蝋燭の仄かな明かりに小さな頬が白く浮き上がっていた。
「諄ちゃん、眠っているのね」
「先ほど落ち着かれたばかりです」
宮廷より呼び出しがあった為さっきは諄を慰めてやる暇もなかった。
十一娘は疲れたのか眠りこけている諄にそっと寄り添い小さく呼び掛けた。
「明日また来るわね」
「奥様、ありがとうございます」
陶乳母の顔は強張っていた。
迂闊だった。
まさか諭と遊んでいただけで嵌められようとは。
これからは相手が誰であれ油断出来ないと己に言い聞かせていた。
令宣も陶乳母に念を押した「陶乳母、諄の世話をよろしく頼む」
陶乳母は恐縮仕切って頭を下げた。
こんな事、二度も三度もあってたまるものか、陶乳母の決意は固かった。
諄様は命に替えても守ってみせる。
「旦那様ご安心下さい。私が生きている限り諄様に辛い思いをさせません」
「諄ちゃんが無事で良かったです・・義母上には心配をおかけしてしまいました」
令宣は肩を落とした十一娘の背中に手を回して支え労るようにゆっくり歩いた。
「いいんだ。母上には明日私から説明しよう。」

翌朝、福寿院。
「まさか内通者とはな、最初は信じられなかった」大夫人は苦り切っていた。
「今になってやっと分かった。文姨娘の心根が陰険だとな」
子供を利用し世継ぎの諄を危険な目に合わせたとは。
文姨娘の性根を昨日の昨日まで知らずにいた事が尚更腹立たしい。
大夫人は令宣に意見を聞くことなく独断で文姨娘に罰を与えていた。
「今日、農場へやった。もう徐家へは帰さない」
喬蓮房と同じきつい処分だ。
つまりは諭とも縁を切らせ二度と合わせないつもりだ。
厳しい沙汰に令宣夫婦は顔を見合わせたが大夫人は断固としていた。
「十一娘、この件お前の功績が大きい」
夫人は陛下へ献上する刺繍の一件について褒めている。
十一娘は謙遜した「旦那様が手配して下さらなかったら成功しませんでした」
「令宣と心を一つにして立ち向かったから災いを回避出来た。お前の力だから受け止めなさい」
陛下を欺けば忽ち死罪。報償されれば一門の名誉。
紙一重で助かったと言える。
「義母上、ありがとうございます」
しかし褒め言葉を文字通りに受け取る訳にはいかなかった。
椅子に腰を落ち着けると姑は十一娘をひたと見つめた。
「十一娘、今日を限りに仙綾閣を辞めて欲しい」
十一娘は戸惑いで動けない。
令宣の表情は凍った。
「母上・・ご心配なのは分かります。この件は私が必ず処理します」
「諄が無事で、今回はお前達も無事に帰れたが、次はどうなるの?その次は?」
十一娘が仙綾閣と縁を切らない限り朝廷と区家、口さがない世間は今後どう出てくるとも限らない。
上手く行けば今回のように称賛を受けるがまかり間違えば家門への障りとなる。
不安の芽は摘み取っておくに限る。
君子危うきに近寄らずだ。
「話はここまでだ。お前達よく考えなさい」
大夫人は問答無用の姿勢を見せた。
こういう時の大夫人には説得が逆効果になるのを息子夫婦は知っている。
夫婦は黙って内心の辛さに抗っていた。
そこへ遊びを終えた諄が陶乳母に連れられ飛び込んで来て祖母の膝に懐いた。
「諄ちゃんよ!さあお菓子をお食べ」
大夫人が傍らの菓子をひとつつまんで諄に手渡した。
早速菓子に口をつけた諄はもう何時もの諄なのだった。

その頃臨波は花園の池の縁に向かって歩いていく冬青を見つけた。
その手には大袈裟にも痛々しく白い包帯が巻かれていた。令宣から昨日の一件を聞いた際に放火で冬青が手に火傷を負ったと聞き気になって仕方がなかった。
冬青は臨波が目に入らないらしく俯き加減でどんどん池に近付いていく。
何をする気だ?まさか!
咄嗟に臨波は冬青に突進すると抱きとめていた。
「何するんだ!」
急に抱きしめられた冬青は驚いて呆気にとられている。
「お前、まさか池に身投げする気じゃないだろうな!」
「なんで、そんな風に考えるんですか?」
臨波はもう一度冬青を抱きしめた。
「火傷で嫁に行けないとか悲観してるんじゃないのか?それなら俺と結婚してくれ!」
冬青は風に吹き飛ばされ地面に落ちた絹を拾い上げた「これを拾おうと思っただけじゃないですか!」
「なんだ・・そうか」
臨波は自分の早とちりが恥ずかしかったが、一旦出した言葉は飲み込めない。
真顔で約束して見せた。
「男に二言はない!たとえそうだとしても今言った事は本気だからな!」
冬青も照れ臭かった。
「もうまた出鱈目言ったら怒るからね!」
臨波は赤くなって去って行った。
冬青はその後ろ姿をやはり赤くなりながら見送った。

