令宣が引き返すと彦行は安泰に支えてもらい庭に出て酔いを覚ましているところだった。
令宣に気付くと近寄り頭を下げた。
「徐殿、誤解しないで下さい。簡先生とは長い付き合いですから私も顔を出して祝わねばなりません」
「家内は君の事を君子だと信じているから私も疑う事はない。だが君もくれぐれも家内の信頼に価するようにして欲しい」
彦行はきっぱりとした表情になった。
「徐殿が率直に仰ったので私も率直に申し上げます・・羅お嬢様が永平候爵夫人だと知る前、確かに私は彼女に想いを寄せていました。でもそれを知った今では彼女にしつこく付き纏って自分をも卑しめるような事はしません。まして妙な言動をとってご夫人の名誉を傷付けるような事は絶対にありません。ご安心下さい、徐候爵」
「君子の言質は千金に価するな」令宣は満足げに応えた。
去ろうとした令宣の後ろ姿に彦行が語った。
「徐殿、私は仙綾閣を降りる事にします。今日簡先生と今後の事を相談しました。それも数日で終わります。仙綾閣との縁もその時までです」
だから十一娘から仙綾閣を取り上げないでください・・彦行はそう伝えたいのだ。
令宣はどんなに母に反対されようが彼女から刺繍や仙綾閣との縁を取り上げる気持ちは毛頭ない。
他人に指摘して貰わなくとも十一娘の心の拠り所が何処にあるのかを自分は知っている。
赤の他人の彦行に頼まれなくとも彼女に一生寄り添いその願いを叶えてやるのは夫である自分の役割なのだから。
令宣は黙って頷いた。

冬青は祝いの食卓に突っ伏して寝ていた。
臨波が恐る恐る冬青をつついた。
「おい!起きろ」
「ん?傳殿?・・」
「帰るぞ」
「んー?奥様は~?」
「萬大顕が奥様と旦那様を送って帰った。ほらっお前も帰るぞ」
「エヘッ!」冬青は桃色に染まった頬で臨波を見上げた。
なんだコイツ黙ってると可愛いな。酔っ払いだけど。
臨波は冬青に肩を貸してやり仙綾閣を出た。
「なんでこの俺が酔っ払いの侍女の世話しなきゃならないんだ?」
「えへっ!えへへ~」
文句を言いながら千鳥足の冬青を馬に乗せてやった。
「おい、しっかり背筋を伸ばして座れ、落ちたって知らないからな!」
「はいっ!えへへ~」
「今日は口答えしないんだな」
「傳殿は変わってますねぇ~ヒック、口答えする子が好きなんですか~?」
「馬鹿言うな。しっかり掴まってろ」
臨波は手綱を持つと満更でもない心持ちになって徐候府までの道のりをゆっくりと辿った。

令宣は十一娘を西跨院まで連れて帰ってきた。
足がもつれてよろけた彼女を令宣は抱き留めて座らせてやる。
「旦那様、すみません今頃酔いが回ってきたみたいです・・今日は簡先生のお祝いだったのでつい飲み過ぎてしまいました」
「お前は流石に外の者と飲むべきではなかった・・自分が永平候爵夫人だと自覚しているのか?」
そうだった。義母上から言い渡されたばかりだ。彼女の言動はいちいち徐家を代表していると。
十一娘は彼に深く詫びるように頭を低くさげた。
「私が軽率でした」
突然ピョコンと頭を上げて言った「もし旦那様が付き合って下さるなら私はうちで呑んでもいいですよ」
令宣は飽きれ顔で彼女を見たが十一娘はニッコリと笑った。
「いいだろう。付き合おう」
西跨院の卓上に酒と肴が用意された。
令宣は十一娘に酒をついでやり乾杯した。
「この酒は仙綾閣の酒と比べてどうだ?」
十一娘はぐいと呑むと大分酔いが回っているのか怪しい手つきで手酌をした。
「そりゃあ家のお酒のほうが美味しいですよ」
「それなのにお前は徐家より仙綾閣の酒の方が良かったんだろう?どうだ?」
令宣の気持ちの中には先ほどまで彼女の傍に居た彦行に対する嫉妬心があった。
「・・ああ?」十一娘は怪訝な顔で令宣を見た。
「違いますよ~」手を振って否定すると彼女は食卓に寄り掛かった。
「徐家が嫌な訳じゃありません。実は子供の頃は幸せじゃありませんでした・・楽しくありませんでした・・虐められてました。でも幸い簡先生が私を弟子にしてくれて刺繍を教えてくれました。子供の頃はよく仙綾閣に通ったものですよ。そこで楽しくやってましたよ。あの時こそ一番幸せでした。自由で気楽で・・」
令宣は感じた。彼女の語る幸せはなんとささやかなものなのか。
「でも私も考えて見ました。今の私は徐家の主母です。何事も徐家が優先。もし家の人が好かないなら私は仙綾閣を降ります・・これからは家事に全力を注ぎます・・」
「私は・・お前が仙綾閣に通う事で家事を疎かにしたとは一度も思った事がない・、だからお前もそういちいち考え過ぎなくていい。もし仙綾閣での時間が本当に好きなら引き続きそこに通えばいい。私がいる限りお前のやりたいようにしていいんだ」
彼女は少しきょとんとしていたが彼の言った事が分かると突然令宣に抱き着いた。
「旦那様、どうしてそんなにお優しいんですか・・」
そういって彼の首に縋り付くと泣き始めた。
「よし、よし」令宣は子供をあやすように彼女の背中をとんとんと叩いた。
「どうした?」彼女は泣き止まない。
「この前、私が旦那様を刺したこと・・ものすごく後悔しています・、ごめんなさい・・本当にごめんなさい・・・ごめんなさい・・」
「そのことなら、お前がわざとやった事じゃないのは分かっている・・」彼は背を撫でてやった。
「・・・」
急に静かになったので令宣は縋り付いている彼女の顔を見た。
彼女は泣きながら眠っていた。
お前はいつも私に遠慮し過ぎる。仙綾閣を辞めようとまでして。
それは私を想っているからか?私への感謝のつもりか?それともただ慚愧の念がそうさせるのか?

