身体のあちこちをしたたかに打ったが打撲以外の怪我はなく声は出せた。
幸いに頭も打っていない。助けを求めて井戸の中から思い切り叫んだ「誰か!冬青!琥珀!」
「奥様の声がする!!」
片付けから戻ってきた冬青と琥珀が運よく見つけてくれて事なきを得た。
井戸から引き上げられた十一娘は二人に支えられて部屋に戻った。

「奥様大丈夫ですか?」

琥珀が荒らされた部屋を調べていたが「何も盗まれていません。泥棒なら物を盗んで行きます。・・けれど奥様を突き落としました。もしや奥様のお命を狙ったのでは・・」
十一娘は犯人の意図を計りかねた。
「何故私を狙うの?」
十一娘ははっとした。
家捜ししたのは何かを見つける為だ。
暖閣の机の下を探って取り出した小箱を開くとそこには母が死に際に掴んでいた証拠の刺繍布が入っていた。万一に備えて見つかりにくい場所に隠して正解だった。
もしかしたらこの布を?これは犯人に繋がる重要な物証だ。この布の存在を知っている人は限られている。
この布と私を狙う動機を持つ者は母を殺害した犯人以外有り得ない。
冬青も琥珀も深刻な顔になった。まさかこの農園で奥様が命を狙われるとは。
「今後はもっと気をつけましょう!」琥珀がそう言うとこの件を家令に報告したほうがよくありませんか?と言い出した。
すぐさま冬青が反対した「あの家令は大奥様の配下だよ!」
冬青は今回の仕打ちで大奥様に相当な反感を持っていた。
大奥様は信じられない。ひいてはあの家令も信じられない。
「今後は奥様の傍から離れないようにしよう!」冬青と琥珀は頷きあった。

翌日も三人は辛い仕事に追われていた。
そこへ十一娘達が到着した時には出迎えもしなかった尊大な家令が現れた。
「三人も居てまだ言い付けた事が終わっていないのか。だから徐家を追い出されるんだ」と憎まれ口を叩いた。家令は更に付け加えて言った「明日の朝までにこの農場の水がめを満杯にしておくんだ」
怒った冬青が言い返そうとしたが十一娘が止めた。ここで家令と争いになっても得はない。
大夫人に不利な事を報告されるだけだ。
十一娘は自らへの戒めとして従容として此処へ追放されたが旦那様の為にも冬青と琥珀の為にも騒ぎを起こしてはならないと思っていた。
万一令宣の後を追い自害する事になった時はできる限り心証を良くして冬青と琥珀は徐家から解放して貰うよう願い出るつもりだった。
その日は夜更けまで井戸から水を汲み瓶に移す作業を繰り返したものの沢山ある巨大な瓶は満杯にはならず三人とも疲れ果てて居間の机に突っ伏して眠ってしまった。
翌朝、びっくりして飛び起き庭に出てかめの蓋を開けるとかめは水が満杯になっている。
誰が一体?と驚く三人だったが冬青は天が味方になってくれたと単純に喜んでいた。
十一娘は此処に必ず誰かが居ると確信して辺りを探して回った。
納屋に見覚えの二人の若い男達が眠っていた。
区彦行と供の安泰だった。

「若様!」琥珀も冬青も目を丸くしている。
「林公子!何故ここに?」
二人は納屋の片隅で昏々と眠っている。
まさか彦行や安泰が此処に居るとは!十一娘は呆気に取られた。
天の助けのようになみなみと張られた水瓶の水はこの二人が汲んでくれたものだったのか。
十一娘は有り難さよりも区家の公子が自分を此処まで探し当ててやって来た事に戸惑いを覚えた。
十一娘達の気配に気づいてまず安泰が目を覚ました。
安泰は彦行を揺すって起こした。
「若様!徐奥様です」

