[内通者]
静かな通りに面した料理店の二階で秦姨娘は区励行と向き合って座っていた。
鉢植えの土の中に忍ばせた文が通信手段だった。
「万寿説では失敗したが、令宣にお前の正体がばれずに済んで助かったな」
刺繍が燃やされた事件は首尾良く文姨娘が裏切った事になっている。
だがそもそもは秦姨娘が区励行にもたらした情報によって計画されたものだった。
「今日、私をお呼びになったご用件は何でしょうか」
「令宣と内儀の仲を壊すんだ」
秦姨娘は即座に答えた。
「あの二人は仲が良く、その件は難しいでしょう」
「ふん、お前の方から我々に接触して来た事を忘れるな。これ位の事も出来ずに徐家に復讐しようなどと・・早めに諦めたらどうだ」
秦姨娘の目が悔しげな色を浮かべて励行を睨んだ。
今まで幾度も徐家の情報を励行に与えて来た。
ここで区励行を利用する事が出来なければ今までの苦労も水の泡だ。
何としても踏ん張らなければならないと彼女も腹を括った。
「彼らが私に与えた苦痛を忘れません。お任せ下さい。必ずご期待に応えてみせます」
励行は秦姨娘の意地に火を点ける事に成功して気を良くした。
「仙綾閣に林という男がいるのは知ってるか?」
「林?」
彼女は記憶を探った。仙綾閣に行ったのは旦那様が十一娘によって怪我を負ったとき・・。
あの時の若い男がもしや。
「もしや・・彼は絵師で仙綾閣の経営者の一人だとか・・」
「絵師?・・区家の若様が絵師の訳がないだろ」
「区家?」
なんと、あの若者は区家の御曹子だったのか。
秦姨娘は知らずふっと笑いが洩れた。
「夫人は区家の人と商売をやってるんですか?」
頬が微かに歪んでくる。
奥様の明らかな裏切りじゃないか。
赦せない・・あれほど旦那様に可愛がられているくせに・・。
旦那様は知っているのだろうか。
いや知っているに違いない。
だから怪我をしても黙って耐えていたのだ。
自分の裏切りは棚に上げ憤りが湧いてくる。
何故なの?
自分達妾は何年も冷遇しているくせに若い妻に対して盲目にも程がある。
十一娘だけを甘やかして許している令宣に憎しみが募った。
夫の愛を独り占めしている十一娘は更に憎むべき相手だった。
彦行が父にえこひいきされて妬ましく腹ただしいのは励行も同じだ。
励行は狙い通りの展開になったことをほくそ笑んでいた。
「彼は区家の若様と言うだけじゃない。徐家の奥方とも微妙な関係だ。そこでだ、立秋に陛下は全大臣とその家族を集めて宴会を催す。無論徐家にも招待状を出すからそれを利用出来るかどうかはお前次第だ」

その頃、令宣は南京での任務を終えて徐家に向けて馬を駆りひた走りに走っていた。
一時も早く妻の顔を見たい。
一刻も早く妻を安心させたい・・その一念が心を逸らせていた。
南京からの帰途、臨波は帰りを急ぐ令宣に道中でもう一夜宿を取るよう令宣に勧めたが令宣は聞き入れなかった。
苦笑する臨波を余所に令宣の逸る心はもう既に徐家の妻の元にあった。
令宣は夜遅い時間になってから徐家の正門に到着した。
「旦那様のお戻り!」
いつも通り屋敷内へ伝えようとする門番に令宣は一言「言うな」と口止めをすると躍るような軽い足取りで正門への階段を上がり屋敷内へと入って行った。
彼が一直線に向かう先は西跨院だ。