夜が明けた。
西跨院の寝室で目を覚ました十一娘は昨夜の着物のまま寝台に寝かされていた。
隣には令宣が眠っている。
「あ・・旦那様」
昨夜、お酒を飲んでいて泣いて・・そこまでは覚えている。いつの間にか眠ってしまった。旦那様にまた申し訳ない事をしてしまった。
令宣はまた眉間にしわを寄せて眠っている。十一娘は眉間に指をあててそのシワを伸ばしていると令宣も目を覚ました。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日は酔ってしまいました。ご面倒おかけしてごめんなさい」
「いいんだ。これからは酒が呑みたくなったら私のところへ来るといい。付き合ってやる」
十一娘は微笑んだ。
「朝餉を用意させますね」
そこへ表から琥珀の緊迫した声がした。
「旦那様、奥様、琥珀です」
「どうした?」
「羅家より連絡があり大奥様が危篤です」
二人は顔を見合わせた。

羅家大夫人が重篤との知らせで二人は羅家に駆け付けた。
令宣は兄振興に別室に案内され義姉と五姉、十一娘の三人が話しあっていた。
十一娘は義母が小康を取り戻していたと聞いていたので何故また急激に悪化したのかと義姉に尋ねた。
やっと回復の兆しがあったものの、元娘が喬蓮房に毒殺された事を聞いて衝撃の余りまた倒れてしまったのだという。
健康だった娘・元娘があのように病の身から死に至った不幸が天意ではなく悪意ある赤の他人の仕業だった事は大夫人を打ちのめすのに十分だった。
知らずにおればそのまま小康を保っていただろうに二姉の母親の妾・楊姨娘がわざわざ大夫人の耳に注進に及んだのだ。
この裏には床上げしそうな大夫人をまた悪化させようという楊姨娘の内心の企みがあった。
義姉の話では何度お医者様を替えても元々が不治の病と言われ結果は同じだったらしい。

そこへ相変わらずの仏頂面で二姉がやって来た「義姉上、義母上が重篤と聞いてお見舞いに来ました」
「来てくれてありがとう」義姉が顔色を見て心配して言った「何だか顔色が良くないようね。まだ若いけれど油断しないようにしてね。病が長引くと後になって障りがあるのよ」
二姉はちらと十一娘を見た。
「私の病なんてそこの可愛い妹のお陰じゃありませんか。しおらしい真似はやめて。騙されないわよ」
いきなり憎まれ口を聞く二姉に五姉は呆気にとられてポカンとしていた。
「旦那様の様子を見てきます」
十一娘はこんなところで不毛な言い争いはしたくないと部屋を後にした。

