今年も亡き大旦那様とその世子二兄の命日が近づいて来た。
徐家にとって家族だけが参列する大切な行事だ。
毎年その日には二義姉怡真が亡き夫が好きだった竹を描いた絵を燃やし霊前に供える。
今年も怡真は絵を準備しようと筆を手にしていた。
二男・令安は逞しい武人であるだけでなく文人として書画の才にも大層優れていた。
壁にかけた掛け軸の竹絵はその夫の絶筆で怡真が朝な夕な夫を偲ぶよすがとしている。
いざ筆を手にすると亡き夫が怡真の手をとって竹絵を教えてくれた幻が浮かぶ。
怡真と互いに愛し愛された夫とのあの優しい日々は戻らない。
苦手な竹絵を夫の為に描こうとするも思うように筆を走らせる事ができずにもどかしかった。

「奥様、秦姨娘が見えました」
秦姨娘が鉢を持たせた侍女と入って来て怡真に挨拶をした。
「二奥様」
「珍しいわね、あなたがここへ来るのは・・」
「蘭の開花時期になりました。二奥様がお好きなので届けに来ました」
「ありがとう、気を遣ってくれて。どうぞ座って」
「あら絵を描いておられるんですね。運がいいわ。一枚頂いても?」
「そんな上手な絵じゃないわ。数日後にはお義父様と旦那様の命日よ。二旦那様は戦場に居る時は無事を知らせる為によく竹絵を描いて送ってくれた。だから彼の命日には竹絵を描いて彼の霊前に供えるの。でも残念ながら絵が下手でなかなか上手くならなくて今困っているところだわ」
「二旦那様は文武両道の方でした。残念な事に神に妬まれたのかも知れません」
怡真は悔しさの滲むため息をついた。
口にすまいと思いつつ毎年この時期になると知らず無念の死を遂げた夫の境遇に気持ちが高ぶるのを抑えられない。
「軍人が戦場で敵と戦って命を落とすのは残念とは言わない。そうじゃない。お義父様と夫は区家親子の罠に陥れられたのよ。区家が出すべき援軍を出さなかった為に孤城で孤立無援になり恨みを呑んで死んだのよ」
「二奥様、私の失言です。お忘れください・・・あ・・そう言えば」
秦姨娘は突然思いついたかのように自然な風を装い話を続けた。
「仙綾閣に林という絵師が居ます。なかなかの腕前で特に竹絵に優れています。二奥様が代筆でもよければ彼に頼んでみるのも良いかと思いますが」
今ひとつ筆が乗らなかった怡真はその提案を喜んで聴いた。
「なら早速十一娘にお願いしてみるわ」
(十一娘に話されては困る)
秦姨娘は咄嗟に矛先を変えようとした。
「あ、先ほど奥様が命日の準備に追われてらっしゃるのを見ました。しばらく手が離せそうにありませんでしたよ」
怡真の侍女が図らずも気を利かせた。
「奥様、、」
竹絵が上手く描けなくて気が塞いでいた二奥様の気分転換になる。
「散歩がてらにそこへ行ってみませんか?」
「そうね、そうしようか」
秦姨娘にとって狙い通りに話が転がっていくのは快感だった。

仙綾閣では約束どおり彦行が経営から降りることとなり、その引き継ぎが行われていた。
簡先生が彦行に帳簿を手渡した。
「区様の帳簿は照合し終わりました。今日は十日なのできっといらっしゃると思って準備しておきました」
長年関わってきた仙綾閣から降りるとなると彦行はさすがに一抹の寂しさを覚えた。
「帳簿の照合が終わればこの仙綾閣ともお別れですね」
「そんな事仰ると怒りますよ。友達には変わりありませんからね。いつでもお待ちしていますよ」
「簡先生が刺繍を広げたいという信念、敬服します。どうあっても簡先生は私の一生の友人です」
「仙綾閣と私と十一娘の為に色々とありがとうございます」
そこへ店員が主を呼びに来たので話は中断した。
彦行が応接間を出ると見知らぬ貴婦人が付き添いの侍女と共に佇んでいた。
辺りを払うような気品ある姿に彦行は声をかけていた。
「奥様、私でお手伝いできる事がありますでしょうか」
涼しげな瞳の貴公子が怡真を見ていた。ここの経営者の一人だろうか。
「ありがとうございます。こちらに林先生と仰る方がいらっしゃいますか。大層美しい気品のある竹絵を描かれる絵師だと伺いました。是非とも紹介して頂きたいのです」
「奥様褒めすぎです。先生などと呼ばれるのは恐縮です。私はただ単に趣味で好きな竹絵を描いているに過ぎません」
「まあ、貴方が林先生ですのね。これは失礼致しました」
竹絵を所望されるのもこれが最後かも知れない。望まれるなら描いて差しあげよう。
「それでは少々お待ちくださいますか」
彦行は奥へと消えて行った。