「区様がどうして此処に?」
「私と簡先生は徐候爵の事を聞きました。貴女が追い出された事を知って心配になって見に来ました」
十一娘の返事はそっけないものだった。
「私は大丈夫です。ご心配なく」
彦行は彼女の強がりにも怯まなかった。
「昨日から見ていました。大丈夫じゃないでしょう・・君の手を見て下さい」
十一娘は荒れてささくれた手を後ろに隠した。
「その手は刺繍をする為にあります。こんな事に使っちゃいけない。・・それに永平候爵に何かあっても君を責めるべきじゃありません。徐家の人達はやり過ぎです!」
彦行が自分を擁護してくれる気持ちは嬉しいがそれは十一娘の心情とは異なっていた。
「私が愚かに旦那様を誤解したんです。旦那様を傷付けてしまいました。旦那様に悪い事をしたので罰を受けるべきです」
「誤解?・・本当にそう言い切れるのですか?」
この人に何が分かるのだろうか。十一娘はこの日初めて彦行の目を見た。
「今考えればあの証拠の数々は全て旦那様を疑うように仕向けられていました。あの時は動揺して細かく検証しませんでした。猜疑心が理性を上回ってしまいました。多分あれは誰かが意図的に仕掛けたんです」
彦行は急速に十一娘から遠ざけられたような気がした。
「つまり君は、、私が区家の人間だからわざと君に間違った情報を渡して永平候爵を恨むように誘導したと疑っていますか?」
「いいえ貴方を疑っている訳ではありません。ただ徐家と区家の間には積年の恨みがあるのは事実です・・これから私の事に若様は関わらないほうがいいと思います」
十一娘から聞きたいと思っていた言葉ではなかった。
「若様はどうぞ早くお帰り下さい。こんなところでも人の出入りは少なくありません。人に見られたらどんな誤解を受けるかわかりません」
彦行はすっかり落胆する他なかった。十一娘の迷惑になるのは本懐ではない。
「分かっています。・・それでは気を付けて下さい」
「ありがとうございます」それだけ言うと十一娘は背を向けて行ってしまった。

「琥珀」
十一娘は琥珀を振り返った。
「公子は手に怪我をしていたわ。手当をしてさしあげて」
「はい、奥様」
琥珀は彦行に対する奥様の突き放した言い方に心が穏やかではなかった。
密かに彦行を慕っている琥珀には彦行が此処までやって来た気持ちが痛い程分かるから。
琥珀は公子が気の毒で堪らなかったが一方奥様の立場ではああ言うしかないのだと思った。
でもやはり奥様は優しい方だ。ちゃんと彦行の怪我に気づいておられた。
十一娘も辛かった。けれども今ここで彦行の助けに甘んじるのは間違っている気がする。
此処へは令宣に対する贖罪と彼の無事を祈る為に来ている。
そうでないと自分も旦那様も救われない気がしていた。

区彦行と琥珀は屋敷の居間に居た。
普段力仕事などした事がないだろう区彦行の白い綺麗な手の平にはマメが出来てそれが潰れていた。
琥珀は手当をしながら林公子がこれであっさり引き下がるように思えなかった。
「若様、私達を助けて頂きありがとうございます。ただ琥珀は一言若様にお伝えしたい事があります。徐候爵は今生死不明です。此処も厄介な場所です。若様は早く帰られたほうが良いです。もし区若様と交流があるのを徐家の人に知られたら候爵の死を若様のせいにしかねません」
「行いが正しければ他人から何と言われようが構わない。今一番大切なのは十一娘の身の安全だ。彼女が此処で苦労しているのに私がどうやって安心して帰れる?」
「でも万一」人に見られたら・・と琥珀が言おうとしても彦行は被せるように断言した
「大丈夫。細心の注意を払うから徐家の人には分からないようにする・・十一娘には迷惑をかけない」
やはり若様は引き下がるお積もりはないのだ。
「ご身分の高い若様がこんな田舎で身を隠して苦労されるなんて・・何故なんですか」琥珀には考えられなかった。
「理由なんてないさ。すべて私が喜んでやっている事だ」
琥珀は若様を説得することは諦めて箪笥に薬をしまった。
区彦行はふと箪笥の上に置かれた観音様を描いた刺繍布に気づいて手に取った。
彦行は目を輝かせた。
「緻密で目を奪わんばかりに美しい・・見れば分かる。これは十一娘が刺繍した作品だ」
「さすが公子です。奥様が旦那様の安全を祈願して刺繍された観音像です」
彦行は驚いた。
「しかし彼女は昼間は農園で働いているのにまだこれを創る力があるのか?」
琥珀は彦行の為に湯呑みに水を汲んだ。
「奥様は夜の休息の時間を削って作られています。私達も止められないのです」
観音像に魅了され引き込まれている彦行に琥珀は奥様の真心と工夫を自慢したくなった。
「若様、見て下さい!観音様の黒髪に使われている糸は奥様の髪なのです。持って来た糸が無くなったのです。それがかえって刺繍糸より綺麗だとやっと奥様が笑ったんです」
彦行はしみじみとその髪に触れた。そうだ、どんな苦境にあっても刺繍はいつも彼女の心の拠り所だ。
「十一娘の刺繍の才能は生まれながらのものだ。けれどこんな事をして手を痛めれば今後刺繍が出来なくなる・・琥珀、冬青と一緒に奥様を守って差し上げるんだ」
「はい、大丈夫です。必ずお守りしますから」
「君達も気を付けるんだよ」
区彦行の思いやりのある言葉に琥珀は胸がいっぱいになった。
「若様も私達の事ばかり心配なさらないでご自分の事もお気を付けくださいね」
「ありがとう」