十一娘が出て行くと五姉は二姉を非難した「二姉!この前の事十一娘が手を貸さなかったらそう簡単には済まなかったわよ。なのにお礼を言うどころか彼女を非難するなんて貴女には心がないの?」
「ふん!手を貸したって?私を利用して徐家の問題を解決しただけじゃない。五妹、いい歳をして考えが甘いわね!」
「いい加減にしないか!」
このいさかいが羅家大旦那様の耳に届いた。娘達に父親の雷が落ちた。
「今この時期にまだ無益な喧嘩をするのか!母さんの病がこれ以上悪くなってもいいのか!見舞いをする気がないのなら今すぐ帰ってもいいんだぞ!」
気の強い二姉は父親を睨みつけて口答えをした。
「そっちが喧嘩を売ってきたんじゃありませんか!?何故私ばかりが責められるんです?」
「お前っ!・・・この親不孝者が!」
「二妹、お母様の事気にしてたわね」
義姉はこの険悪な空気に二妹に実母の楊姨娘に会いに行くよう奨めた。

大夫人の陰に隠れて誰の目にも触れずいたがその楊姨娘こそ死の床に就いていた。
見る影もなく寝台に横たわっていた。
「母さん、来たわよ・・・母さん?」
侍女が飛び上がって叫んだ。
「奥様!奥様!お嬢様がお帰りになりました!」
二妹は青ざめて一瞬言葉を失った。
「母さん!どうして・・どうしてこんなに弱ってるの?どうして誰も知らせてくれなかったの?!」
「二娘・・」
侍女が泣きながら訴えた。
「大奥様です。大奥様がこの前奥様が銀を盗んだと仰って一晩中ひざまかせたのです。奥様はそれで酷い風邪を患って・・」
それは大夫人による報復だった。
「知らせようにも奥様の姥達が見張っていて屋敷を出る事も出来ません。何度も大旦那様と旦那様が見に来ようとされましたが大奥様の姥に誤魔かされて追い返されます。お医者も呼んで貰えません。薬もくれません!」
「こんなになってるのに医者にもみせてもらえないの?!酷い・・母さん起きて!医者に連れて行くわ」
「二娘・・母さんはもう駄目なのよ。無駄な事はしなくていいのよ。母さんはねあなたが元気でさえあればいいのよ。さあ・・もう母さんにはこれしかないの」
楊姨娘は娘の手に銀が入った袋を握らせた。
「あとのものはみんな大奥様に持って行かれたわ・・」
「要らない!母さん!私は母さんが居ればそれでいい!お金なんか要らない!」
「あと、枕の下にも銀が少しあるの、それも持っておゆき」
娘が婚家で苦労していると聞いて月々の給金から少しづつ貯めた銀を娘に渡そうとする。
「大奥様は母さんを殺す気なの!?あの女に私達がどれ程尽くしたか!それなのに私達は医者を呼ぶにも価しないと言うの・・」
「母さんは最後に旦那様に会いたい・・旦那様に会って言いたいの。こんな人生はもう真っ平ごめんだよ。もし来世があるなら私は絶対に妾になどならないって・・」
娘に会えた事に安心したのか言葉はそこで途切れ楊姨娘は目をつぶった。
「母さん!母さん!」
何度叫んでももう楊姨娘は再び目を開ける事はなかった。