文姨娘が追放された農場はうら寂しい片田舎にあった。
文家の義姉が訪れていた。
「みすぼらしいところね」
手入れの行き届かない陋屋に義姉は嘆息した。
義妹をこんな立場に追いやった事を言い訳し出した。
「あなた大変だったわね。でもね、仕方なかったのよ。うち(文家)が養蚕農家を死に追いやった事を区家に嗅ぎ付けられて弱みを握られたのは本当にまずかった」
区家は順天府にばらされたくなければ十一娘の刺繍を燃やせと脅しをかけて来た。
「貴女に頼まなければ通報されてしまってたわ。そうなれば文家は終わりよ。貴女しか頼れる人がいなかったのよ」
確かに文姨娘には十一娘と令宣に対する恨みという動機がある。
他方文姨娘は実家の不始末を徐家に打ち明ける事も出来ず結局義姉からの頼みを聞く道を選んでしまった。
実直な令宣の事だ。有りのままを相談すれば文家の悪事を隠蔽するどころか悪縁を絶てと言いかねない。
「分かっています」文姨娘は諦めの境地だ。
「文家を守る為ならこれくらいどうって事ありません」
義妹を騙したような形になり気が咎めていたがそう言ってくれれば一安心だ。
「なら良かったわ・・諭は庶子だし、あの四夫人は貴女に厳しいし、あなたも文家を頼りにしないとこの先どうやって生きていくのよ・、文家の指示に従ってくれれば私達も貴女を悪いようにはしないわ」
文姨娘はこっくり頷いた。
「ただ、今回はやり方が不味かったわね。四夫人に現行犯で捕まるとはね」
「十分気を付けてました。ただ夫人が私を警戒してたんです。区家の内通者だと私に無実の罪を着せました。諭まで巻き込みました」
「貴女は諭の母親なんだからいつかは徐家に帰されるよ。うちの件と関係があるなんて絶対ばれちやダメよ。ばれたら文家は終わり。諭だって将来は無いからね!」
文姨娘は途端に顔色を変えた「分かりました」
義妹は単純だ。
諭の為と脅せば必ず乗ってくる。
これだけ念を押せば文家の悪事が露見するような事はないだろう。

仙綾閣の客間で十一娘は簡先生と向き合っていた。
簡先生は本当に嬉しそうだった。
「十一娘、天之四霊図が陛下にお褒めの言葉を頂いた事が評判になって仙綾閣の注文が大幅に増えたのよ」
十一娘は花が咲くように微笑んだ。
「十一娘、貴女が長年刺繍を修練してきてこんな評価を頂けて私も本当に嬉しいわ!」
「優しい先生が居るからです!それに皆の協力も欠かせないです。今回の報償は私だけのものではありません」
簡先生は十一娘が刺繍の腕を上げただけでなく謙虚さも忘れない弟子に育ってくれた事が師匠として殊に嬉しかった。
十一娘の美しさは心だけではない。
夫に愛されているのが分かる。
彼女は目に見えて美しくなった。
簡先生は家庭に喜びを見出だせなかった彼女が新たな幸せを得て活き活きと変わってきた事が彼女の為に何より嬉しかった。
「あ、そういえば先生、区公子は来られていますか?」
簡先生の表情が微妙に蔭った。
「いいえ、ここ最近彼に会っていないわ」
やはり・・区公子は百寿図の一件を徐家である十一娘に注意した事が励行に知られてしまったに違いない。
励行の企みを打ち砕く結果になって彼は難しい立場に立たされているだろう。
十一娘は琥珀を振り返った。
「琥珀、区様の近況を調べてきて。靖遠候爵に処罰された可能性があるわ」
「はい、行ってきます」
琥珀は十一娘の言葉を聞くとすぐに区家に向かった。琥珀も同様に案じていた。
奥様から命じられなくても自分から進んで様子を見に行こうと心に決めていた。

二人の弟子が大事そうに布を抱えて来た。
二人とも豪雨災害の時農村から難民として都に来た女性だった。
彼女達は喬蓮房が罠を仕掛けて仙綾閣に激震が走った時も態度を変えなかった信頼の於ける人材だった。
「師匠、羅先生!おめでとうございます!これは私達からのお祝いです」
絹を拡げて見せた。
「これは皆で刺繍した桃李満門です。私達は家を失いお二人が引き取って刺繍の技を教えて下さらなければ路頭に迷って死んでいたかも知れません。今のように刺繍で生計を立てる事も出来ませんでした」
簡先生は立って二人を労って言った。
「ありがとう、でも言い過ぎよ。刺繍で女性を助けることが仙綾閣を創業した精神よ」
「今後も皆で刺繍の技を広めてもっとたくさんの女性達を助けられたらそれが簡先生への1番の恩返しよ」
「はい、お二人の期待を裏切りません!」