怡真達が刺繍品を眺めて過ごすうちにしばらくすると描き上げた一幅を持ち青年が現れた。
彼が手渡してくれた紙を受け取って広げてみるとなるほど噂通りに美しい竹絵が現れた。
「筆運びが繊細で画風が秀美ですね・・先生の画技には敬服します」
「ありがとうございます・・」
「この絵の潤筆料はおいくらでしょうか」
「絵は描きますが絵で生計を立てている訳ではありません。お気に召して頂けたなら奥様に進呈致します。今後仙綾閣でお買い物してくださればそれで結構です」
「勿論です。・・ありがとうございます。お言葉に甘えて頂戴致します」
「それでは用がありますのでお先に失礼致します」
怡真は彦行を礼儀正しく爽やかな青年だと思ったものの美しい竹絵を手に入れた嬉しさから彼の境遇についてそれ以上思いを致す事もなかった。
彦行が去ると怡真は再び竹絵を広げて見入った。

若奥様であり主母である十一娘はここのところ仙綾閣に顔を出す余裕もない程に家事と行事の手配に追われていた。
「奥様、疲れてますね」
夜、冬青が読書している彼女の肩を揉みながら言った。
「もう少し強く・・」
冬青は手の平に力を込めた。
「強すぎるわ、少し控えて」
冬青が力を弱めると十一娘は書から目を離さずに笑って言った。
「今度は弱すぎる」
「もう!奥様は近頃段々気難しくなって来ましたね!」
冬青が腰に手を当てて文句を言った。
その時ふと背後に誰かの気配がした。
令宣がいつの間にか立って居たことに冬青は驚いた。
令宣は冬青に黙っているよう合図した。
冬青はクスリと笑いを噛み殺しながらそっと出て行った。
最近令宣はよくこういう悪戯を仕掛ける。十一娘はまだ気付いて居ない。
「あ~冬青、上手く揉んでくれたら加賞するよ」
令宣が冬青に代わってゆっくりと彼女の肩を揉み始める。
「ん~、よろしい・・」
妻がうっとりと満足げな声を上げたので令宣は密かに微笑んだ。
「冬青、この間から祭礼の準備をしていたら大旦那様と二義兄の事を色々と知ることになったわ。国の為に自分の一生を捧げた・・もしお二人が今の旦那様の成果をご覧になってたらきっと喜ばれるだろうね」
揉む手が止まったので彼女が振り返ると後ろに居たのは令宣だった。
「旦那様!今のは旦那様でしたか!・・ただ今お茶を煎れて来ます」
立とうとする十一娘の手を取って引き止めると令宣は彼女を腕の中に囲い込むように抱いた。
「もう少しこのままで居させてくれ」
国と家の為に忠誠を誓い命を張って日夜勤める苦労も今の妻の一言ですべてが報われ、疲れが一気に癒える心地がした。
十一娘が側に居てくれる限り令宣はどんな敵とも戦って負ける気がしないのだ。
すべてを飲み込んで理解してくれるこの妻がこの上なく大切で愛しい。
彼女も夫の胸に居る安心感に全身を委ねて夫の背を抱いた。