十一娘はその日裏山へ薪拾いに出た。
急斜面に足元を取られそうになりながら一つ一つと枯れ枝を拾い集める。
奥様の傍を離れない約束の冬青が近くにいない。
そしてその状況を見計らったかのようにあの夜に現れた影と同じ黒装束が十一娘の前に現れた。

黒装束は十一娘の前に姿を現すやいきなり短刀で切り付けてきた。
「何者だっ!?」十一娘は叫び声を上げ身をかわした。
「何故私を狙う!?」
「奥様を守れっ!」
声が聞こえるや周囲の薮から一斉に鎌を持った農民風の男達が現れて黒装束をとり囲んだ。
多勢に無勢。暫し抵抗して逃げようとしたもののたちまち黒装束は捕縛された。
男達の背後で号令していたのはあの尊大な家令だった。
家令は黒装束の顔を覆っていた布を剥ぎ取った。表れたのは見慣れた家扶・王進忠の顔だった。
「やはりお前か」家令は王進忠の行動を暫く前から怪しんでいた。
十一娘は驚いた。あの一見親切な家扶が私を狙う刺客だったとは。
「連れていけ!」王は家令の配下に連れて行かれた。
冷や汗をかく命懸けの賭だった。
昨日の夜家令に頼んで見張らせていたのは十一娘自身だった。
「私を害そうと忍び込んでいる者がいます」
最初は彼女の話に取り合わなかった家令だったが井戸に投げ込まれた話を聞かされ説得されて協力したのだった。
十一娘は家令に礼を言った。
「助けて頂きありがとうございます」
家令は改まると畏まって十一娘に頭を下げた「こちらこそ奥様のお陰でくせ者を捕える事が出来ました」
いつの間に誰に買収されたのか徐家の奥様を害そうとするとは恐ろしい奴だ。放置していたら大事になるところであった。家令こそ胸を撫で下ろしていた。

大騒動の後、十一娘が裏山から降りてくると目の前に区彦行が飛び出して来た。
「まだ居らしたのですか?」
「安泰から聞きました!どういう事ですか?君を殺そうとするなんて」
十一娘は目に着かないよう庭の隅に移動し、夜忍び込まれ部屋を荒らされた事や井戸に投げ込まれた顛末を話して聞かせた。
「家扶は私と面識がなく恨みもなく殺害の動機がありません。ですから彼を買収した黒幕が他に居る筈です。彼を追求すれば必ずその黒幕に辿りつきます」
「十一娘、黒幕がまた貴女を狙う可能性があります。やはり此処に居ては危険です。ここを出ましょう!」彦行は今にも彼女の腕をとらんばかりだった。
「いいえ、私は此処に留まります。理由はもうお話しました。此処には家令も居ます。ですから心配しないでもうお帰り下さい」
自分を害する理由はただ一つしかない。盗もうとした物があの刺繍布であれば母を殺害した犯人が私の犯人探しをやめさせ口を封じようとしているのだ。
刺繍布の存在を何処かで犯人が知ったとすれば区家の関与である可能性も高い。
「あの家令ですか?君にあんな仕打ちをしていたではありませんか」
彦行は全く納得していなかった。