[区家]
琥珀はすすり泣きながら区彦行の背中に薬を塗っていた。
危険を冒して区家に潜入した琥珀は鞭で背中を打たれた彦行を見つけた。
彼の白い背中は真っ赤な傷跡が幾重にも交差していた。
彦行が徐家を助けた事を知った父靖遠公によって処罰されたのだ。
「琥珀、此処に居ると知られたら危険だ」
琥珀は構わず手当をしながら涙を流し嗚咽を堪えていた。
「公子、私達の為にこんなに酷い傷を負ったんです。痛かったでしょう」
彦行は十一娘から遣わされてきた琥珀の親切を受け入れた。
だが彼女の気持ちを知っているだけに彼女を危険な目に合わせたり、まして利用して傷付けたくなかった。
「琥珀、私には想いを寄せている女性が居る。分かっているだろう?」
琥珀はその言葉に動揺して手を止めた。
区公子は私の気持ちに気付いている。
「若様!」表で見張りをしていた安泰の慌てた声がした。
「彦行に会わせろ」兄の励行だ。どこで嗅ぎ付けて来たのか。
「兄だ!何故?」琥珀が見つかっては危険だ。
表で安泰が懸命に言い訳をしている。「若旦那様、若様は傷が深くて休んでいます」
「生意気な。兄の私が心配して来たんだ。使用人は黙っていろ」
「若様は養生する必要があります。医者からそう言われました」
「そんなに酷いのか。尚更見舞わなくてはな」
励行の護衛林彬がカチャリと刀の束を鳴らす音がして、二人が押し入ってくる気配がした。
引き止めは無理だと悟って彦行は寝台の奥に琥珀を隠した。
強引に入って来た励行は下着姿の彦行と脇の包帯や軟膏が載った盆をじろじろ見た。
血糊が着いた包帯も残されていた。
「兄上、どうされました」
「お前を見舞に来てやったんだ・・まだ薬を塗り終わってないんだろう、林彬!彦行に薬を塗ってやれ」
「は!」
まずい、このまま部屋に居座られたら琥珀の存在に気づかれてしまう。
と、その時寝台の影から声がした「若様、薬ならわたくしが・・」
声の主は肩を出した下着の後ろ姿でなまめかしく半身だけを見せていた。
「!」励行は呆気にとられた。
安泰が見張りをしているのでどうもおかしいと思って探りに来たが女を連れ込んでいたのか。
父上が知ればどう思う。
琥珀の咄嗟の演技に励行は騙された。
「だから安泰に見張りをさせてたのか。傷がまだ治ってないのに・・感服するな」
真面目一方に見せかけて隠れて色事に精を出していたとはと励行は弟を皮肉った。
彦行はバツの悪い笑顔を作って見せると励行に手を合わせて頼んだ。
「兄上、どうかご内密に・・」
「安心しろ。こんな事誰に言えるものか」
励行はまだ自身も板打ちの傷が癒えておらず林彬に支えられながら不自然な格好で出ていった。

安泰はまた見張りに戻り、彦行はそっと深いため息をついた。
「・・琥珀、もう大丈夫だ」
寝台から出て来た琥珀のちらりと見えた肌着から彦行は目を背けた。
「公子、お怪我をなさっていますから座っていて下さい」
自分を気遣う琥珀に彦行は心苦しかった。
「琥珀、今日の事は誰にも言わない。安泰がお前を送って行くから安心しろ。・・もう来るな」
「私の自惚れでした。好きになってはいけないのに・・ごめんなさい」
「そんな意味じゃない・・」
「私は身分が賎しいので夢にも見る事は叶いませんが・・若様の事を一番分かっている人間の一人です。若様と同じく想い人が幸せになる事を心から願っています」
そう言い残して琥珀も部屋を後にした。