蝋燭に照らされた西跨院の窓辺で十一娘は一人物想いに耽っていた。
好きな人を案じる気持ちに瞳が蔭っている。
旦那様はまだ南京におられるのだろうか。
危険な目に遭っておられないだろうか。
仏様どうか彼の身に何事も起きませんように・・。
自然と目を閉じ祈るように手を合わせていた。
令宣は足音を忍ばせて庭に立ち密かに彼女の姿を眺めた。
燈しびに仄かに照らされたもの想わしげな妻の横顔が愛おしくいじらしく心に映る。
十一娘がそっと立ちあがった。
鏡台の傍らに置いてあった令宣手作りの錦羽扇を手に取って眺めた。
胸に抱いて令宣を想って目を閉じた。
すると令宣の声が聴こえた。
「会いたかったか?」
旦那様の力強い手の温もりが彼女の肩を背後から包み込んだ。
一瞬幻聴かと思えたがはっとして振り向くと令宣が微笑んでいる。
「旦那様!いつ帰って来られたのですか!?」
「私が居ないあいだずっと想っていてくれたのか?」
十一娘は令宣の首に両の腕を回し胸に頬を埋めると愛しい男の香りを吸った。
「昼も夜も貴方を想っていましたよ」
彼女が耳元で囁く声は令宣の身体を甘く痺れさせた。
令宣は妻を抱く腕に力を込めた。
「私もだ」
夜の庭に虫の声が響いている。

翌朝、明るくなった居間で二人は遅めの朝餉を囲んでいた。
十一娘は令宣におかずを取り分けながら尋ねた。
「旦那様、南京の首尾はいかがでしたか?」
「王久保の妻子は無事救出した。これで靖遠候から脅迫される事も無いだろう。まだ帰順に同意した訳ではない・・だが海禁さえ廃止になれば必ず帰順に応じてくれると思う。自信がある」令宣の顔は晴れやかだった。
「では急ぐこともありませんね。上手く行きそうで良かったです」

臨波が西跨院の門をくぐって来た。
「傳殿」
臨波は表に控えていた冬青に出迎えられた。
「候爵に用事がある」
冬青は池の端で結婚してくれと言われてからぎこちない。
あれは単なる勢いだったのだ。きっと。
勢いを本気にとっちゃダメでしょと忘れようとしてもいた。
だがいざ臨波の影が見えると胸がドキドキする。
前のように自然に笑えない。
「あ~、、旦那様に伝えます」
「ああ・・」
臨波も頬がひきつって表情が硬い。
「旦那様、傳殿がお見えです」
令宣は袂から書状を出した。
「臨波、今回の件で範緯綱に渡して貰いたい記録がある。大事な物なのでお前に行って貰いたい」
「承知しました!」
文を受け取るとふと傍らに置いてある令宣の藍色の帯が目に入った。
非常に緻密な波型の刺繍が施されているのでつい口に出た。
「奥様が作った侯爵のあの帯綺麗ですね。本物みたいに見える・・」
「旦那様は簡素で自然なものがお好きなので山や水の紋様にしたの。目立たないけれど上品に見えるわ」
「よく私の好みを知っているな」
夫婦は目を合わせて微笑みあった。
妻の相伴を受けて朝食を取る令宣の姿は堂々としていて臨波は眩しかった。
『夫婦って、いいものなんだな』
自然と自分もこうありたいと願う気持ちが芽生えた。
臨波の隣で冬青も恥じらっている。
仲の良い夫婦にあてられて照れている二人を横目で見ていた令宣が臨波をけしかけた。
「お前もこういうのが好きなら早く結婚しろ」
臨波はチラと冬青を見た。
「私にもこんな幸運があるといいんですが・・徐殿、他になければこれで失礼します」
「冬青、古い着物の整理をお願い」
「はいっ、奥様」

