暗い雲間が切れ綺麗に澄み渡った水色の空に黄金色の陽が射す。
木の葉の露に羽を洗った小鳥のさえずりが朝を知らせる。
昨夜の嵐が嘘のように西跨院の寝室に清々しい朝が訪れた。
慈しみあい眠る二人の瞼にも曙光が届く。
先に目覚めたのは令宣で腕の中に眠っている妻の滑らかな頬に指先を滑らせていた。
彼女の愛らしい寝顔を見るのが好きだ。
幾度見ても見飽きる事がない。
彼はお互いを分かち合った後の朝を迎える幸福感に浸りきっていた。
傷も嫉妬も疑いもこの静けさと光の中に溶け込んで霞となって消えてしまったかのようだ。
しみじみと妻の顔を眺めて余韻に浸っていると突如不粋な若者の声が割り込んできた。
「旦那様そろそろお時間です!」
照影が表から呼ばわった。
昨夜は何も伝えずここに泊まった。着替えを持って立って居るのだろう。
十一娘がぱっちりと目を開けた。
令宣は目覚めたばかりの妻を驚かさないように二人だけに聴こえる小さな声で囁いた。
「起こしてしまったか?」
彼女は目を閉じて恥ずかしそうに令宣の肩に顔を埋めた。
「どうして黙ってるんだ?」
顔を上げると微笑んだ彼女が言った「夢を見てるようです。儚なすぎます」
令宣は幾度か軽い口づけを繰り返した。
「夢から醒めたか?」と囁いて彼女を胸に抱き寄せた。
今日が休みの日であればどれ程良かっただろう。
妻が胸の下から囁いた「旦那様、そろそろお時間ですよ」
「もう少しこのままで…」
まだこの柔らかい温もりを手放したくない。
「でもホントにお時間ですよ・・」
照影が外からせっついてきた。
「旦那様、間に合わなくなります!」
身支度と朝餉の時間が必要だ。
「旦那様、朝参なさるのでしょう?」
「分かった・・起きる」
仕方なく令宣は身体を起こした。
「お前はもう少し寝ていなさい」
十一娘もぴょこんと起き上がって宣言した。
「旦那様、わたしも起きます。一緒に朝餉を取ります。これから毎朝旦那様と朝餉を食べて朝参するあなたを見送ります」
令宣が笑顔になった。
「うん」

徐令宣は何かあったのか?ずっと笑っていたぞ。
当日の朝議が終わって大臣や官職達のあいだで話題になった事を知らないのは本人だけだった。

十一娘は臨月に入ろうとしている丹陽県主を見舞いに行こうと出掛けた。
「んふふ・・」
冬青は朝から嬉しくて堪らない。とうとう奥様と旦那様が・・。
冬青が十一娘の顔を見てはにやけながら気味の悪い声を出す。
「冬青、さっきから何を笑ってるのよ。私の顔に何か書いてあるの?」
「はい!奥様!お顔に文字が書いてあります」と彼女の頬を指差した。
「ほらここに・・旦那様、素敵!って」
「こらっ!冬青~」十一娘は赤くなり拳をあげて笑って逃げる冬青を追いかけた。
「わ~んごめんなさい、助けて~助けて~」

すると前方から姦しく言い合う女達の声が聴こえた。
このあいだまで丹陽県主の侍女だった娘達で一人は令寛の妾に格上げされた暁蘭で片方は県主から暁蘭の侍女にされた胡蝶だった。
二人は義姉妹だったが今は激しく言い争っていた。
彼女らは十一娘の直接の配下ではないけれど内々の争い事が表面化すれば主母の責任となる。
「何を騒いでいるの!」
「「四奥様」」
「姉妹なんだから仲良くしないと」
「姉妹なんかじゃありません」胡蝶が反発した「この人ったら姨娘になった途端人を婢扱いして偉そうにあれこれ指図して人情も何もあったもんじゃありませんよ!」
「四奥様!今お聞きになったでしょ?どうぞ裁いてください。五奥様が私の侍女に命じたのにちょっと説教しただけで反抗するんです!」
「あんた令寛様が泊まらなかったので不満に思ってるだけじゃない!四奥様!それで私に当たるんです!」
「よくもそんな口を聞けたもんね!今度こそ躾しないと!」暁蘭が袖を振り上げた。
「やめなさい!いい加減にしないと家訓で二人を罰する事になるわよ」
十一娘は不満げな顔の二人を下がらせた。

