十一娘は仙綾閣で皇帝に献上する壁かけの刺繍の仕上げに没頭していた。
仙綾閣から出品するもので特に肝心な部分や仕上げは十一娘が担当し仙綾閣の他の職人達が協力しながら仕立てる。
赤い錦に金糸がまばゆいばかりに輝いて息をのむ美しさだ。
時を忘れそうになっている十一娘に簡先生が休ませようと声をかけた。
「十一娘」
「簡先生」
「頑張ってるわね。この百寿図はもうほとんど出来上がっているから残りは職人に任せましょ。疲れたでしょう、早く帰って休んで」
「はい、それではお先に失礼します。先生」

帰宅してからも夜、十一娘はまた刺繍台に向かっていた。
冬青が控えていると令宣が帰って来た。
令宣が冬青に黙っているよう合図したので冬青は笑いをこらえながら出ていった。
十一娘は冬青と入れ替わりに入って来たのは琥珀だと思って刺繍から目を上げずに指示を出した。
「琥珀、これからやる家事をまとめてあるから明日各家職に渡して頂戴」
彼女の傍らにある帳面に令宣が手を伸ばした。
「机の上に置いてある・・旦那様!」
「旦那様お帰りなさいませ。どうして冬青は教えてくれなかったの?」
「私が止めたんだ」
令宣は立ち上がった十一娘の頬を手の平で包んだ。
「家事もして・・万寿節の準備もして・・大変だろう」
妻は笑顔で答えた。
「いいんです」
「暫く、家事を誰かに代わって貰おう」
「大丈夫です、旦那様。指示が細かい上にそれぞれが絡みあっています。責任を持って決める人が必要です。旦那様安心してください。ちゃんと処理出来ますよ」
令宣は白家職から報告を受けて知っていた。
奥様は細部に至るまで綿密に計画され徐家の家事経営は万端滞りなく行われておりますと。
それだけではない。以前は笊だった内院の家計が無駄をなくして引締められ驚くほど予算に余力を残せるようになった事も報告されていた。
そして表裏なく働く者には身分の上下に関係なく加賞を施す事も忘れなかった。
令宣は妻の頬を愛おしそうに撫でた。
「お前に苦労をさせたくないんだ」
「いいえ苦労じゃありませんよ。旦那様心配して下さってありがとうございます。・・刺繍を順調に終わらせて選ばれたいですね。そうしたら仙綾閣の技術が世に認められて広がって、刺繍を習いたい女性を助けられます」
「では、私に手伝える事はないか?」
十一娘は甘えるような瞳で夫を見上げた。
「支えて下さっているだけで十分です」
「じゃあ支えてやろう」
令宣は窓の外を行き来する使用人の目も憚らず文字通り支えるように妻を抱きよせた。

次の日、簡先生が仙綾閣に区公子をも招いた。
「百寿図には区公子のご協力を頂いたので是非とも完成品をお見せしたかったんです」
丸卓に置かれた百寿図に見とれ絹の表に指を滑らせていた区彦行が絶賛した。
「素晴らしいです。これはきっと選ばれると思います!」
簡先生が十一娘に笑顔を向けた。彼女も頷いた。
区公子は警戒する事も忘れないように釘を刺した。
「でも私が言った事、忘れないで下さいね」
「はい公子、既に対策は打ってあります。後ほど百寿図を家に持って帰ります」
区公子は頷いた。