外に出て二人になると臨波が振り向いて冬青を呼んだ「ちょっといいか」
「傳殿何ですか?」
回廊までついて行くと途中の踊場で「座れ」と言われた。
臨波は自分も座ると手を突き出した「あげる!」
彼の手には陶器の茶色の小瓶が載せられている。
「何ですか?これは」
「都に帰る途中、名医に会った。その医者の作った薬だ。これを塗れば傷痕は残らないらしい」
私の火傷の事ずっと心配してくれてたんだ。
でも、そんな貴重な物を?
冬青が戸惑って黙っていると言われた。
「あまり考え過ぎるな。わざわざ探した訳じゃない。たまたま出会っただけだからな」
「え・・あ~、お薬ありがとうございます!助けて下さった事も・・ありがとうございます!」
「お前・・お前の感謝って口先だけじゃないよな?」
「はあっ?」
「俺ってさ、まあまあ運が良いほうだと思うんだけど、・・どう思う?」
一体何を言おうとしているのか・・まさかだけどこの前言った結婚のこと?
「そ、そんなの分かんないわよ!・・し、仕事が残ってるからお先に失礼します!」
恥ずかしいのをごまかすようにその場を逃げ出したけれど途中で嬉しくなって少し振り向いて笑ってしまった。
臨波も照れ臭くなって同じように笑った。

臨波は嘘をついたりからかったりしてないと思う。
でもまだはっきり申し込まれた訳じゃないもん。あんなの適当過ぎる・・。
そう思いながらも冬青の頬は緩んでくる。
奥様から頼まれた古い荷物の片付けをしよう。
使い古しの衣服を片付けていると旦那様の古い帯が目に入った。
朝、旦那様の帯を臨波が随分羨ましがっていたな。
あれは新しいけれどこの栗色の帯は使い古されてもう色が褪せている。
それでも奥様の緻密な刺繍が美しい紋様を描いている。
もしかしたら、臨波に旦那様と同じような帯をあげたら喜んでくれるかな?
良いよ良いよ。いい考えだわ。
冬青も琥珀も十一娘から刺繍を習って随分経つ。
時間があると二人とも針を持つ事も多い。
奥様の腕前には程遠いけれどこの帯を参考にすればきっと作れる。
臨波に私が気持ちを込めて刺繍した帯をあげる。
どんな顔をして喜ぶかな。きっとものすごく照れるだろうな。
冬青はその考えに嬉しくなって古い帯を手にとった。

片付けを終わると冬青は自分と琥珀の部屋にその帯を持って帰った。
しみじみその帯を眺めていると琥珀が帰って来た。
「それ、旦那様の帯じゃないの?」
琥珀が見咎めた。
冬青は机の下にさっと帯を隠すと「違うよ!見間違いだって」と誤魔化した。
琥珀に知られたくない。
言うときっとからかわれる。
臨波は喧嘩友達みたいなものだと思われている。
臨波から何度も助けて貰って告白されたりした事とか、臨波に贈り物をしようとしてるとか、そんなの今更恥ずかしくて言えない。
奥様にだって言えないよ。
だって正式に申し込まれた訳じゃないもん。