冬青は呆れかえっていた。
「奥様、あの二人・・前は仲良くしてたのに立場が変わっただけであれほど反目しあうなんて」
「恐らく・・丹陽県主はこれを狙っていたね」
「え?」
同僚が一夜にして上下の関係に変わればどんなに仲の良い友達でもひびが入る。
ひびが入るとただではおさまらないのが人間の性だ。
丹陽はこれを見越して二人を姨娘と侍女の関係にしたのだろう。
これは丹陽の復讐だ。

「うん、可愛いね。可愛い」
十一娘は丹陽の作った赤子の靴を褒めた。
赤い絹地に様々な色糸を使って愛らしく刺繍がしてある。
丹陽県主は大きなお腹を撫でながら謙遜して恥ずかしがった「とても四義姉上には見せられませんよ」
「でもお腹も張って来るだろうしこんな手仕事、、言ってくれれば作ってあげるのに」
「いいえ、これも母としてすべき仕事ですよ」
「うん、とっても可愛いわ・・」
丹陽は察しが良い質で十一娘の顔色を見て尋ねた。
「四義姉上、何か言いたい事があれば忌憚なく言ってくださいね」
「・・ええ、さっき来る途中で蘭姨娘と胡蝶が言い争っているのに出会いました。・・県主、もし県主が辛ければ言ったほうが良いですよ。県主は令寛様と話し合いましたか?心に鬱憤が溜まったらやがてお互いに傷つく事にもなりますし」
「そんな事はありません。旦那様は私に優しくしてくれています。だから不満はありません」
「なら良かった。私の考え過ぎね」

冬青はやっと五奥様の目論みが見えて来た。
「五奥様はわざと胡蝶を蘭姨娘に仕えさせて争わせるつもりだったんですね」
「どうやら丹陽県主は腹の底では赦していないようね。冬青、蘭姨娘と胡蝶を誰かに見張らせて。騒ぎを起こさせないようにして」
冬青は頷いた。
十一娘の見立てでは五弟令寛は風雅な遊びを大層好み軟弱ではあるが浮気性の女道楽ではない。
蘭姨娘の件もきっと何か裏がある。
大事になる前に事を納め出来ることなら誇り高い丹陽県主の面目も立てて平安を取り戻してあげたいと思っていた。

「丹陽」
「旦那様」
「四義姉上が来ていたのか」
「ええ、赤ん坊の靴を作ったの。四義姉上に見て貰いたくて」
令寛も嬉しそうに靴を手にとって眺めている。
丹陽の顔には憂いがあった。
「昨日はお帰りが遅かったですね。何かあったかと思いました。心配しましたよ」
令寛はきまり悪そうに座っている。嘘をつける質ではない。
「石乳母に聞きました。昨日は暁蘭の所で夕飯を済ませたんですね」
「お前が心虚煩悶していると暁蘭に言われて改善方法を聞いていたんだ。ずっとあそこに居た訳じゃないよ。夕飯を済ませてそのまま帰った。嫌ならもう行かないよ」
令寛は丹陽の手を取ろうとしたが彼女は軽い仕種でその手を払いツンとして言った。
「そんな事気にしません。私が姨娘と張り合う訳がないでしょ」
令寛は言葉が見つから無かった。

夕刻、十一娘は燈を見つめながら一人考えに耽っていた。
そっと令宣が近づいて彼女の首筋に触れた。
「旦那様!お帰りなさいませ」
彼は妻の隣に並んで座った。
「何をそんなに考え込んでるんだ?」
「実は・・その五姉上の干果物屋が経営不振で閉店してしまいました。借金もあるみたいで、どうしてあげたらいいのか・・」
「一度見に行ってみよう。資金を渡そう」
「私もそこを悩んでいます。私に内緒にしてたのは羅家の義姉上と私に資金を借りてるからなんです。きっと返せなくて悩んでいるんだと思います。」
令宣は妻の手を取った。
「気遣かっているな」
「銭殿は2年後の科挙の準備で収入がありません。姉の嫁入り道具の田庄は砂地で農地税も払えない位です。恐らく今後の暮らしは厳しくなると思います。手伝いたいのですがどうしていいか分からないんです・・」
「砂地・・。作物というものは土壌によって適した種類がある。知識が必要だ。そうだこうしよう。明日白家職に田庄を見に行かせる。きっと土地にあった作物が見つかる筈だ。何とかなる」
「旦那様」十一娘は令宣の腕に自分の腕を絡めた。
「どんな問題でも旦那様にかかれば解決しそうですね!」
彼女は夫の肩にもたれかかって目を閉じた。
「旦那様が居れば安心です」
「私もお前が傍に居てくれて安心だ」
二人は手を握りあってぴったりと寄り添った。