「十一娘、元娘の頼みを忘れるな、諄ちゃんの事は任せたよ。必ず諄ちゃんの面倒は見るんだ」
「義母上、ご安心下さい」
「義母上はきっと治りますから」
五娘が力づけようと言ったものの大夫人はひとつため息をついただけだった。
「私の身体だ・・私の身体は私が一番分かっている・・もうあの人達を呼んできて」
姥やが大旦那様や息子、婿を呼び入れた。
大夫人は息子を見ると弱った声で頼んだ。
「振興、この家は任せたよ」
「母上・・」
「あなたが居れば安心だ。羅家はあなたに任せたよ」
大旦那様がもう家の事は心配するなと言って慰めていると二娘が入って来た。
その様子がただ事では無かったので十一娘は身構え令宣も厳しい顔付きで彼女を見た。
「義母上、ご存知ですか・、先程母が亡くなりました」
大旦那様が思わず腰を上げた。
皆の間に沈黙と緊張が広がった。
大夫人が呟いた。
「楊姨娘・・とうとう先に逝ったか・・」
長年大旦那様の寵愛を奪い合い憎しみ合った仲だ。それも今終わりを告げた。
虚しい争いの日々が蝕み自分も死の床についた。結局勝者は居なかった。
二娘の表情は引き攣っていた。
「元娘は義母上と一緒です!心に打算が多過ぎますよ!若くして亡くなった理由を考えた事がありますか?!」
元娘の死は羅大夫人のせいだと言わんばかりに言葉を投げつけた。
「元娘・・元娘・・」大夫人はうわ言のようにその名を呼んだ。
二娘の恨みは大夫人以外の人間にも向かった。
「母は妾だと言うだけで誰にも関心を持って貰えなかったの?!母さんの死は此処にいる全員に責任があるわ!」
大旦那様が叱った「今の家の状況を考えないのか!身勝手はやめないか!」
「父上!?父上はこの女にしか関心を持ちませんが、じゃ母さんは?母さんもずっと父上の側に居たじゃありませんか・・なのに死に際に母の側には誰も居ませんでしたよ・・母さんは最後に父上に会いたいって言ってました。父上がせめてもの関心を母に分けていてくれれば母さんは死ななかったのに!」
後は泣き声だけが部屋に響いた。皆がじっと黙って俯いていた。
振興はばつが悪そうにうなだれ令宣もいたたまれなくて目を伏せていた。
「わたしのせいだ・・私のせいでお前の母さんが・・」大旦那様が小さい声で謝罪した。
大夫人がか細い声で呼んだ。
「元娘・・」
「母上!」振興が大夫人の枕元に寄り添った。
「元娘・・」大夫人は亡き娘の名を呼びその手が虚空を掴む仕種をした途端息絶え手はぱたりと落ちた。
「母上!母さん母さん!!」
振興が涙ながらに何度も呼び掛けた。

羅家の屋敷はひっそりと静まり返っていた。
十一娘は一人羅家の部屋に座って考えていた。
琥珀が入ってきてそっとお茶を置いた。
「奥様、何をお考えですか?・・」
「ここ数日の事を・・大奥様、楊姨娘、二姉・・前には彼女達が憎らしくて仕方なかったけれど今はなんだか可哀相だと・・。大奥様は自分の地位を固める為に一生打算を尽くして、結局何も残らなかった。楊姨娘は大奥様に媚びへつらい続けてとうとう割に合わなかった・・二姉は自分の庶女としての運命を変えようとして気が強いばかりで後先考えずに振る舞ってとうとう傷だらけになった・・」
十一娘の頬を燭の明かりと部屋に差し込む月明かりだけが仄かに照らしている。
「正室でも妾でも、嫡庶に拘わらず家庭に閉じ込められたら最後、惨めな運命から逃れられないようだわ・・」
しきたりを守り、じっと屋敷の中の世界で生き続ける。今はただ彼女らの過酷な生き様が辛くて哀しいだけだった。
「奥様」
彼女はそれきり黙って窓を見上げていた。