冬青が百寿図の入った風呂敷包みを持ち十一娘が帰宅すると西跨院から琥珀が出迎えて伝えた。
「奥様、文姨娘と秦姨娘がお待ちです」
二人の来た理由は予想がついていた。
十一娘が入っていくと二人が立ち上がった。
「奥様」
「奥様、お疲れのところお邪魔します。仙綾閣からのお帰りですか?」
十一娘は笑みをたたえた。
「そうよ」
文姨娘が口火を切った「奥様は仙綾閣で万寿節に出す刺繍を準備なさっているそうですが・・冬青の持っているのがそうですか?・・奥様気になりますので見せて頂けますか?」
十一娘は微笑むと冬青に合図した。
冬青と琥珀が刺繍を二人の前に広げて見せた。
息をのむような圧倒的な錦に二人は声も出なかった。
皇帝に献上する作品だけあって構成全体が気品に満ち溢れ手作業の緻密さかつ高雅さは芸術として一級品と呼べる水準であった。
それは十一娘の実力が遺憾無く発揮された芸術作品であると認めざるを得なかった。
文姨娘は内心恥を感じどう反応して良いのやら分からなかった。
かつて十一娘が嫁入った頃、喬姨娘に唆され妾達がわざわざ奥様に衣装を自慢して見せた事を思い出した。
彼女を田舎者呼ばわりして侮っていた事を十一娘は今も覚えているだろう。
二人はただ黙って鑑賞する他無かった。
二人の思惑を余所に十一娘は何かが起こる嵐の前ぶれをざわざわと胸のうちに感じていた。

花園の四阿屋で音読する諭の姿があった。
「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ・・」
「諭ちゃん、お勉強してるわね」
「母さん!」
文姨娘は諭の頭をなでた。
「どう?荷造りは済んだの?」
もうすぐ四川の謹習書院へ旅立つのだ。来年だと思っていたのに書院から就学を早めるよう連絡があったと言う。
「はい、もう済みました」
身の回りの物以外は書院に揃っているので荷造りは簡単だった。
文姨娘はため息をつきながら座った。
「母さん、どうして悲しいんですか?」
諭が淡々としているので余計にため息が出た。
「あなたに行って欲しくないのよ」
「母さん悲しまないで。また帰ってきますから。帰る時は科挙を受けますから!」
小さい身体で健気に努める息子に姨娘は胸をつかれて頷き返した。
「そういえば・・諭ちゃんが行ってしまったら長い間諄様に会えなくなるわよ。挨拶に行ってきたら?最後に遊んであげて。諄様はかくれんぼが大好きだから一緒にしてあげたら?」
「母さん、いい考えです。じゃあ行ってきます!」
「行っておいで」
勉強と旅支度で暫く諄とも会えていない。諭は別れる前に弟と遊んであげようと諄が学んでいる教室へと向かって駆けて行った。
その後ろ姿を見届けると文姨娘は侍女と密かに目配せを交わした。

諭が入口から覗くと諄は書を写していた。
静かな教室には居眠りしている趙先生のいびきが響いていた。
「コンッ」
諭が諄の机に木の実を投げた。
「兄上・・・」
諄は諭に気づいた。諭は「しーっ」と唇に指を当てて趙先生を起こさないよう出ておいでと合図を送った。
諄はそおっと席を抜け出した。
「兄上、どうしたの?」
「もうすぐ楽山の書院に行くよ。そしたらもう一緒にお勉強出来ないから会いに来たよ。ほら、これ上げる」
諭は諄に手作りの風車を差し出した。
兄が何処か遠くへ行ってしまう。それが諄の顔に陰を落とした。
「どうして行くの?」諄にはまだ兄が離れていく事が理解出来ない。
弟とは違って諭には幼い乍ら夢があった。
「お勉強しに行くよ。うんと勉強して科挙を受けるんだ。そして家門を輝かせる」
「ふうん・・」
「趙先生が起きる前に遊ぼう!」
「ほんと?今日は遊べるの?」
「うん、何で遊ぼうか?付き合うよ」
諄は少し考える顔になった。
「う~ん・・かくれんぼしたい!」諄の一番好きな遊びだった。徐家の広い敷地なら隠れるところが沢山あって愉しめるのだ。
諭は諄を教室から少し離れた庭へ連れ出すと自分が鬼になると言って数を数え始めた。
諄はたちまち夢中になって小走りに走り始める。少し行くと足元に昆虫の玩具が落ちていた。諄は思わず拾った。また少し先に玩具が落ちている。
これも兄の贈り物かも知れない。そう考えて諄は嬉しくなった。
随分と拾って歩くうちに数を数え切った兄の声が聴こえた。
「いけない。見つかる」
慌てて最後に玩具が落ちていた空き部屋に忍び込んで扉を閉めた。