二日後、五姉が訪れた。
用件は閉店した干果物屋の件だった。
「閉店するならどうしてその前に教えてくれなかったの?闇雲に閉じてしまって」
「私も主人も商売に向いてない・・閉店したのは少しでも損失を抑えたいからなの」
五姉はしょんぼりしている。
「今日来たのはその事で相談があるの、、貴女と義姉上に借りたお金の事なの。暫く返せそうにないの」
「五姉上、そんな事言わないで。前にも話し合ったでしょ?私たち出資するって。閉店したからってすぐに返金してなんて話にならないわよ」
五姉は俯いた「そんな事言わないでよ」
「五姉上、そんなにすぐに諦めないで。いい情報があるんだから」
「何?」
「五姉上の嫁入り道具の田庄、旦那様が人をやって見に行って貰ったの。真桑瓜の植付けに向いてるらしいわ。計算してみたけど暦年の収穫高と市場価格を見積もって費用を差し引いても年間何十両は残るはずよ。おまけに農作業してくれる人も見つけてきてくれた。後は五姉の同意待ちだよ!」
「私、、なんて言えばいいの・・主人の母とももうすぐ同居することになるし、収入がなくてちょうど困っているところだったの。あなたが解決してくれた!・・ホントにありがとう!」
「他人行儀だよ、五姉上」十一娘は姉のお腹を触った。「だよね!甥っ子!」
西跨院は明るい笑いに包まれた。

翌日、丹陽県主は大きいお腹を抱えて池の端にある小路へと急いで居た。
「奥様、急がないで、ゆっくりゆっくり」石乳母が焦る丹陽を支えていた。
到着した途端その場の情景に二人とも立ちすくんだ。
地面に仰向けになって転がされているのは蘭姨娘だった。
知らせによると胡蝶と蘭姨娘が言い争ううちに蘭姨娘が池に突き落とされたという。
十一娘が二人の様子を姥に見張らせていたのですぐ発覚して池から救いあげられた。
胡蝶は見つかると逃げたという。
姥が身体をぴたぴたと叩き名前を呼ぶが蘭姨娘はぴくりとも動かない。
「し、死んでるの?」丹陽は真っ青になって唇を震わせていた。
「お、奥様、落ち着いて・・」
まさか、こんな大事になってしまうとは・・丹陽は血の気を失って身体全体が震えて来た。
そうすると腹部を激しい痛みが襲って来て丹陽は立っていられなくなった。
「お腹が・・お腹が・・!」
「奥様!!戻りましょう!」

十一娘は白家職の報告と合わせて真桑瓜の畑の年間計画書を作成した。
冬青にこれを五姉に届けてと命じた。これで五姉も安心して出産出来るだろうとほっとしていた。
そこへ琥珀が飛び込んで来た。
「奥様!大変です。五奥様が驚いて出産が早まりそうです!」
「何かあったの?!」
「胡蝶が蘭姨娘を池につき落としたんです!」
「蘭姨娘はどうなったの?」
「奥様が見張らせていたので早めに救助されましたがまだ意識がないそうです」
「お医者様を呼んできて。蘭姨娘は必ず助ける!私は丹陽を見に行くわ」

丹陽県主の産室は修羅場だった。
十一娘が入っていくと石乳母が駆け寄って来た。
産気づいてからが早かったので丹陽県主は心の準備も出来ぬまま苦しみに喘いでいた。
丹陽の手を握った。
「県主、ここに居るから大丈夫、頑張れる!」
「四義姉上~っ」
「丹陽ーーっ!」知らせを聞きつけて令寛が飛び込んできて産室に入ろうとした。
石乳母が必死になって押し戻した「産室に男子は入ってはいけません!」
「丹陽の命が危ないんだ!そんな事知るか!丹陽の傍に行く!」
「旦那様!!」
石乳母が必死に止めたが令寛はそう叫ぶと強引に部屋へ飛び込んだ。
「丹陽!来たよ!恐がらないで!大丈夫だ」丹陽の手を取る令寛。
ところが丹陽には逆効果だった。
「わたし、貴方に会いたくない!出て行って!出て行って~~!!」
「丹陽丹陽!」
丹陽は失神する寸前まで来ていた。
「奥様が気を失ったら二人とも命が危ないです!」産婆が叫んだ。
「丹陽!丹陽~~~~!」
琥珀が外から十一娘に知らせた「奥様、蘭姨娘が助かりました!」
「県主!聞こえた?!暁蘭の命は助かったわ!」
丹陽はうっすらと意識を取り戻してその声を聞いた。
よかった・・丹陽は思っていた。暁蘭が死んだら私のせいだ。
四義姉上が助けてくれた。
丹陽は痛みと安堵の中で無事男の子を出産した。
大夫人、怡真にも伝わり徐家屋敷中が喜びに包まれた。