通夜から一晩明けた。
五娘の夫銭も農園から戻って白の喪服で集まった家族が今後の事を相談した。
「お父上は?」
「母上と楊姨娘が同時に亡くなられて歎きが深く床に臥しています」
「ではお葬式はどうなる?」
振興が答えた。
「それは皆で相談してから父に決めて貰うのはどうだ?」
銭は心配した。
「羅家は都では由緒ある家柄、、義母上の葬儀は疎かに出来ません」
義姉もひっそりとした身内だけの葬儀ではいけないという気持ちだった。
「義母上は羅家の為に一生心血を注いで来ました。お葬式は必ず重きを置かなければなりません・・ただお義父様は前職に戻ってはいません。昔の同僚とも疎くなっています。ですからどうも葬儀は閑散としたものになりそうです」
「だからと言って葬儀を簡単なものにすれば父上の顔に泥を塗る事になる・・」振興は逡巡していた。
今の羅家の勢いでは人の集まらない葬式に無駄に金をかけるほどの余裕がないし、かと言って簡単なものにしては母が心血を注いだ羅家の名誉に傷がつく。
令宣はそっと十一娘の顔を見た。
彼女や振興の自尊心を傷付けないように慎重に言葉を選んだ。
「振興、心配するに及ばない。義母上の葬儀には徐家も協力する」
徐家が協力すれば体裁や段取りも整えられるし、令宣の同僚や部下達が自然と大勢弔問客として参集する。
義父や振興の顔を立てられる。
だが振興もおいそれとは甘えられない。
「そうはいきません!徐殿の手を煩わす訳にはいかない。道理に合わないし礼にもとる」
「礼儀と言えば私は羅家の婿だ」彼は十一娘を振り返ってあっさり答えた。
「道理で言えば義母上は元娘と十一娘を慈しみ育てて下さった。そのご恩がある。振興、遠慮は要らない」
振興は立ち上がって令宣に深く謝意を示した。
「令宣殿、ご厚意誠にかたじけない!肝に銘じます」
令宣は振興の手を取った「振興、水臭いぞ。礼などいい」
五娘の夫、銭はほっとしていた。財力のない銭家はこういう時到底力及ばずだが徐家なら全てを上手く取り仕切ってくれるだろう。
「徐殿が協力して下されば義母上の葬儀はきっと体面を保てるでしょう。それに義父上の悲しみも慰められるます。義母上もそれで瞑目できると思います」
令宣は頷いた。
振興はそれでもしきりに恐縮していた。
「令宣!あまりにも忝ない!羅家はどうにも報いることが出来ない・・もし十一娘がいいと言うなら私から父に言います。呂姨娘の位牌を羅家の祠堂に移すよう進言します。父もきっと認める事でしょう」
令宣はすぐさま十一娘に顔を向けた。
「十一娘、どうだ?」
彼女は戸惑って答えられなかったが五姉は喜々として賛成して言った
「位牌を祠堂に入れて貰えれば羅家の代々の子孫にお祭りして貰えるわ!正室の待遇よ。十一妹!早く応じたら?」
「兄上のご厚意ありがとうございます・・わたし」
十一娘が話し始めた時。
その時突然現れた二娘が割って入った。
「では、わたくしの母さんの位牌も祠堂に入れて貰います!」
振興がたしなめた。
「二妹、お前はもう何も言うな。父上も許さないぞ!」
妹婿達の面前で場を弁えず自己主張して羅家の体面を傷つける二妹にはほとほと困り果てていた。
昨日も全員の前で言いたい放題で母の死に際を汚した。
振興は穏やかで公平な性格ゆえ彼女の言い分も分からないではない。
しかし発言は時と場所を弁えるべきだと思っていた。
兄の拒絶に腹の虫が収まらない二娘の怒りの矛先は勢い十一娘に向いた。
十一妹が嫁げたのは元娘の遺言のお陰で単に十一妹の運が良かっただけだ。
夫婦仲が良いのも気に食わなかった。
貴族の間では政略結婚が当たり前で名ばかりの心の通わない夫婦は珍しくない。
しかし悔しい事に令宣は本当に十一娘を愛しているのだ。
令宣が妹を見る目が如実にそれを物語っている。
十一妹は自分が居るべき徐候爵夫人の座を奪い完璧な夫に愛されて豊かに暮らし、今また呂姨娘さえ正室扱いを受けようとしている。
こんな不公平を許してなるものか!
二姉は突然令宣の前に立つと憎々しげに訴えた。
「徐候爵、ご存知ですか?最初、妹は貴方に嫁ぎたくなかったんですよ!」
彼女は夜叉のような鋭い顔つきで激昂していた。
「呂姨娘もこの子が婚約から逃げる途中で殺されたんです!」
令宣にだけは知られてはいけない事情が暴露され羅家の兄妹達は固まった。
自分が徐家に嫁げなかったのも十一娘のせい。更には呂姨娘の死も十一娘のせい。
十一娘を傷つけ令宣にも切り付ける言葉は氷の刃になり母の弔いの場は完全に凍りついた。
令宣は十一娘に視線を走らせた。
ところが二人の仲を傷つけ裂いてやりたい二姉の思惑は思わぬ令宣の反撃に退けられた。
「その事なら私はとうに知っている。余計なお節介だったな」
「ご存知でしたか、なら!」
「十一娘は私の妻だ。何事も包み隠さず私に話す。他人の干渉などに惑わされない」
十一娘が振興に返答した。
「兄上、先ほど言いかけた事ですが、兄上のご厚意感謝します。母さんが生きている間妾の身分で居たのはやむを得なかったと思います。ただ亡くなった今も羅家に妾の身分で居るのはきっと嫌だと思います。ですから母の位牌は十一娘が守りたいと思います」
兄の配慮に感謝する一方で二姉にも公平になるように応じた十一娘を令宣はじっと見ていた。
「十一妹、そういう事ならお前の好きにしてくれていい」
結局、二姉は行き場の無くなった怒りと令宣に言い負かされた惨めさを抱えて啜り泣いた。
「母さんの位牌を祠堂に入れる事が出来ないなら・・私が持って帰ります!・・死んだ後まで羅家の妾で居なければならないなんて、いつまでも目を瞑れませんから」
振興夫人である義姉が穏やかに諭した。
「どうしてもそうしたいなら私達に異論はありませんよ。ただし、二妹覚えておいて下さい。羅家はいつでもあなたの実家ですからね」