ところが諄が入った途端表から扉を施錠する人影が見えた。
閉じ込められた!と気づいて諄は必死に開けてと叫んだ。
がしかし人影は無情にも去って行った。
見渡せば黴臭く埃だらけの誰も使っていない薄暗い部屋だ。
普段なら諄とて恐ろしくて入らないだろう。
広大な屋敷内には諄がまだ入った事のない離れや陋屋があった。
使用人が普段通らない離れもある。
そのひとつに閉じ込められた事が分かって諄は恐ろしくて泣くばかりだった。

十一娘が最後の縫い取りを終え引き出しに刺繍を仕舞った時、諭が突然部屋に飛び込んで来た。
「母上!母上!母上」
諭は歳に似合わず落ち着いた子供でこんな風に礼儀を弁えずいきなり飛び込んで来た事などない。
余程の事が起きたのだろう。
「諭ちゃん、落ち着いて。どうしたの?」
「諄様が消えました」
「どういう事?」
「1時間前に福寿院で諄様とかくれんぼをしました。その時から諄様が消えました!どんなに探しても見つからないんです」
10分や15分程度なら隠れたままかも知れないが1時間となると異常だ。諄は特に怖がりな性分だから見つからなければ自分から出てくるだろう。
「琥珀!」十一娘は命じた。
「門番に言い付けて。諄ちゃんが見つかるまで一切の出入りを禁ずる!」
「はい!」
次の間に居た冬青も呼ばれた。
「冬青、侍女と使用人を集めて。全員で諄様を捜そう」
「はい奥様」
命ずると十一娘は諭の手を取った。
「さ、行こう。そこへ連れて行って」

福寿院の庭を中心に大勢が諄の名を呼んで捜索が始まった。
「何があった?」
令宣が帰宅して捜索している十一娘と出会った。
「諄ちゃんが消えました」
令宣の顔を見てさすがの十一娘も泣きそうな気持ちを隠せない。
ここ都では金持ちの子息の誘拐がまま有るのだ。
「私のせいです。自分の事ばかりに集中していて。もし諄ちゃんに何かあったらわたし・・」
諭が見かねて言った。
「母上のせいじゃありません。私のせいです」
諭がこういうのは直前まで諭と居たと言う事か。
「心配するな。大奥様と私の命令がなければ誰も諄を連れ出せない。だからきっとこの屋敷内に居る」
一先ず二人の心を落ち着かせた令宣は使用人達に命じた。
「よく聞け。子供が入り込むような狭い場所をよく探すんだ」
「はい」
十一娘は改めて諭に尋ねた。
「諭ちゃん、諄ちゃんはどっちの方角へ行ったか分かる?」
「あっちです」
諭が指差した方向へ歩いて行くと道端の芝生に子供の小さな玩具が落ちていた。
令宣が拾い上げると諭が言った。
「私があげた風車です!」
両側は竹薮と庭石に囲まれているが見通しは良い。
尚も行くと更にもうひとつ落ちている。
令宣は指差した。
「こっちの方向だ。探してくれ」
「はい!」
男の使用人達が走って行った。
「諄はこの玩具に惹かれてあちらの方角へ行ったに違いない。大丈夫だ。すぐに見つかる」
十一娘は令宣が手にした玩具を見て気付いた。
「旦那様!」
「十一娘」
令宣も気づいた。
玩具が点々と落ちているのは偶然ではない。
誰かがわざとここに玩具を置いた。
何の為に?
諄が消え、その為に十一娘も令宣も此処に居り西跨院の使用人達も全員が出払っている。
あってはならない疑惑が二人の脳裏に同時に浮かんだ。
「百寿図!」
二人は西跨院に向かって駆け出した。

