の姨娘にしたんです」
部屋の調度品の影で琥珀は息を潜めていた。
姉が姨娘にされたのは元奥様の計略だったのか。
いやその裏にはあの羅家大夫人の影が見え隠れする。
私も姉と同様の事をされかけた。
幸い旦那様が気付き奥様が止めて下さったからこうして無事に居るが姉はどんな思いでいただろうか。
「秦様、ここだけの話にしといてくださいよ。秦様だからこそ話してるんですよ。他の人には言わないで下さいよ」
「安心して。口は固いわ・・でも妙だわ。旦那様はあの喬蓮房さえお気に召さなかったのにどうして碧玉を気に入ったのかしら?」
陶乳母は顔をしかめた。
「碧玉も最初は嫌がったんですよ。それでね奥様がある手を使ったんです」
「どんな手?」
陶乳母は声を落とした。「碧玉には妹が居たでしょ」
琥珀は思わず身を乗り出し、拍子に物音を立てた。
秦姨娘は鼠でも居たのかと素知らぬ顔で受け答えした。
「あらそう?妹が居たの?初めて聞いたわ」
「妹の事で脅迫したんですよ」
私の時と同じく姉妹の情を利用して脅したのか・・。
姉は言う事を聞く以外無かったのね。
「それで・・碧玉は旦那様が酔い潰れている時に寝台に上がってね・・旦那様は翌日気がついてびっくりしてましたよ。それで仕方なくね、碧玉を妾にしてやったんですよ」
「そうだったの」
「ええ!」
「だから碧玉は寵愛されなかったのね。旦那様も仕方なかったんでしょう。」
「ええ~だからそんな手を使ったものだから碧玉の所には一度も行きませんでしたよ。だもんで元奥様の計画が失敗に終わって、碧玉はよく叱られてましたよ」
琥珀は胸が潰れる思いだった。なんて可哀相な姉・・。
「でもね、碧玉は打たれ弱いんですよ。皮肉とか言われるとね」
「皮肉?」
「ええ、恥知らずだとかですね・・碧玉は妾になりたいから旦那様を嵌めたのだとか、それなのに旦那様に冷たくされている、とかね。誰だってそんな事言われたくないでしょう?それで打たれ弱いもんだから気鬱になってとうとう首を吊ったんですよ」
「あの頃確かに気鬱になっていたわね・・それでも何も言ってくれないから・・」
秦姨娘は琥珀の居る暗がりをチラと見た。
「それにしても旦那様は冷たいわね。もう少し関心を持ってくれたって・、もう旦那様の女なんだもの。本当に絶望しなかったら自殺なんてしないでしょ」
「そうなんですよ。でも旦那様は元々人を好きになれない人なんですよ。そうでないと元奥様だって碧玉を妾にはしなかったと思いますね。寵愛を繋ぎ止める為に」
「それは違うと思うわ。旦那様は今の奥様と仲がいいわ」
「それは、今はそうですけど・・将来はどうなるか」
琥珀に聞かせるだけの事は聞き出した。
「この話はここまでにしよう・・さ、呑んでね」
「うんうん」
陶乳母は十分酔っていたがそれでも注がれた酒を嬉しそうに呑んだ。
琥珀は耐えられなかった。辛い。こんなに惨めな話があるだろうか。
姉妹の情につけ込んで姉を追い詰めた羅家夫人、元奥様、そして非情なまでに冷たくした旦那様・・。
これ以上聞いていられない。
陶乳母は酔いが回り卓にコテンと頭を落とした。
すっかり眠り込んだようだ。
琥珀は嗚咽を堪えながら部屋を飛び出していった。
秦姨娘は跡を追った。
花園にある東屋でむせび泣く琥珀を見ながら秦姨娘は確信した。
区励行と約束したのだ。
徐令宣に恨みを持つ琥珀を利用すれば夫人への忠誠心が篤いだけに徐家でひと騒ぎ起こせるのだと。
励行は侍女にそんな力があるのかと疑ったが彼女は十一娘が信頼を寄せているので必ず成功するでしょうとこの企みに胸を張った。
涙にくれる琥珀の肩に手をかけると狙い通り彼女の口からは羅家や元奥様に対する恨みが溢れてきた。
そして彼女が最も恨みに思っていたのは令宣だった。
「旦那様は姉を姨娘にしたのに放っておくなんて酷すぎます。無視するなんて酷い!・・姉は羅家と旦那様に殺されました」