表に出た時侍女の金蓮がたまりかねて言った。
「若奥様どうしてあんな事を・・今では若奥様に養子もいますし、、羅家と徐家と仲良くすればきっと今後は上手くいきますのに」
金蓮の言う事はいちいち尤もだ。だが二娘は抱えた怨みを手放そうとはしなかった。
「あの人達のせいで母さんは亡くなったのよ。あんな人達のご機嫌を伺うなんて真っ平よ!そうするしかないと言うなら死んだほうがマシよ!」
「若奥様」
「金蓮、私が間違っていると言うの?・・私はただ楽に生きたいだけなのよ。なのに何故こんな羽目に合わなきゃいけないの?・・こんな人生、何が楽しいのよ・・」
自棄になってそう言うと咳込んだ。
咳込む口を押さえた手を見るとべっとりと血のりがついていた。「若奥様!」

羅家の葬儀は滞りなく終わった。
令宣達が徐家へと戻って来た。
十一娘は令宣に西跨院でお茶を差し上げますので一緒においで下さいと頼んだ。
「旦那様、羅家の葬儀に協力して下さって本当にありがとうございます。お陰で羅家は対面を保つ事が出来ました。このご恩は一生忘れません」
「我々夫婦は一心同体だ。どのような時も力を合わせればいい。そう遠慮するな」
昨日令宣は私の事について何事も包み隠さず話すと二姉に言った。
彼の考える理想の妻がそうであるなら私もそうすべきだと十一娘は考えた。
正直にありのままを話そうと決心していた。
「昨日二姉が言った事ですが婚約から逃げた話。旦那様に説明したかったのに機会が無くて」
令宣は遮った「もう過ぎた事だ。言わなくていい。他に用があるから」と腰をあげた。
それでも十一娘は続けた。
「二姉の言った通りです。最初は旦那様とも誰とも結婚するつもりはなかったのです。それで逃げました」
「だからお前は母の死が徐家に関係があると分かった時、自分の心を押し殺してわたしのところに嫁いで来たのだな」
十一娘は嘘をつけなかった。
「はい・・・最初はそうだったのです」
「だから私が犯人だという証拠を見せられた時お前は戸惑いもなくそれを信じたんだな」
「・・・」弁解の余地もなかった。あの頃は自分の目も心も方向違いのところを目指していた。
「お前の中で・・私は信頼に価しない男だったからお前は私を信じなかったんだな」
「ごめんなさい旦那様、私が悪かったんです」
犯人を見つけ法の裁きを受けさせその後は徐家から出て自由になる事。あの頃はそれが目標だった。
結婚、正室、妾、姑そんな煩わしさから自分は一歩抜け出した人生を歩むのだと単純に考えていた。
それが令宣をどれだけ傷付ける事になるのか考えが及ばなかった。
自分が夫に愛される事など夢にも思わなかったせいでもある。
十一娘は二姉以上に身勝手だった自分を責めた。
「つまり今までお前はただ自分の慚愧の念を償うために今に至ったという事か」
十一娘は小さく首を振って答えた。決してそうではないのに彼に分かって貰える言葉が見つからない。
「お前の心の中で・・私は一体何だ?」
「いいえ、分かっています。旦那様はいつも私に良くして下さっています。私が旦那様を傷付けた時でも庇って下さいました。守って下さいました。全て私のせいです。私が旦那様の気持ちを無にしました」
令宣はもどかしかった。
聞きたかったのは感謝でもなければ謝罪の言葉でもない。どうしてそれが彼女には伝わらないのか。
「お前にあるのは感激と謝意だけか・・そうなのか?」
彼女はかんざしを揺らしながら頭を振って否定した。瞳は哀しげに濡れていた。
令宣は薄い溜息をひとつつくと十一娘に背を向けて西跨院の居間を出て行った。
旦那様が出ていってしまった・・
はっとした十一娘は衣を翻しながら令宣を追いかけた。

令宣が前庭から出るとそこに長男の諭が待っていた。
諭は父に丁寧な挨拶をした。
「半月畔に行ったのですがいらっしゃらなかったので此処だと思って来ました」
「そうか」
「父上、今日は母の誕生日です。母さんのところへ会いに行って貰えませんか?・・あ!」
「母上!」諭が令宣を追いかけてきた十一娘に気付いてまた丁寧に挨拶をした。
令宣は十一娘には振り向かず言った。
「・・誕生日か。では会いに行こうか」
「ありがとうございます!父上」
令宣は諭の手を取って文姨娘の居所の方角へ歩き始めた。