「奥様」
夕刻冬青が十一娘にお茶を煎れた。
「五奥様の赤ちゃん可愛いですね。あの小さな釣り目は令寛様とそっくりです!」
「幸い丹陽も赤ちゃんも無事でよかった・・」
「今回の事もあって令寛様ももっとしっかりすると思います」
十一娘は黙って頷いた。
「奥様安心して下さい。旦那様は令寛様と違って奥様に辛い思いはさせないと思います」
令寛は暁蘭との一件で冬青から浮気者として認定されていた。
西跨院に丁度令宣が帰ってきて二人の会話を聞いていた。
「うん、分かってる。旦那様は真心で私に接して下さってる。もう十分満足してるわ」
心身共に結ばれた今十一娘は令宣から離れる事など想像もつかない。
十一娘の言葉に笑みを隠せない令宣が入ってきた。
「あ、旦那様!」
「旦那様」
冬青はにやけながら下がっていった。
「私も今あの子を見てきた。愛らしい。五弟がお前に感謝したいと言っていた。丹陽母子が無事だったのはお前のお陰だと」
妻は今回も徐家の危機を未然に防いでくれた。
彼女が予見して見張らせなかったら人が一人この徐家で死んでいた。
それによって丹陽と子供の命も危なかった。
十一娘は謙遜した。
「そんな事はないですよ。令寛様は県主に感謝すべきですよ。県主は大変だったんですから」
令宣は十一娘の手を取った。
「そうだな、確かに丹陽は苦労した。しかしお前の功労でもある」
十一娘は茶目っ気たっぷりに甘えてみせた。
「じゃあ、、旦那様はどう報償して下さるんですか?」
「では・・子供を作ろうか・、一人、二人」
妻は赤くなって夫の口を塞いだ。
「もう、旦那様!誰を報償してるんですか!」
「三人・・」
二人は見つめ合って自然と寄り添った。
令宣は慈しみを込めて彼女の額に口づけをした。
旦那様は夫婦というものに夢を持てなかった私に自分の命まで懸けて大事なことを教えて下さった。
妻は信頼する夫の胸に抱かれて無上の幸福感に充たされていた。

翌朝、西跨院を出て来た令宣は表にいた冬青にわざわざ声をかけて奥様によく仕えるように命じ、入り用があれば何でも白家職に頼めと言い残して出掛けていった。
冬青は嬉しくて堪らなかった。
奥様は子供の頃から辛い経験ばかりして来た方だ。
羅家の大奥様から冷たい仕打ちをされ、虐められ妾の子として苦労ばかり。
だから妾を持つ男性を忌み嫌っていた。
徐旦那様もいい人なのに奥様は身も心も許そうとはしなかった。
けれど色んな不幸や災難を通ってようやく旦那様と愛し愛される夫婦になった。
奥様の嬉しそうな顔を見ているだけで冬青も幸せになるのだった。

十一娘は丹陽の赤ん坊を抱いていた。
「可愛いね!この目は一目で徐家の顔だと分かるわね」
まだ昨日の疲れも残る丹陽は寝台に居た。
「四義姉上には感謝しかありません。四義姉上が見通して居なかったら暁蘭も助かりませんでした。しかもずっと私に付き添って下さって・・四義姉上が居なかったら私は・・」
「これも県主が善良だからですよ、天のご加護です」
「私の事を丹陽と呼んで下さい。今後四義姉上は丹陽の親友、至親です。義姉上が誰かに虐められたら私が決して許しません」

石乳母が来て告げた「奥様、蘭姨娘が来ました」
丹陽は不快感を隠さなかった「何をしに来たの?」
入ってきた暁蘭はひざまずいた。
「奥様、奥様が私を助けてくださったと四奥様に伺いました」
丹陽は十一娘を見てどういう事です?と目で尋ねたが十一娘は笑顔で頷いた。
「奥様、助けて頂き誠にありがとうございます!」
丹陽はこんな時まで自分を立ててくれる十一娘の気遣いに目を潤ませた。
「もう下がって。お前には会いたくない・・」
「奥様、今回私が生き残れたのは全て奥様のお陰です。昔起こした過ちを深く恥じ入ります。奥様にお話したいです。実は・・令寛様は一度も私を抱いた事はありません」
丹陽がはたと十一娘を見た。十一娘は丹陽に頷き返した。
「令寛様が酔うと正体を無くす事を利用したんです。それで令寛様が誤解するように仕向けました」
「お前が言ってるのは本当なの?」
「奥様、私は未だ潔白の身です」
そう告白すると更に深く平伏した。
丹陽は十一娘の方を向いた「今まで、彼を誤解していたんですね」
「奥様、令寛様が来られました」
十一娘は素早く県主に伝えた「この数日間令寛様は眠れず食べられないでいます。きっと苦しんでいるはず。彼を慰めてあげてね」
二人きりにしようと暁蘭も連れて出ていった。