翌日その令宣と十一娘は再び大夫人の前に居た。
「母上、区彦行はもう完全に仙綾閣から出ました。もう一切関わりがありません。どうか十一娘が仙綾閣に行くのをお許し下さい」
令宣は十一娘の憂いを一日も早く解いてやりたかった。
元の元気な妻に戻してやりたかった。
けれど令宣の執り成しは功を奏さなかった。
「区彦行は区彦行。十一娘は十一娘。別の問題だ。それに区彦行が突然出たことに裏はないのか?」
彦行が関わりを断ったことにも疑いの目を向けた。
「十一娘、今日から徐家の主母に戻って欲しい。主母としての責任を果たして欲しいのだ」
令宣はさすがに母の言葉に反発を感じた。
「母上、十一娘は仙綾閣の事で家事を疎かにしていません。どうか仙綾閣にいさせて下さい」
大夫人は左右に首を振った。
「十一娘、徐家に嫁いで来て未だに子供を産んでいない。それで十分務めを果たしたと言えるのかい?」
令宣は母が何を言い出すのかと気色ばんだ。
既に世子の諄も居る。諭も授かっている。屋敷内には彼等の従弟の鳳卿もいる。
徐家の後継ぎに不足はないではないか。
ただ十一娘と夫婦の交わりを持って日が浅い事は口が裂けても言えない。
「母上、十一娘はまだ若いです。急がなくてもよいではありませんか」
「そこまで彼女を庇うんならもう言わない・・十一娘は仕事が忙しくてお前を構えない。妾は今秦姨娘しか居ないから足りないし・・」
大夫人の皮肉たっぷりの言葉に十一娘は次に来る言葉に予想が付き動悸が打つと同時にみぞおちが冷えた。
「令宣、お前に妾をやる」
十一娘はその無慈悲な言葉に血の気の引く思いがした。
大夫人の私への懲罰がこれとは。 
彼女の令宣への愛情は徐家を出る計画を持っていた頃とは明らかに変化していた。
今や令宣の愛を誰かと分け合う事など拷問に等しい。
押しかけ妾の喬姨娘は悪行の果てに追放され文姨娘は強欲な実家の為にやはり追放された。
たった一人残った秦姨娘に令宣は関心を持たない。
十一娘は夫の愛情を一身に受ける身。
それだから大夫人からいつかは新たな妾をと言われるのではないかと薄々予感はしていた。
しかし令宣を愛し、誰の干渉も許さない睦み合いの夜を重ね二人だけの喜びを味わった今、告げられた言葉は十一娘の心を一突きにした。
令宣は即座に否定した。
「母上、それはダメです!」
大夫人は息子を無視した。
「明日、人を立てて妾の人選をしようと思う。令宣、私を母と思うなら断るな!」
そして令宣に反論する暇を与えぬよう断固とした口調で申し渡した。
「疲れた。もうお下がり」

二人で福寿院を出ると令宣は立ち止まり十一娘の腕をとった。
「安心しろ。私は妾を持たないから」
十一娘は令宣に向き合ってその労りの言葉に気丈に微笑してみせた。
だがこの貴族社会ではたとえ一家の主でもその母には逆らえない残酷な掟が有ることを彼女は知っていた。甘い考えに浸っておればそれだけ余計に傷つく事になる。
「旦那様のお心は分かっています。でも義母上がお決めになった事を私達は受け入れるしかありません」
「母上の考えは私の考えじゃない」
「・・分かっています。でも結局のところ私に至らない点が多かったのです」
十一娘の瞳は泣くまいと堪えて潤んでいた。
令宣はその瞳をじっと見つめて優しく言い含めた。
「お前は十分やったんだ。お前の思う通りに生きて欲しい。私が居るから」
十一娘は頷いたがその瞳は哀しみに彩られていた。
令宣は誓った。決して母の言う通りにはさせない。
二人は互いの目を見つめ合った。
互いの瞳の中に希望があると信じて。
令宣は妻の手を握って二人は再び歩き出した。