令宣の後ろ姿を呆然と見送っていた十一娘に冬青がのんびりと言った。
「奥様、旦那様・・行っちゃいましたよ」
旦那様は一度も私の方を見て下さらなかった。。
身体に力が入らない。
旦那様はもう私に愛想が尽きたのだろうか。
心を薄黒い雲が覆う。
「・・花園に散歩に行って来る・・」
冬青は空模様を見上げた。
「え~、奥様もう雨が降ってきそうですよ!・・どうしても行くんなら早く帰って来て下さいね」
十一娘はふらふらと一人花園に向かって歩いた。

文姨娘の居所には食卓に豪華な食事が準備されていた。
カタカタと音がしてご馳走の皿が次々に並べられる。
「旦那様、今日はお時間を取って頂いてありがとうございます」
着飾った文姨娘が令宣の盃に酒を注ぐ「どうぞお召し上がり下さい」
令宣は盃を上の空で口に運んだ。
「旦那様、今日は沢山召し上がってお身体の疲れを取りましょう」
文姨娘はそう言うとまた一杯注いだ。
「さあ、召し上がって下さい。今日は旦那様のお気に入りを沢山用意致しました」
ふと気づくと目の前の卓には食べ切れない量の山海の珍味が溢れていた。
「さすがにこの量は二人で食べ切れないだろう・・諭は何処へ行ったんだ。諭を呼ばないのか?」
文姨娘はばつの悪そうな顔をした。
「あ、諭、諭ちゃんは課題がありますのでまた後で来ます。旦那様もご存知のように諭ちゃんは昔から勉強に熱心でしょう?・・」
その時稲光がかっと部屋を照らす。一瞬遅れて低い雷鳴が聴こえてきた。
令宣は窓の方を見ると独り言のように言った「雨が、降りそうだな・・」
さっき彼女を一瞬だけ振り返った。
十一娘がふらふらとした足取りで一人花園の方へ歩いて行く姿が見えた。
花園で雨に合うかも知れない。
令宣は後悔していた。
彼女は確かに過去を悔いていた。
それなのに厳しい言葉で彼女を追い詰めた。
私を追って来たのにまるで当てつけのように此処へ来てしまった。
あの危うい足取りが目に焼き付いて離れない。
先程よりも激しく雷鳴が轟き閃光が令宣の横顔を照らし出した。
「・・旦那様・・いつも公務でお忙しくされて・・せっかくのお休みなのに・・雨も降りそうですし・・今夜は此処に泊まって行かれては?」

だが物思いに沈んだ令宣の耳にその声は届いてはいなかった。

十一娘は花園の蓮池の中央にある八角堂に一人居た。
落ち着かずふらふらと行きつ戻りつしながらも脳裡に浮かび上がるのは令宣の言葉。
“お前にとって私は信頼出来る人間じゃなかった。だから私を信じなかった”
「違う・・違うの」
“だからお前は私に感謝と申し訳ない気持ちしかないのだ”
違うんです、、
十一娘の頬に後悔の涙が流れる。
令宣が苦悩に満ちて紡いだ言葉のひとつひとつが十一娘を苦しめた。
今や遠雷さえ聞こえないほど彼女を打ちのめしていた。
彼は命懸けで私を愛してくれたのに私は彼の気持ちに真心で応えようとしただろうか。
閃光が走り同時に雷鳴が激しく鳴り渡った。
その光と音に彼女ははっとした。
「旦那様は急に出掛けたから雨に降られてしまう!傘を届けに行かなければ!」
慌てて来た道を引き返そうと走りかけ、そして気付いた。
彼女は頬の涙を指先で払い自分で自分を笑った。
「ふふ・・馬鹿ね。どうして忘れるのよ。彼は文姨娘のところに居る。私が心配しなくても・・」
私が彼を文姨娘のところに追いやったようなものだ。
後悔が波のように押し寄せる。
力の入らない身体で八角堂から出ると突然烈しく雨が降って来たが彼女は構わず歩き続けた。
烈しい雨は人の気持ちなど押し流すように容赦なく彼女の身体を打った。
彼はもう私を嫌いになったかも知れない。
彼の愛を失ったかも知れないと思うと恐れに似た感覚が彼女を襲う。
今頃になって気づくなんて。
旦那様が離れて行くのがこんなに怖いなんて。
はっとした瞬間足がよろめいて躓き石畳に手をついて倒れてしまった。
痛みを覚えて手の平を見ると擦り剥いて血が滲んでいる。
打ち付ける雨に濡れながら痛みはそのまま心の痛みのようだった。
冷たさと惨めさが心にのしかかる。