王進忠は黒装束のまま納屋の柱に繋がれていた。
家令と十一娘の二人で王を問い詰めたがよほどの金を詰まれたのかなかなか口を割らない。
「王進忠、お前いい度胸をしているな!奥様のお命を狙うとは」
「王、お前とは何の縁もない。誰に命じられたのか言え。言えば徐家がお前を保護する」
王は馬鹿にして言った「ふん!自分の命も守れないくせに」
「私を殺そうとするからには無論徐家に敵意を持っている筈。だから徐家が放っておく筈がない。王進忠、お前は我々に捕まったからにはもう捨て駒になった。いつ口封じに殺されてもおかしくない。我々に協力してお前に命じた者の名を明かすなら徐家がお前を保護する」
「・・本当か?」
十一娘から言われて心が傾いたかに見えた王だった。
家令が王の胸倉を掴んだ「王進忠よく考えろ、お前が唯一生き延びられる道だ!言え!誰の指図だ!」
「・・分かった。言う、言うから・・奥様を殺そうとしている者は・・」
息を呑んだその時王進忠は「退け!」と叫びながら家令に体当たりした。
忽ち縄を捨てて立ち上がった王は表へ走り出た。いつの間にか縄を切って居たのだ。
「待て!」家令も必死に追いかけた。
「捕まえろ!」
しかし王の命運はそこまでだった。
庭に出た直後、見張り番の男達が王を取り押さえようとした瞬間王の心臓に矢が突き刺さった。
十一娘は息を呑んだ。
その時更に驚くべき事態が起きた。
突然目の前の門からばらばらと武装した覆面の集団が敷地内に侵入してきたのだ。
目付きの鋭い先頭の男が叫んだ「全員殺せ!」
彼らが一切の証拠を残さぬよう皆殺しにしてまで狙うのは十一娘の命!
「奥様を守れ!」
家令の号令で徐家の男達も応戦した。
刺客は十一娘に容赦なく襲い掛かって来た。
切り付けてくる刺客から危ないところを救ってくれたのは彦行の供の安泰だった。
彦行も駆けつけて来た。
「十一娘!早く逃げて下さい!」
「区公子!危ない!」
先陣を切っていた目付きの鋭い男が彦行に襲いかかる。
その時だった。
門を目掛けて走った十一娘の傍を一陣の疾風のように駆け抜ける男の姿があった。
永平候 徐令宣だった。

徐令宣の後に部下達も続々と敷地になだれ込み徐家の庭は乱戦状態となった。
圧倒的に不利になった刺客達は当初の計画が突然崩れて勢いを失った。
劣勢を悟って先頭に立っていた覆面男が叫んだ。
「退却だ!」
ついに黒装束の刺客達は一斉に徐家から逃走していった。その動きは素早かった。
十一娘は肩で息をする令宣を見た。
「旦那様!」
十一娘は胸がいっぱいになり涙がこぼれそうになった。
信じていた。
旦那様は生きていると。
生きて、そしてここでも私の命を救って下さった。
その令宣は戦闘を終えて痛む胸を押さえている。
傷が全く癒えていないのにも拘わらず遠き山東へ赴いた旦那様だ。
激務に耐えて更に休む事なくここまで駆け付けて命懸けで闘った令宣の姿は余りにも痛々しくどう声を掛ければ良いのか彼女には分からなかった。
令宣は十一娘を守ろうとして応戦していた家令にねぎらいの言葉をかけた。
日頃態度の尊大な家令も突然の当主の出現に驚いてひたすら平身低頭し、どうか兵や馬を別棟で休ませて下さいと部下達を案内していった。