夫婦二人につき従っていた琥珀は猜疑心でいっぱいになりながら令宣の後ろ姿を凝視していた。

琥珀は秦姨娘の部屋に居た。
「大奥様が奥様を脅迫しているところを見て姉を思い出しました・・それに旦那様は奥様を庇ってらっしゃいますが姉にはあんな仕打ちをしました。いつか奥様にも同じ事をなさるでしょうか?」
秦姨娘は鉢植えの手入れをしながら表情を変えずに答えた。
「徐家で主母の責任を負うのは難しいわ」
思うように生きられない上に夫から遠ざけられても我慢しなければならないのが主母だと秦姨娘は言いたいのだろうか。
「候爵家の闇は深いんですね・・元娘様と旦那様は情がなく冷たい人間だわ。目的の為には手段を選ばない」
元娘は姉を夫を引き止める道具にし、旦那様はその姉を突き放した。
琥珀の言葉からは亡き元娘のみならず令宣に対する恨みが募っている様子が伺えた。
「奥様はいい人ですが、、しきたりの厳しい徐家では奥様がいくら頑張っても認めて貰えません!」
元娘よりも一段低い地位に生まれた十一娘はどうしても婚家から見下される運命にある。
琥珀は手の平で秦姨娘が切り落とした葉を弄びながらやるせない胸の内を零した。
「奥様を見ていると将来姉のようにならないかと心配でたまりません」
「奥様は正室だから彼女が間違いをしなければ大丈夫よ・、だけど正直に言うと彼女はあまり徐家には合わないような気がするわね」
琥珀ははっとした。
「秦姨娘、今のはどういう意味ですか?」
秦姨娘は手入れの手を止めて琥珀に向き合った。
「ほら、奥様は仙綾閣の事を話す時目がきらきらしてらっしゃるでしょう?とても楽しんでらっしゃるんだと思うわ。多分彼女は高い地位やお金は求めていない。自分らしく生きて行きたいんでしょうね」

西誇院に戻ってきた琥珀の顔を見て冬青が驚いた。
「琥珀・・どうしたの?泣いてるじゃない」
「奥様の事が心配なだけ」
「妾のこと?なら安心してよ。旦那様はそんな事させないから」
「どうしてそんな事が言えるの?・・もしあなたに好きな人が居て親に反対されたらどうする?親の望みに背けるの?」
冬青は一瞬考えた。この時代だ。親が反対する結婚は出来ない。旦那様だって親の言い付けに背く事は出来ないのは分かってる。それでも旦那様は奥様を裏切らないという事しか今は考えられない。
琥珀が何故旦那様をそうまで疑うのか分からない。
冬青は黙った。それをどうとったのか琥珀は決然と言い放った。
「こうなったら奥様はあの離縁状を出して徐家を出るべきだわ」
旦那様が山東に発つ前に渡した例の離縁状はまだ奥様の手元にある筈だ。
「徐家を出る?!」冬青は仰天した「簡単に言うけど女子から離縁を切り出すと世間から糾弾されるんだよ!それに羅家だって絶対受け入れてくれないよ。奥様にどうしろって言うのよ!」
「最初から奥様には結婚の意思はなかったじゃない。結婚より逃げる道を選んでた。奥様には仙綾閣があるからきっと一人でも自活していける。徐家がそこまで奥様を追い詰めるんだもの、奥様の性格なら離縁しても困らないでしょう?」
冬青は怒ってそっぽを向いた。
琥珀には見えてないのだろうか?
旦那様がどれほど奥様を愛しているか。奥様だって旦那様を愛してる!
「何なの?その理由!旦那様は奥様にあんなに優しいのになんで離縁しなくちゃならないのよ!」
琥珀は冬青を振り向かせて手をとった。
「冬青、人は心変わりをするのよ」
冬青はその手を振りほどいた。
「旦那様は変わったりしないよ!きっと奥様を助けるよ!」
冬青は姉の事を知らない。だから旦那様を庇うのだ。
「旦那様旦那様って・・本当に旦那様の事を知ってるの?それに奥様の話をしてる時に何で旦那様の事ばかり言うのよ!」
「夫婦は一体だよ!奥様に災いがあれば勿論旦那様を思い出すよ」
琥珀は以前から完全に誤解していた。旦那様の帯を持ち帰った冬青は旦那様に好意を持っているのだと。
「違うでしょう?冬青あなたには一度言わないといけないと思ってた・・あなたの旦那様への気持ちは度が過ぎてる」
冬青は眉を潜めた。
「何のことよ、一体?」
「自分の胸に手を当てて考えてみて」
「何よ!ちゃんと話してるのに訳の分からない事ばかり言って・・」
琥珀は奥様を心配し過ぎて頭がおかしくなったのだろうか。
これ以上言い争っても疲れるだけだ。
「もう行くからね!」
琥珀は屋敷内へ去っていく冬青の後ろ姿を悩ましい目で追った。