令宣が眉根を寄せて東海からの書状を読んでいるので十一娘が尋ねた。
「旦那様、何かお悩みですか?」
「靖遠候爵が南京で海賊の王久保の妻子を軟禁しているらしい。王久保は残った海賊の中で一番の勢力を持っている。だからこそ朝廷に帰順して欲しいんだ。彼の妻子を無事解放出来れば彼の信頼を得られる」
「帰順ですか?」
「彼らが帰順すれば結果的に国内の海賊の数を減らす事が出来る。そうすれば兵力を温存して外敵に回せる」
「もし王久保が帰順すれば靖遠候爵と手を結んでいた証拠を差し出すかも知れませんね」
「そうだ。だから南京に行く積もりだ。その妻子を捜す為に」
「旦那様が自ら行かれるのですか?敵に知られたら何か危害を加えられないか心配です」
「安心しろ。もう王久保の家族を救う計画を立てた。南京には協力者が居る。彼らに協力して貰う手筈になっている。王久保に関して言えば彼らの家族を助けるのだから私を傷つけるような事はまずすまい。恩を仇で返すような事があれば海賊の中にも居られないんだ」
「それなら良かったです。でも旦那様・・くれぐれも気を付けて下さいね」
彼が山東で危険な作戦に身を投じた時の恐怖は今も忘れられない。
安心せよと言われても十一娘は令宣を案じる事をやめられなかった。
内心の不安を隠し瞬きもせず自分を見つめる妻に令宣は愛おしげに微笑みを返した。
お前を一人になどするものか。
必ずお前の元に帰ってくる。
必ず無事に帰って来て下さい。
十一娘は切なる願いを込めてしっかりと夫の手に自分の手を重ねた。
令宣は慈しみを込めてその手を包み込んだ。

果たして令宣は危険を冒したものの十一娘の願いに応えて軟禁されていた王久保の妻子を見つけ無事救出した。
妻子を人質として更に大久保を操ろうとしていた靖遠候爵の策謀は潰えた。
これはしかし後々十一娘の命を脅かす謀略へと繋がっていくのだがこの時の令宣達は知る由もない。
妻子を安全なところへ匿った次第は即座に王久保に伝わり彼の信頼を獲得する事に成功した。
遂に令宣は王久保と対面する為に海賊船の入り江へと足を踏み入れた。

王久保は出航の合間、令宣を船に迎え入れた。
「まさか候爵はただの親切で俺の家族を救った訳じゃないだろうな」
「私の厚意だと受け取ってくれればいい。お主の家族の心配は勿論だが一番はお主に会いたかったんだ」
王久保は笑った。
「はっはっは・・候爵の狙いは俺達の帰順だろう・・帰順したら一体何が貰えるんだ?」 
「官職と給与は相談可。部下もそのまま。しかも福建都指揮使司に追い使われる事もない。お主が指揮を取れる」
「ははは・・いいことづくめだな・・心が動くな」
「気に食わないのか?」
「満足だ。そんな待遇は満足だとも。だが信じられない・・此処に居る者達は元々漁民だ。だが食うに困って仕方なく海賊になった。だが貴様らは俺達の家族で脅して来た。そんな朝廷を信じられるか?」
「分かっている。海禁さえなければ普通の生活を送れていた。靖遠候爵に脅されなければ漁民に戻れていた筈・・」
「分かってるならいい・・沿岸部の漁民の生活を考えてやる事が大事だ」
話はこれまでと王久保は立ち去りかけた。
「海禁を廃止する」
「何だと!」王久保が振り向いた。
「朝廷は海禁を廃止する事を検討している。海禁を廃止すれば沿岸部の民衆は自由に商売が出来る。お主には言わずとも解る筈だ」
「それをどう証明してくれるんだ」
「信じてくれ」
「分かった。海禁が廃止となった時にまた相談に来い」
裏切りに次ぐ裏切り、餌をちらつかされ騙されて来た彼らがそう易々と官吏の言葉を信じる筈もない。
「誰か!」
「は!」
「永平候爵がお帰りだ。お見送りしろ!」
「徐候爵、どうぞ!」
指し示され令宣は船を下りた。
船の下では臨波が護衛の部下と共に令宣を待ち構えていた。
「徐殿、王久保の反応はいかがでしたか?」
「長年、靖遠候に脅されて来たためにそう容易には心を開かない」
「では無駄働きでしたか?」
苦労して王久保の妻子を助け出したのだ。
「いや、そうとも限らない。・・彼らは待っているのだ。海禁が廃止される日を・・海禁さえ廃止出来れば応じてくれるさ。彼らも生きて行きたいだけなんだ」

文姨娘が荘園に移されたので徐家に住む姨娘(妾)は遂に秦姨娘一人となった。
姨娘と言っても名ばかりでここ十年以上も主人が通ってきた事はない。
恐らく今後も主人が来る事はない。
徐家の上から下まで誰もがそう考えているだろう。
身寄りもないので訪ねてくる者もおらず侍女と二人きりの寂しい一日はひたすらに長い。
時折、植木屋より届けられる新しい鉢だけが彼女の慰めとなっている。
秦姨娘は住居の庭でその寂しさを紛らわすかのように花の手入れに精を出していた。
そこへ侍女が鉢を届けた。
「秦様、ご注文の鉢が届きました」
何の変哲もない小さな薔薇の鉢が慎ましく置かれた。
「ありがとう、、、仕事に戻って」

侍女を下がらせると彼女は落ち着いた様子で密かに鉢植の土の中を探った。