二人が西跨院の入り口に着いて見たのは床の上で燃え上がる百寿図だった。
傍らには文姨娘がすっくと立って赤く燃える絹を見つめて居る。
呆然と立ち尽くす十一娘をよそに冬青が真っ先に飛んで行き燃えている百寿図を自分の手で消し止めようとした。
「危ない!」十一娘が叫んで冬青を炎から引き離した。
「冬青!火傷したのね」
「百寿図!」
「いいから早く薬を塗って来なさい」
令宣が冷静に百寿図の上に毛氈を被せると鎮火した。
辺りに煙が立ち込め、ぼろ切れのようにようになった百寿図が遺された。
精魂を込めて刺繍した作品だが燃えるのは一瞬だった。
十一娘は文姨娘のほうに顔を向けた「どうして・・!?」
元々区公子から警告されていた事だったがまさか身内から火の手があがるとは。
令宣もさすがに厳しく叱責せずには居られ無かった。
「百寿図は十一娘が皇帝に奉献する物だ!これで徐家が治罪される事になるのを分かっているのか?諭まで巻き込まれるのだぞ。何故こんな事をしたんだ!」
十一娘は彼女が何と答えるのか息を詰めて見つめていたが文姨娘は頑固に沈黙したまま口を開かなかった。

「奥様!諄様が見つかりました!」
陶乳母が諄をしっかり抱き抱えて連れて入ってきた。
青い顔をしている諄を十一娘は抱き寄せた。
「諄ちゃん、大丈夫なの?」
十一娘の懐でふと我に返ったのか諄は急に泣きじゃくり、訴えた。
「閉じ込められました・・怖かったです・・」
陶乳母は憤懣やるかたない「誰にやられたんです?教えてください」
「分かりません・・」後は泣くばかりだった。
「あ~よしよし、もう大丈夫よ」
十一娘は琥珀に向かって尋ねた「何処で見つけたの?」
「倉庫の近くにある廃墟になっている部屋です」
諄は泣き止まない。
捜索に加わっていた男の使用人が報告した。
「奥様、先ほど倉庫の近くに諭様がいらっしゃるのを見ました」
その言葉に皆が一斉に諭を見た。
諭は必死に打ち消した「父上母上!信じて下さい!私じゃありません!」
確かにかくれんぼで諄を探し回った時その近くを通ったが諄が居る事など知る筈もなかった。
だが諭の言葉を鵜呑みにするような陶乳母ではなかった。
陶乳母は怒りに燃えて決め付けてかかった。
「言い訳するな!そんな偶然があるものか!」
陶乳母にとって諄は世子になるべく生まれて来た元娘の大切な嫡子だが諭はいくら出来が良くとも所詮庶子でしかない。そのたかが庶子が嫡子を脅かすとは。
陶乳母の憤りは文姨娘親子に向かった。
「文姨娘が刺繍を燃やす前に諄様を誘って遊んでいました。おおかた文姨娘と一緒に諄様を隠して奥様が部屋から出るように仕向けたんでしょうよ!親子で共謀して、親は刺繍を燃やし子は諄様を傷付ける、一体何がしたいんですか!・・四奥様・・元奥様が天からご覧になってますよ!」陶乳母の振り上げた指はわなわなと奮えていた。
諭は必死になって打ち消した。
「違います!違います!父上信じて下さい。僕そんな事してません!」
土下座をして泣きながら訴えた「本当です!父上!本当にしてません、、ううう・・」
文姨娘はその諭をさっと抱くとやっと口を開いた。
「私がやったの、諭は関係ない」
十一娘はきりきりと胸が痛んだ。
刺繍を焼かれた事よりも文姨娘が罪のない我が子を利用した事に言いようのない憤りを感じた。
真相を確かめる為にも頭を冷やさせねばならない。
「琥珀、子供達を連れて行って」
「はい」
文姨娘は子を離そうとしなかったが陶乳母と琥珀とで無理矢理引き剥がした。
「母さーん、母さ~ん、、、」どんな親であっても子は親を慕う。
諭は泣きながら連れ出されその後を諄が追って行った。