翌日徐家の祭礼の日、一族は祠堂に入り大旦那様と二兄の霊前に揃った。
香が焚かれそれぞれが焼香した。
家長である令宣が済むと怡真は前に進み出て竹絵を焼香台の上で燃やした。
そして、夫の位牌に語りかけた。
「貴方・・貴方は竹の高潔さがお好きでした。この墨竹図、気に入って頂けましたか?あなた、ご安心ください。家の事は心配なさらないで下さい。令宣は国の人材となりました。きっと区家の悪行を暴く証拠を見つけてくれます。貴方と大旦那様の為に無念を晴らしてくれます」
怡真が下がると大夫人が宣言するように話した。
「我々徐家は代々国と百姓の安全を守る事を責任としてきた。皆覚えていておくれ。我々徐家の者はたとえ首が切られ血が流されようとも背骨を折り気骨を失ってはならない」
一斉に拝礼してこの歳の命日の祭礼は厳かに滞りなく終わった。

令宣が公務で外した後福寿院の広間で一族が集まった。
大夫人が疲れた顔でため息を漏らした「はあ~一年が経つのは早いものだね。もう明日は立秋だ。例年のように陛下に代わって裕王が朝臣と家眷を招く事になる。陛下から十一娘も呼ぶようにとお言葉があったようだ。明日、怡真は十一娘と一緒に私に着いて来てくれるか」
怡真は頷いた「はい、義母上」
丹陽県主は十一娘の為に殊の外喜んでいた。
陛下からお言葉を頂けたのだからこれで四義姉上も正式に宮中に呼ばれる貴人達の仲間入りとなる。
反対に大夫人は内心いくらしっかりしていても蔗女である十一娘が粗相をするかも知れないと一言釘を刺しておく事を忘れて居なかった。
「十一娘、本来官家子女の才芸は他人の前で披露すべきものではない。しかしお前は仙綾閣で教え刺繍品が皇宮まで伝わって朝廷にまで知れ渡った。もし明日裕王に何か聞かれたら慎重に言葉を選ぶのだぞ。徐家に迷惑をかけないようにな」
嫌味たっぷりに諭されたが十一娘は顔に出さなかった。
「はい、義母上」
気まずい雰囲気になった時、諄が走って来て祖母を呼んだ。
「お~お~諄や、おいで」
「お祖母ちゃま、見て!陶乳母と兎燈籠を作りました!」
「兎燈籠、綺麗だねぇ。諄は手先が器用だねえ。お祖母ちゃまにも作っておくれ」
諄は急に真面目な顔付きになって尋ねた。
「お祖母ちゃま・・、諭兄さんは何処に居ますか?最近会ってません。もう楽山に行ったんですか?」
皆が顔を曇らせた。
諭は母が農場に送られたせいでふさぎ込み部屋から一歩も出ない日が続いていたのだ。
時折令宣が勉強を教えたり十一娘が慰めに行くと健気な態度で応じるが文姨娘が結果的に区家の手先になって徐家に迷惑をかけた事が理解できる年頃になっていたので誰をも恨む事も出来ず己を責めていた。
大夫人が諄を大事に思う余り周囲も彼ら二人を会わせる事が憚られていた。
「諄や、お前は暗い部屋に閉じ込められただろ?」
「あれは諭兄さんのせいじゃありません!私が遊び過ぎたからです」
「そうかい、そうね諄はいい子だねぇ。諭はねもうすぐ楽山に行くから令宣がお勉強させているんだよ。だから邪魔しないでおこうね」
「はいっ!邪魔しません」
納得した諄は元気な笑顔になって返事をした。
諄が出て行くと大夫人は言い聞かせた。
「徐家がここまで来るのは楽じゃなかった。喬蓮房は姨娘として己心の魔を抑え切れなかった。私欲の為に手段を選ばなかった。それに文姨娘・・区家に踊らされて内通者になった。皆も覚えておきなさい。家で悪行をする者は絶対に許されない!我々徐家は必ずや心を一つにするのだ。そうでないと徐家の100年の土台が生生流転するのだぞ」
全員が唱和するように応じた。
「はい、義母上」