令寛は恐る恐る入ってきた。
「丹陽、具合はどう?どこか痛いところはない?」
変わらず優しい言葉をかける人。
でもなんて馬鹿な人。侍女なんかに騙されて・・私も騙された。私も馬鹿だ。
危うく二人の人生がめちゃくちゃになるところだった。
四義姉上は私が助けた事にして暁蘭が真相を打ち明けるようにしてくれた。
丹陽が黙って俯いているので心配になった令寛がまた丹陽に謝った。
「私のせいだ・・丹陽に心配ばかりかけて、間違ったことをしたのに君に背負わせてしまって・・丹陽、私を恨んでくれてもいい」
そう言って丹陽の手を取ると自らの頬を叩いた。
「何をしてるの!自分で間違いを認めて・・人に騙されてる事にも気がつかないで・・」
令寛が顔を上げた。
「それはどういう意味?」
「暁蘭が教えてくれたわ。あの夜貴方は酔っ払っていただけ。彼女を抱いていないって。あなたが酔っ払ったのを利用して貴方を騙したのよ」
「つまり、彼女はずっと我々を騙していたって事?」
二人はお互いの目を見つめた。
令寛は喜びの余り叫んだ。
「よかった、丹陽!君に悪い事はしてなかった!失望させてなかった!」
「ごめんなさい、あなた。私のせいよ。夫婦の仲を壊して危うく子供も守れないところだった、、私のせいよ」
「丹陽!もう大丈夫だ。前みたいに仲良く暮らそう?な?」
「う、うん!もうあなたを疑ったりしない」
「暁蘭は我々を騙してなんて酷い奴だ。早速農園に送る。それに胡蝶は殺人を犯そうとした。役所へ届けるべきだ」
「でも暁蘭が本当の事を教えてくれなかったら今も誤解したままだった。彼女も功罪相償いになる。それに私も彼女達に悪い事をしたの・・こうしましょう。身売り証文を彼女達に返して銀子も上げて徐家から出て行って貰いましょう」
「分かった、君の言う通りにしよう」
まだ衝撃で俯いている丹陽を令寛は慰めた。
「全ては私のせいだ。丹陽は何も悪くない!君は聡明で情理の分かる国色天香のいい奥様だ!」
「またふざけて!」
以前のように二人は抱き合って喜びを分かち合った。

“君子は食飽くを求むる事無く、居に安きを求むること無し”
十一娘が半月畔へ歩いていくと庭園を見渡す屋上から旦那様の声が聞こえた。
「事に敏にして言を慎む・・言え、普段どんな事を習っている?」
諭は立ち諄はひざまずかされている。
二人を前に手を後ろに組んだ旦那様の後ろ姿が見えた。
彼の真っすぐな背筋。
部下に訓示を垂れるかのような手の組み方。
二人はどうやら旦那様に説教されているようだ。
十一娘は三人に近づいて行った。
「でも聖人は食色は性なりと言いました。食べるのは本性です」諄が言い返した。
「違う。聖人はそんな事は言っていない。誰から教わった?」
「母上!」諄が十一娘を呼んだ。
「嘘をつくな。母上がそんな事言うはずがない」
「母上」今度は諭が挨拶したので令宣は傍らに来た妻に気づいた。
十一娘は令宣ににっこり微笑んだ。
「旦那様、また怒ってらっしゃるんですか?」
生き生きとした大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。
「怒ってない」
その眼に見つめられると令宣は抵抗出来ず頬が緩んで来る。
「趙先生が諄を待っているのに此処で遊んでいたんだ」
諄は手にしたふかし芋をそっと隠した。
「旦那様、諄ちゃんはまだ子供なので食べ盛り遊び盛りです。そのほうがお利口さんですよ」
「三日間のうち二日半を怠けたんだ。利口か?趙先生が辞めると言い出したんだぞ」
「旦那様、二人一緒に授業を受けさせたらいかがでしょうか?諭ちゃんの方が年上ですから諄ちゃんにお手本を見せられます。それから諭ちゃんの孔先生はお母様の病の為に辞めてしまわれました。諭ちゃんの勉強も遅らせてはいけませんし。一緒に勉強すれば切磋琢磨出来ますよ」
令宣は少し考えていたが諭に向かって尋ねた。
「諭、諄と一緒に勉強してみたいか?」
諭は胸を張った「はい!頑張ります。弟も勉強するようにします」
「よし、立て。これからは二人で勉強するんだぞ。文姨娘にはそう伝えておく」
「はい!父上」
勢い良く挨拶した拍子に諄から受け取ったふかし芋がぽとりと落ちた。
「もう行っていい」呆れた令宣が宣言すると諭は諄を立たせた。
二人仲良く手を繋いで走って行く姿に十一娘も令宣と微笑み合う。
義兄弟の姿が見えなくなると令宣は自然なしぐさで妻の腰に手を回すと自分に引き寄せた。
彼女の白い耳たぶが紅く染まって陽射しに透けてみえた。