屋敷の居間で十一娘は令宣と二人きりで向かい合った。
十一娘は令宣のほつれ毛を直そうと彼の額に手を伸ばしたが令宣はやんわりと拒んだ。
旦那様は離縁状まで書き別れを覚悟の上で出発された。
願い通り生きて帰って来られても簡単に赦されるとは思わなかった。
いざその時を迎えると十一娘の胸も激しく痛み泣くまいとしても瞳にはうっすら涙が浮かんでくる。
やはり旦那様は私を赦していない。みぞおちの辺りがすうっと冷たくなるのが分かる。
「お怪我は少しは良くなりましたか?」
辛うじて出した言葉が他人のようで心を伝えられずもどかしかった。
「もう大丈夫だ」簡単な答だけで沈黙があった。
「知らせではあなたが火事で民を救う為に犠牲になったと聞きました。でも私は信じたくありませんでした」
貴方は必ず生きて帰ってくると信じていました。それを言えた事でやっと十一娘はほんの少しだけ微笑む事が出来た。
令宣にもそれは分かっていた。帰途で萬大顕に出会い十一娘が自分を待つと言った事を知らされた。
「私が命令を受け山東へ向かう時に誰かがお前が私を疑うように仕向けた。だから山東行きの件も計算されていると思った。それでずっと警戒していた。任務中誰かがこちらを絶えず狙っているのを感じていた」
そんな状況で火事場に飛び込むのは敵に絶好の機会を与えるのも同然だ。
頭のきれる令宣がそのような下策に走る筈がない。
「ではあの火事の件は貴方が仕組んだ事なのですか?黒幕をおびき出す為に!?」
「ずっと区家の仕業ではないかと疑っていたが確信が無かった。そこで起きた火事を逆にら利用した。区家の連中は私があの中で死んだと思い込んで憚りが無くなった。たちまち山東での賄賂不正の罪を私に被せた。そこで確信して奇襲をかけたのだ」
十一娘は恐ろしくなった。
「区家を欺く為に火事に飛び込むだなんて危険窮まりないです。しかも元々怪我を負っているのに炎から脱出するのはそんな簡単な事ではないでしょう?」
想像するだけで鳥肌が立つような危険な賭けに出た事につい咎めるような口調になる。
そして旦那様は都の本邸に帰らずここに直行された。
「どうして私が此処に居るのが分かったのですか?」
「帰り道で萬大顕に出会った。母上がお前に酷く当たっていたと聞いてここに居ると思った・・・お前は、離縁状さえ出せば徐家を離れられると言うのにどうして自分を苦しめて辛い思いをするんだ」
「そんなことをする訳がないでしょう?何処にも行きません・・あなたの帰りを待っていますから」
お互いを探るような沈黙があった。彼がその言葉をどのように受け取ったか分からない。けれど硬かった表情の奥がほんの少しだけ和らいだ気がした。

覆面の賊は逃走が早くその正体は暴けなかった。
「あいつらは一体何者なんだ?此処で何があった?」
「彼等が何者かは分かりません・・ただ今朝此処の家扶の王進忠が誰かに買収されて私を殺そうとしました」
令宣の顔色が変わった。
「家令が王を捕まえてくれて背後を探ろうと尋問したのですが王も何者かに矢で射られて殺されてしまったんです」
「それなら・・間違いなくあいつらはお前を殺そうと狙って来たんだ」
点と線が繋がって来た。
人を危めようとすれば両刃の剣だ。隠れていた動機が必ずや浮かび上がってくるものだ。
「あの区彦行は何故此処に居る?」令宣はまた厳しい声で尋ねた。
「簡先生が徐家まで私を尋ねて行かれたんです。それで心配の余り区彦行に頼んだそうです」
令宣は黙って難しい顔をして頷いていた。
「あ、旦那様。あの検死官の事を覚えていますか?私を誘導してあなたを疑わせるように仕向けた・・あの検死官は区彦行が捜し出して来たんです。でも区彦行はそんな悪意のある人じゃありません。・・彼も利用されたんだと思います。彼を疑われずに利用できる人間が居るとしたらやはり区家以外ないと思います」
令宣は断言した。
「だから私はお前の母を殺したのは区家の人間だと思っている」
令宣は十一娘と共に左半身を庇いながら屋敷を出た。
区彦行が前に進み出て来た。
「君に感謝する。妻が危険に遭った時に助けてくれた」
「永平候爵、実を言うとあの検死官を呼んで来たのは私です。私に責任があります。徐奥様を誤解しないで下さい」
「妻の事は信じている。だが区家の事は信じない」
「私の事は疑っても構いません。けれど徐奥様が切に真犯人を探している気持ちを分かって上げて下さい」
「我々夫婦の事に口を挟まないでくれ」
これ以上の言い争いは不毛だ。
十一娘は努めて明るく振る舞った。
「区公子、この間は色々とありがとうございました。私は夫と徐家に戻ります」
十一娘は令宣の腕を取ると歩み出した。