月明かりの下、眠れない大夫人は福寿院の庭を眺めて思案していた。
姥が外は冷えますと外套を着せかけた。
「大旦那様と令安が亡くなってからただ子の成長を念じて過ごして来たがまた試練があるとはなあ」
喬蓮房の悪逆非道は手酷い傷を夫人に負わせたがその傷が乾かぬうちに子を為した文姨娘にまで予見せぬ裏切りを被り、大夫人の胸のうちには忸怩たる思いが渦巻いていた。
「令宣様は一人前になられました。四旦那様が朝臣になられてから何もかも上手くいっておりますでしょう。今回は腹黒い者達を追っ払うことが出来ましたからかえってようございましたよ」
「十一娘はなぁ・・令宣が許すから一向に仙綾閣との縁が切れない。己の事ばかりではこの家の事が疎かになっているだろう。だから未だに身篭っていない」
「元娘奥様が妹を後妻にさせたかったのは諄様の事があるからでしょう?諄様の世子の座を脅かされないようにと。四奥様は賢いお方ですから未妊もお考えの上ではないでしょうか」
「諄の事は既に令宣が決めたんだ。何があっても諄の世子の地位は変わらない。なのに・・」
くよくよと思案する大奥様に姥は休むように奨めた。

立秋、徐家一行は裕王府に向けて馬車を二台連ねて出発した。
前の車には大夫人と怡真、後の車には令宣と十一娘が乗っていた。

彼らより一足先に裕王府に到着していたのは区家の馬車だった。
例年なら靖遠候と長男励行の二人だが今年は彦行も加わっていた。
励行がどういう風の吹き回しか今年は彦行を宮中の面々に会わせる為に礼部から招待状を送ったと言う。
彦行と普段あまり仲の良くない長男の配慮を靖遠候は大いに喜んだ。
区家の勢力拡大の為彦行を朝廷の官吏に士官させるのが靖遠候爵の当面の目標だ。
彦行を説得出来ればどんな手を使っても朝廷の末席に押し込むつもりだった。
正門をくぐる際には今日は高位の方々と知り合いになる機会なんだと諭すのを忘れなかった。
「大身が大勢見えている。初めてとは言え粗相のないようにな。兄を見習え」
彦行は父の言葉に素直に頷きながらも内心ではこの宴で十一娘の姿を見る機会があるだろうかと密かに期待していた。

徐家の馬車が裕王府正門に到着した。
一番に馬車を降りた怡真は大夫人の手を取って助けた。
令宣は十一娘を支えながら彼女を勇気づける言葉をかけていた。
「陛下はお前の作品を殊の外気にいっておられる。今日裕王殿下が陛下の代わりにお前を報償するだろう」

その時怡真の目が裕王府正門の階段の上に佇む青年の姿を捉えた。
昨日燃やした竹絵を描いてくれた仙綾閣のあの絵師ではないか。
彼の前には憎んでもあまりある靖遠候爵とその息子励行が立ち王府家職と挨拶を交わしている。
怡真は胸騒ぎを覚えた。
「怡真どうしたんだい?」
「何故、あの竹絵の絵師がここに?・・彼は何故区家の人達と一緒に居るのですか?」
「竹絵とはなんだい?」
「私が祭礼で二旦那様に燃やして差し上げたあの竹絵です」
その時、階段の上から靖遠候が裕王府の劉家職にこれが次男ですと紹介する声が聞こえた。
「彼は靖遠候爵の息子!?」
脳裏に仙綾閣で彼の手から竹絵を受け取った時の記憶が甦った。
「私は敵の絵を夫に燃やし上げました」
十一娘も区家一行に彦行の姿を認めた。
怡真は心臓が早鐘を打つのを覚えた。
動悸が激しくなり呼吸が思うようにならない。
竹絵・・区家・・仙綾閣?
二義姉が燃やしたあの絵は彦行が描いたものだったのか。
十一娘は怡真の異変の原因が区彦行にある事を知った。
仙綾閣でのことが原因である限り自分の預かり知らぬこととは言えない。
「怡真・・どういうこと!?」
胸を抑えてよろめきかけた怡真を咄嗟に十一娘が支えた。
その時、徐家の到着に気付いた劉家職が慌てて降りてきて挨拶した。
「これはこれは徐公爵、徐大夫人!ようこそいらっしゃいました!どうぞ中へ」
怡真は青い顔をしていたがこの期に及んで裕王殿下の宴に穴を開ける訳にはいかない。
大夫人が小声で「大丈夫かい?」と声をかけた。
怡真は頷くだけで精一杯だった。
そして自分を支えている十一娘のその手を黙って振り払った。


二義姉が十一娘に初めて見せる拒絶だった。