その時、突然頭上に傘がさしかけられた。
もしかして旦那様!?
傘の下から見上げると「奥様~!」
何やってるんですかあ?とあきれたような顔をして立っている冬青がいた。
十一娘はがっかりして再び力が抜けた。
冬青は倒れたままの彼女を何とか助け起こそうとするが十一娘は身体に力が入らない。
その時。
ふっと身体が宙に浮いて彼女はあっと小さく悲鳴を上げた。
「うっかりしているじゃないか」
十一娘は令宣に抱き上げられていた。
令宣は彼女を抱いたまま雷雨の花園をずんずん抜けて西跨院の方角へ進んで行った。

文姨娘は折角もてなそうとした料理を置いて突然令宣が帰ってしまったので不審に感じて侍女に彼の跡を追わせた。
食卓の前で一人つまらない顔で呟いた「折角銀子をかけて作った料理なのにね・・・」
暫くして帰って来た侍女が文姨娘に申し訳なさそうに報告した。
旦那様は花園に奥様を迎えに行かれ西跨院に向かわれました。
さすがに奥様を抱いて行かれたとまでは言えなかった。
それでも文姨娘は激怒した。
「なんですって!?旦那様が帰っていったのは・・十一娘の為だと言うの?」
ガシャーン!
文姨娘は怒りに任せて卓上にあった皿を床にぶちまけた。
「許さない!・・あの羅十一娘、日頃私に難癖を付けるのはいいとしても・・あの女のせいで文家の配当金も無くなったと言うのに!今日は私の誕生日なのよ!それなのに・・許さない!!」

令宣は寝室へ入ると彼女を寝台にそっと降ろそうとした。
けれど十一娘は令宣の首に巻付けた腕を解こうとはしなかった。
仕方なく彼女を抱いたまま語りかけた言葉は囁きに近かった。
「雨が降っているのに何故外に居るんだ。私が行かなかったらいつまで濡れている気だったんだ」
「文姨娘の誕辰祝いに行かれたんじゃなかったんですか。どうして花園に・・」
「あそこに居て欲しいのか?」
激しい雨音と雷鳴は続いていた。
十一娘は黙って令宣にしがみついていた。
「さっき言った事・・少し言い過ぎた。あまり気にするな・・もう遅いから早く休みなさい」
彼女の手首を優しく取ると自分の首から外そうとした。
持った手首を見て血が滲んでいる事に気付いて問うような眼差しで彼女を見た。
薬を取りに立ち上がろうとした令宣の手を十一が両手でしっかりと捕まえた。
離れないで欲しい。
懸命に訴える眼差しが令宣を捉えた。
「私に蟠りが残っているのは分かっています。聞きたくなくても言うつもりです。ごめんなさい…貴方を傷つけました。本当に後悔しています…心が痛いです・・」
彼女は泣いていた。
彼の為に泣く彼女の涙は見たくなかった。
令宣は心が軋みそれ以上言うな…もう泣かなくていいと言おうとした。
「何処にも行かないで下さい!貴方を失いたくありません」
令宣は目を見開いた。
彼が最も聞きたいと願っていた言葉だった。
今確かに彼女は私を欲していると言った。
令宣は彼から一瞬も目を離さず赦しを乞う十一娘の傍らにそっと座った。
「旦那様、赦してくださいませんか?・・」
もう既に赦しているではないか。
今それ以上の答を手に入れた。
信じられないほどに彼女が愛しい。
雨粒が洗い涙に濡れた清らかな彼女の素顔をこの上なく優しい指先で拭った。
妻の頬を両手で包み込み心の命じるままに口づけをする。
稲光りが二人を照らし口づけは徐々に深さを増していく。
その激しさに彼女は瞼の裏に火花が飛び散ったような幻を覚えて身体が小さく震えた。
それでも彼から離れまいとして十一娘は令宣の背に回した指に力を込めた。
狂おしいほどに互いを求める心だけがそこにあった。
令宣は唇を離すと安心させるように囁いた。
「大丈夫・・もう大丈夫だ」
最早そこに疑いはない。
令宣は十一娘に再び深く口づけた。
二人を隔てるものは何もなかった。
もう何も。
雷鳴が遠くなってゆく。