(変よ、あれは確かに旦那様の帯だわ。わざわざ持ち帰って来た訳は?)
琥珀は不審そうな目付きで冬青を見ていたが冬青がごまかすので黙った。
腰を下ろすと彼女は自分の小物入れから白い数珠を取り出して一心に眺め始めた。
羅家大夫人から脅迫を受けて思い悩んでいた当時、仙綾閣で区彦行から貰った大切な数珠だ。
きまりの悪い思いをした冬青は話題を変えたくて琥珀の隣に回って尋ねた。
「琥珀、それ前は毎日着けてたじゃない。お姉さんと会えるように護ってくれるって。最近はどうして着けないの?」
「この数珠は清らかな仏心。私は今妄念に囚われているからこれを着ける資格がないの。でもこの数珠に込められてる善意は一生忘れないわ・・」
衆生を済う仏への祈りが込められたこの数珠を琥珀の歎きを見抜いた区若様が下さった。
そこに特別な意味はなく私が彼が敬愛して止まない奥様の侍女だからに過ぎない。
それを自分が勘違いしたのだ。
若様に身分違いの恋をしてしまった愚かな自分。
琥珀は彦行の綺麗な姿を想い浮かべ諦めの悪い自らを恥じていた。
冬青には彼女の言う意味がさっぱり飲み込めなかった。
「妄念、て何よ。資格って?何を言ってるか全然分からないよ」
「冬青、この数珠ね。珍しい石で出来てる。精密に彫刻されてる。その価値は私達なような侍女に見合うようなものじゃないのよ。身分の高い人だけが着けられるの。分かった?」
冬青は納得しなかった。
「でも奥様は言ったよ!人の身分には尊卑なんかないって。確かに私は侍女で侍女の仕事をして侍女のお給金を貰ってる。だけどそれで人より卑しいって事はないって。その数珠は高価かも知れないけどあなたのものになったのは理由があると思う。分からないよ。どうして何も言われてないのにそんな思い込みするなんて」
琥珀はこれ以上冬青と話し合っても食い違いが生まれるだけだと思った。
話を終わらせようとして数珠を元の小箱に収めながら言った。
「冬青、奥様は心が優しいわ。だけど全ての人がそうとも限らない。自分の身分を自覚しないでうっかりしてると酷い目に合うわよ」
「私は何も求めてない。変なこと言わないで!」
琥珀は笑って冬青の腕をつついた。
「あんたね・・奥様に甘やかされたね」

夜が更け虫の音だけが響く使用人部屋に月明かりが差し込んでいる。
仄かな明かりの下で琥珀はまた姉の遺品を取り出して眺めていた。
横に休んでいる冬青が薄目を開けて文句を言った。
「琥珀、まだ起きてるの?」
「眠れない・・明日は姉の誕生日なの」
冬青は眠そうな目で身を起こした「お姉さんの件、ずっと奥様が調べてるよ。まだ情報が入って来ないだけ」
「分かってる。奥様は十分して下さってる。ただ、私は姉との縁が薄いから姉にまた会えるとは期待してない。だけど、ただ何処かで生きていて欲しいとは思ってる・・」

翌朝、秦姨娘が侍女と庭の散歩をしていると花園の一角に手巾が落ちていた。
拾い上げて見ると蓮の花の刺繍があった。
(これは!)
確かに見覚えがある。
すると後方から冬青の開けっ広げな声が響いて来た。
「ダメじゃない。大事なものを落としちゃ」
「確かにこの辺りで・・」
琥珀のうろたえた声が聞こえる。
秦姨娘はその場に手巾を落とすと侍女を急かして茂みの陰に隠れた。
琥珀が先ほどの手巾を見つけて拾った。
「あった!」
「何よ、ただの手巾じゃない・・」
冬青は大袈裟な琥珀にあきれた。
だが琥珀は手巾を宝物のように胸に抱いていた。
「大事な姉の形見なの」
「今後は気をつけてね!」
「うん、行こう!」

秦姨娘は部屋へ戻ると侍女に用事を言い付け一人になると部屋の戸を閉めた。
密かに箪笥の上から埃だらけの古い木箱を取り出して開けた。
中には先ほど琥珀が大切そうに持っていったものとそっくり同じ刺繍が施された手巾が入っていた。
これは前の元娘奥様の侍女で奥様の計略によって令宣の姨娘にされた碧玉から託された物だ。
その日青白い顔をした碧玉が尋ねて来て生き別れた幼い妹について聞かされた。
彼女からもしこの手巾と同じ布を持つ少女が現れたらそれは私の妹だから優しくしてやって欲しいと頼まれたのだ。
何故自分で妹を捜さないのかと尋ねると彼女は黙ってふらりと部屋を出ていってしまった。
まさかあの琥珀が碧玉の妹だったとは。
碧玉はこれを秦姨娘に手渡した後、自室で首を括って自死した。
秦姨娘は暗い笑みを浮かべた。
「碧玉、こんな大事な時にいい贈り物を遺してくれたわね。・・安心して。貴女と私の為に必ず仇を討つわ・・」