徐邸では今日も福寿院の大夫人の元に姨娘以外の家族が集まっていた。
大夫人は深い溜息をついていた「はあ~、どうして何の便りも無いのだろうな。もうあれから幾日も経つというのに・・」
怡真が慰めた「便りのないのは良い知らせですよ」
冷静な怡真は楽観していた。令宣に万一があれば令宣の部下達が山東のような郡部に候爵のなきがらを幾日も置いておく筈がない。日にちが経てば経つほど徐候は生存していると確信になっていった。
「・・そうだな」
広間に白家職が飛び込んで来た。
大夫人の前まで来ると礼もそこそこに報告した。
「大奥様!良い知らせです。今旦那様から伝言がありました。旦那様はご無事でもうすぐ帰って来られるそうです!」
「ほーーーっ!」
皆が一斉に息を吹き返した。
令寛が勢い良く立ち上がった「やはり四兄上は凄い!冥界の裁判官も引き受けられません! 白総監!一番いいお酒を出してくれ!今夜は飲むぞ」
彼は先日大夫人から諭されて令宣亡き場合は家督を継ぎこの家の主として勤めるという大任の決意をしたばかりだった。
その為に大事にしていた芝居の台本を丹陽の前で焼いたのだ。四兄令宣が大事な琴を折った事に倣ってそれまでの遊興三昧の自分にけじめをつけるつもりだった。
それでも果たして自分はその器なのかその任は追えるのかと悩みは深まる一方だった。
その一切の重荷から解き放たれた彼の喜びは計り知れなかった。
家族がそれぞれに令宣の無事の喜びを静かに噛み締める中、令寛は芝居仲間にも酒を振る舞い遅くまで痛飲した。
深夜、令寛は今にもひっくり返りそうな千鳥足でやっと帰宅した。
「丹陽!丹陽!」令寛が庭で丹陽の名を呼んでいると丹陽の二人の侍女が彼を止めに来た。
「五旦那様、静かにして下さい・・もう奥様は就寝してらっしゃいます」
「・・そうか、もう丹陽は眠っているのか・、じゃ丹陽を起こさないように私を東哨まで連れてけ」
令寛はふらふらのまま二人に連れられていった。

令寛は翌朝酷い喉の渇きを覚えて目を覚ました。
何かが変だ・・
異変に気付き仰天して飛び起きた。
隣に若い女が肩を剥きだしにした姿で寝ていたからである。
「し、暁蘭!何故お前がここに居る!?」
下着姿の女は昨夜の丹陽の侍女の一人暁蘭だった。

丹陽の部屋には三名がひざまずいて居た。
県主丹陽の膝に取り縋らんばかりにして泣きついているのは令寛だった。
「丹陽!私の過ちだ。お願いだ!赦してくれ」
丹陽は先程から人形のように表情がなくまともに令寛を見ようとしなかった。
令寛は渾身の力を振り絞って懇願していた。
「丹陽!私を蹴っても殴ってもいい!どうか無視しないでくれ」
丹陽は胡桃を指先で弄びながら虚空を皮肉な目で眺めて言った。
「いいのいいの、よくある事だし大した事ないわ」
「丹陽!私の目にも心にも君しか居ない!昔もこれからもだ!誓う!こんな事はもう二度とないから」
平伏していた侍女暁蘭が嘴を挟んだ。
「奥様、五旦那様は昨晩とても酔っておられて私を奥様と間違われたのです」
「暁蘭」
「はい、奥様」
「お前はもう旦那様と同寝したのだしこれからはお前に苦労はかけさせないわ。お前を旦那様の姨娘(妾)にしてあげる」
「丹陽!」
「奥様ありがとうございます!」暁蘭は平伏した。
ふんどうせこれがお前の狙いだったんでしょ。丹陽の目は更に冷たくなった。
「これからは私と共に五旦那様に仕えて下さい。あ、それと胡蝶はお前と長い付き合いだから彼女をお前の侍女にするといいわ」
暁蘭の隣で平伏していた同僚の胡蝶が一瞬驚いた顔を上げたがすぐにまた平伏した。
そこで初めて丹陽は令寛に顔を向けた。
「旦那様、このように手配しましたがいかがですか?」
丹陽はうっすらと微笑んで居たが令寛には丹陽の内心の怒りがより濃厚になって伝わってきた。
「丹陽!もう二度としない!誓う!」四兄生還の喜びも束の間、令寛はまた地獄に足を踏み入れた気分だった。
扉の外から取次ぎの侍女の声がした。
「五旦那様、奥様、四旦那様が正門に到着されました」
丹陽は令寛に目をくれようとせずに言った。
「先に行って下さい。私は身重ですから遠慮します」