その日、令宣と十一娘は昼食を大夫人と共にした。
先程の一件を大夫人に報告するとすぐさま否定された。
「それは反対だ。諭の勉強が遅れるのは良くないにしても二人は身分が違う。別々に学ぶべきだ。嫡庶を一緒にすれば今後面倒な事になる。世家で兄弟が内輪揉めしているのは少なくなかろう?家運が傾く事もあるんだ。今後の戒めとせねば」
「義母上、曹操は曹丕を重んじたが故に七歩詩があったのです。平等に扱えば曹植と曹丕に血は水よりも濃いと教えられた筈です。二人が心を通わせれば曹魏はもっと栄えたと思います」
「十一娘、分かっているよ。お前は庶女だから二人を平等に扱いたいと思うんだろうが御先祖様が決めたしきたりにはちゃんと理由がある。そんな簡単なものじゃない」
大夫人は十一娘の言い分が分からない訳ではないが嫡子は本流、庶子は傍流、その垣根を取り払えば争いの元になり互いに弁えねばならないとの思いが強い。
十一娘は遠慮しつつも諦めなかった。
「はい、私に同じ経験があったので良く分かるんです。兄弟の争いは地位と身分の差ではなく感情の交流が出来ていないからだと思います」
令宣は彼女の言う意味が良く分かっていた。彼女と羅家二女は等しく庶女でありながら感情の行き違いで結果としてニ女は両家を騒がした。
嫡子だと言うだけで重んじられ甘やかされて育った挙げ句不善を為す若者も大勢見てきた。
茂国公家の世子が極端な例だ。
彼等が庶子とも等しく扱われ互いを尊重して切磋琢磨しておれば結果は違っていただろう。諄を諭と同じく扱う事は諄自身の為になるのだ。
「私の考えが間違っていると言いたいのか?それとも御先祖様の教えが違うのか?」
義母を言い負かそうなどと思っては居なかった。
十一娘は何とか言い繕おうとしたが令宣に卓の下で手を握られ目で制止された。
「母上、実はそれは私の考えです。諄は怠け者で諭は勉強熱心。二人を一緒に勉強させれば諭は諄に見本を見せられます。諄には良い事です」
「そう決めたんならもういいわ」
大夫人は説得されて諦めたように首を垂れた。
「母上・・、母上は徐家の嵐を鎮める我が家の宝ですよ」
令宣は十一娘に目配せをする。
「そうですよ、義母上。徐家の子供達は皆義母上が育て上げました。私には分からない事がいっぱいで教わらないと・・」
「十一娘、もう十分出来ているよ。もう私の指示なんか必要ないね」
「釈迦に説法でした。義母上は沢山経験して来られたので到底及びません」
「もういいさ。さ、食べよう」
大夫人は二人をからかった。
「お前達二人が同調しあって見てると芝居より面白いよ」
仲の良さを母親にからかわれ令宣は照れ隠しに十一娘の器に肴を乗せた。