臨波は胸が高鳴っていた。
懐には玉で出来たかんざしを一本忍ばせていた。
半月畔まで来るとそのかんざしを出してもう一度見た。
艶艶とした滑らかなかんざしを黒髪に刺すところを想像するだけで自分でもにやけてくるのが分かる。
これを冬青に渡すのだ。
そして結婚してくれと今度こそはっきり言う。
だがその前に令宣十一娘夫婦の許しを得なければならない。
令宣に男として一本立ちする報告をするのだ。胸が高揚する。
その嬉しそうな臨波の様子を照影が目敏く見つけて近寄ってきた。
「傳殿、何かいいことあったんですか?」
「どうだ!」照影の目の前にかんざしをかざして見せた。
「綺麗ですね!」触ろうとするとさっと隠してしまったが照影には見通しだ。
「傳殿~さては冬青さんに上げるんですかぁ?」
「なんで分かったんだ?」
「日頃冬青さんに付き纏ってるからですよ」
照影め、よく見てんな・・
「こいつ!よくもいったな!で、旦那様は?」
「お部屋です」

書斎机の前で令宣は思案に暮れていた。
母上の計画を何としても阻止しなければならない。
「候爵殿、ご相談したい事があります。結婚を・・」
「妾の事は絶対妥協しない・・」
今の彼にとって十一娘を苦しませる選択など万に一つも有り得ない。
結論は一つしかない。生涯十一娘しか愛せないのだから。
十一娘だけを護る夫になるのだ。
令宣は目の前に臨波が居る事さえ気付いていない。
「母上の命令には背けない・・・両方上手くいく方法を考えないと・・」
臨波の声も耳に入らないほどその考えに没頭していた。
母と妻、その軋轢には軍功でならした令宣にも容易に解決法を見つけられない。
その姿を目の当たりにして臨波は令宣の苦悩を思った。
そして自分の幸せな相談をもちかけるのは気が引けてきた。
臨波はかんざしを握ると黙って書斎を出ていった。

庭園づたいの道から聞こえてくる甲高い声に琥珀は眉を潜めた。
「大奥様はお目が高いですよ。私共にご下命頂ければどこのお家でも一番相応しいお嬢様をご紹介致しますから。都のお嬢様をほとんど知っておりますよ」
翌日、杜乳母に案内されて職業仲人が徐家にやってきた。
彼等にとってこんな旨味のある話はない。
大将軍・永平候爵の姨娘だと言えば都で断る家などないだろう。
大店の娘でも少々没落した貴族の家のお嬢様でもいい。
出来るだけ金持ちの家を選んでやろう。そうすれば双方から斡旋料と謝礼が多く入る。
都で評判の徐候爵が相手なら大抵の家は喜んで娘を差し出すだろう。より取り見取りである。
「大奥様と徐候爵の言いつけをよく聞くお嬢様をご紹介しますとも!」
せかせかと扇を使って大きな声で喋り散らす商売気丸出しの女が庭から案内されてくるのを琥珀は唖然として見ていた。