注) 七歩詩・・兄である曹丕は弟曹植の才能を妬み、自分が七歩歩む間に詩を作れさもなくば死罪だと脅した。曹植がその時に作った詩が七歩詩と言われる。

夜、令宣は茶を呑みながらぽつりと言った。
「諭は温順で勉強熱心だ、書生っぽいな。将来は科挙に挑むべきだ」
十一娘はゆっくりと針を動かしていた。
旦那様は今日久々に子供達と触れ合った。
それだけでもう将来をあれこれ決めるのは早いのではと思って言葉を選んだ。
「旦那様は戦場が長いので子供達の事をよくご存知じゃないと思いますよ。都に戻られたのでもっと触れ合って下さい。きっと知らない面がいっぱい出てきますよ」
令宣は素直に頷いた。
「ただ諭はいい歳だ。・・ずっと諄と一緒に勉強させるのもよくないだろう・・来年の春だが諭を楽山の謹習書院に行かせたいと思ってるんだ」
「来年ですか?」十一娘は目を丸くして刺繍道具を脇へ置いた。
「諭ちゃんはまだ十歳ですよ?なのにそんなに遠くへ行かせるんですか?」
「玉磨かざれば器を成さず・・謹習書院の姜先生は知識、人柄とも一流だ。彼の元なら安心だ。男は志四方に在り。あそこで学べば人としての見識、度胸も身につくだろう。あの子の将来にとっては良いことだ」
「なるほど仰る通りですね」
旦那様の言う事は尤もだ。諭ちゃんの才能を伸ばしてやるのにこの徐家に閉じ込めておくのは上策ではない。
けれど文姨娘が承知するだろうか。
諭ちゃんをそう簡単に手放すとは思えない。
「実は・・他にも理由があるんだ」
令宣は少し小声になった。
「何でしょう、旦那様」
「文家は沿岸部で商売をしている。必然的に区家が関わってくる。文姨娘もたびたび騒ぎを起こしている。暫く前から考えてるんだが・、」
十一娘のハサミの一件を母上に漏らしたのは文姨娘だ。
「旦那様はもしかしたら彼女が区家と関わっているか疑ってます?」
「確信はないが・・疑いはある」
令宣はずっと以前から徐家の動静が区家に筒抜けになっていることを憂慮していた。
近頃の出来事ひとつとってもそうだ。
十一娘が荘園で襲われた時に現れた刺客達は区家の手下共だったことは突き止めた。
十一娘が荘園に行かされた事は秘密だった上に徐家所有の荘園はひとつではない。
敵は十一娘が居る荘園を特定して急襲してきた。
彼女の親兄弟でさえ知らない事実を何故区家が知るのか。
以前より区家が徐家を調べ上げている事は分かっていた。
だが十一娘が襲われた事でこの疑いは令宣の中で許容出来る範囲を大きく超えた。
十一娘も諭が徐家と区家の争いに巻き込まれて欲しくない思いは一緒だ。
「だから・・諭ちゃんを利用されないように遠くへ行かせるのですね?」
令宣は黙って妻に手を指しのべた。

その頃、文姨娘は上機嫌で鼻歌混じりでかんざしを取っ替え引っ替え鏡を覗き込んでいた。
「文様、諭様は素晴らしいですね!諄様と机を並べて同じ師に教わるなんて。諭様のほうがよほど頑張ってますね!」
「ふん、当たり前よ。諭ちゃんが優秀じゃなかったら旦那様が重視する訳がないわ!」
「諭様は優秀だから当然ですよね!」侍女の秋紅が更に持ち上げた。
文姨娘は令宣の意図が読めないばかりか調子に乗って先走っていた。
「旦那様が諭ちゃんを重視しているうちに、諭ちゃんに名門の奥様を決めて上げたいわあ!そうすれば地位を固められるわ」
秋紅が思いついた。
「文様、二奥様に聞いてはいかがでしょうか。二奥様は名門の出で人脈も多いと・・それに諭様を可愛がっているからきっと協力してくれますよ!」
「いいこと言うじゃない!早いほうがいいわね!早速行こう!」
夜分にも拘わらず二人は怡真の屋敷へと急いだ。

「諭、将来についてどう考えてるんだ?」
令宣は諭を呼んで質問していた。
「ん~・・、男は万巻の書を読み万里の道を行くべしと先生から教わりました。私は父上のように戦場で戦う事は出来ませんが自分なりの道を歩みたいです。私は勉強して科挙に受かりたいです。そして徐家の力になりたいです」
「良し!いい考えだ。そこでだ、お前を四川の楽山謹習書院に送りたいが・・どうだ?」
諭は突然の話に緊張して少し考えていた。
「どうだ?行きたくないのか?」
「違います。謹習書院の姜先生は状元の出身です。官職に就きながら教鞭も執られています。お人柄も見識、学識も素晴らしいと評判です。憧れの先生です」
令宣は諭の肩を叩いた。
「いいだろう!その気持ちがあるなら安心した。書院に行ったら学問に集中するんだ。決して怠けてはいけない」
諭は父の前にひざまずいた「はい、父上の期待に背きません!」
「立て!趙先生が待っている。行きなさい」
諭はきっちりと挨拶した「失礼します!」
諭が去ると照影が二義姉の来訪を知らせた「旦那様、二奥様がいらっしゃいました」
「お通ししろ」
「お仕事中お邪魔します」
「いいえ、義姉上珍しいですね。滅多に半月畔にはお出でにならないのに。もしや、何かありましたか?」
怡真は少し俯いて微笑んだ。
「諭ちゃんを謹習書院に行かせるお積りですか?・・言うべきかどうか迷いましたが」
「遠慮なく仰って下さい」
「昨夜、文姨娘が来ました。諭ちゃんの縁談を決めて欲しいと」
令宣はふっと鼻で笑った。
「文姨娘・・最近私が諭に目をかけているので何か勘違いしたのでしょう」
「諭ちゃんの縁談は本来義妹が決めるべきものです。旦那様が赦さない事を知っているので私に頼みに来たのでしょうね」
「さすが二義姉です。その通りです・・文姨娘は実利(権力・金)を重んじていますから」
「もう決まっているのなら諭ちゃんを早めに謹習書院に行かせたほうがよくはありませんか。文姨娘に邪魔をされてはいけません」
令宣は厳しい顔付きになった。文姨娘の勝手な思い込みで諭の将来を潰す訳にはいかない。
「はい、分かりました」

西跨院で刺繍に打ち込んでいると取り次ぎもなくいきなり文姨娘が入ってきた。
それだけでも驚いたが彼女は息を乱したまま十一娘の足元にがばと平伏した。
「お願いします奥様、お願いです。諭を楽山に行かせないで下さい!お願いします」
「先ずは立ち上がって」
「奥様、保障します。諭ちゃんはいい子で諄様と同じように将来奥様に親孝行をします!奥様を実の母と思っています。奥様お願いです!あの子を行かせないで下さい!」
低い姿勢を更に低くはいつくばるようにして頼む。
「文姨娘、なんて取り乱しようなの?冬青琥珀、彼女を立たせてあげて。座って話しましょう」
二人が両脇を抱えて文姨娘を座らせた。
「どうして諭ちゃんを書院に行かせたくないの?」
「諭ちゃんはまだ子供です」
「甘羅は十二で太宰になった。当朝の陳閣老は十一で秀才に合格した。諭ちゃんはもう子供じゃないわ」
「でも・・楽山は遠すぎて行かせたくないです」
「男は志四方に在り。女性のように家の中で育ててはいけないわ。このままだと将来どうやって身を立てると言うの?」
「でも・・・」
「ここに来る事は諭ちゃんに話したの?」
「・・言ってません」文姨娘は叱られた子供のように首を竦めた。
「彼が行く謹習書院の姜松先生は状元の出身で当代随一の学者だわ。そんな先生の元で勉強出来るのは彼にとって良いことよ。彼に聞いてみるべきだわ」
令宣が入ってきた。
「旦那様」
文姨娘が二義姉を煩わせた事で心配になって来て見れば案の定だ。
この件で十一娘にあれこれ言いに来るのはお門違いだ。
「私が諭を謹習書院に行かせたいのだ」
文姨娘は泣きそうな声を出した「旦那様!」
「親として彼の将来を考えなければいけない。諭を一生護れるとでも言うのか?」
文姨娘は黙ってしまった。
「決まった事だからもう心配するな。二義姉も煩わせるな」
「・・・はい」
文姨娘は返答したものの恨みがましい眼差しで令宣をみるとそのまま出て行った。

西跨院を振り返った文姨娘は険しい顔付きで呟いた。
「きっとあの十一娘だわ。旦那様に重んじられてるから諭を追い出したいんだわ!」
再び歩き出した文姨娘は吠えた。
「あの女勝ったと思ってるわよね!簡単に諦めないわよ!」

(あの様子では納得していない。何か良からぬ事を仕出かしかねない)
令宣は硬い表情で座っていた。
また旦那様は眉間にシワを寄せていらっしゃる。
十一娘は彼の心配を減らしてあげたくて遭えて文姨娘を庇った。
「文姨娘も母として子供の事が心配であんな風に言うんです。母なら心配して当然ですよ。きっと傍に居てほしいんでしょう」
「諭は私の子供だ。諭の為と言いながら本当は自分の事しか考えてないんだ」
令宣は忿懣やるかたない。
十一娘は煎れさせたお茶の蓋を少しずらして顔を近付け香りを嗅いだ。香りを令宣の方に手で扇いで言った。
「ああ~いい香りの明前龍井茶だこと。丁度飲み頃てすよ。さあ旦那様いかがですか!」
令宣は彼女の茶目っ気のある言い方に思わず笑みが出た。
表情を緩めると茶に手を伸ばした。