令寛は令宣を出迎えに出ていった。
丹陽は二人の侍女に命じた。
「下がりなさい」
「はい奥様」
暁蘭と胡蝶も深々と頭を下げて出ていった。
もう今日から暁蘭は旦那様の側女の身分となった。
「奥様、なにも奥様が譲歩なさる事はないじゃありませんか」
丹陽と二人になると石乳母は零さずにおれなかった。
「お気に召さないなら暁蘭には金子をやって追い出せば良かったんですよ」
「一人の暁蘭を追い出したら・・また次の暁蘭が現れるかも知れないわ」
丹陽は悟ったような諦めたような顔になって言った。
「考えても見て。誡卿の件だってあれだけ大ごとになったのよ。父上はあれで旦那様に不満を持ってるわ。もし今回の事が知れたらきっと旦那様を許さないわよ」
石乳母は青ざめた。確かにあの堅物の公爵に知られたらただでは済まない。徐家全体をも巻き込んで一波乱あるだろう。
「きっと私達夫婦の間の情も傷付くし、私も恐らく嫉妬深い女だと言われるでしょう・・」
丹陽はふっくらした自分のお腹に掌をあてた「そうなったら私のお腹の子供はどうなると思うの?」
「・・奥様がそんなに物分かりが良すぎるなんて・・なんだか余計に哀しくなるじゃありませんか・・」
「石乳母が言ったのよ・・母親になったら昔のようにわがままではいけないって・・」
石乳母は丹陽を見て本当に泣きたくなった。
いつしかお嬢様は変貌を遂げていた。
県主として宮中で大切に育てられたお嬢様がいつの間にか自分を犠牲にしてでもお腹の子供の人生を優先する母になっていたことに。

徐府の正門には家族や文姨娘秦姨娘がうち揃って出迎えていた。
馬車が到着し令宣が降りて来た。
文姨娘が晴れやかに出迎えた「旦那様のお戻りです!」

「母上」
令宣は大夫人の前にぬかずいた。
「我が息子よ・・立って、さあ早く立っておくれ」手を指しのべて立ち上がらせた。
令宣の姿を見つめると感極まって涙ぐんだ。
「令宣よ、お前の帰りをずっと待っていた。分かるかい?お前は徐家の天だ・・徐家の大黒柱だ。母はお前が居ないと生きてゆけないんだよ」
令宣の手を握って落涙した。
令宣も手を握られたまま頭を下げた「親不孝で母上にご心配をかけました」
「四旦那様のお帰りは喜ばしいです。帰り道もさぞご苦労なさったでしょう。一先ず中に入ってからにしましょうね」怡真が気を利かせて声をかけた。
「そうだな!まず中に入ってから話そう」
「母上・・」
少し待って下さいと目で言うと令宣は馬車まで戻りその帳を上げた。
「十一娘・・!」大夫人とそこに居た全員から驚きのため息が漏れる。
特に文姨娘は秦姨娘と顔を見合わせ予想外の成り行きに眉をひそめた。
令宣は十一娘の手を取って大夫人の前に連れて来た。冬青達も後に続く。
「・・義母上」挨拶をする十一娘に大夫人の表情は一瞬にして怒りへと変わった。
「令宣、どうして彼女を連れて帰って来た!」
「十一娘は私の妻です。当然連れて帰ります」
「駄目!許さない」
「母上」
「この女は自分の夫を害したんだ。徐家の敷居は跨がせない!」
「母上、誤解です。実際はそうじゃありません。こんな門前で話すのもなんです。中に入りましょう。ちゃんとお話しますから」
門前で言い合いをしては体裁が悪いと大夫人も息子に従う他ない。
大夫人は門をくぐる前、よく帰ってこれたなと言う顔で十一娘をまじまじと見た。
十一娘はその突き刺すような視線を肌で感じながら目を伏せて耐えていた。
大夫人が嫁を許す気になれないのは十一娘には十分分かっていた。

出迎えに出た全員が福寿院の広間へと移った。

大夫人は令宣の一連の釈明を聞き終えた。
「分かった。話の内容は理解した・・だがな、そこの十一娘がお前を害した事は事実じゃないか。そのような大逆非道。此処には彼女の居場所は無いんだ!」
十一娘は己の罪は罪として明らかにするつもりだった。
「義母上、すべて私のせいです、わたくしは・・」
十一娘は令宣が奇跡的に生きていてくれただけで感謝していた。仏様に祈って大望が叶えられたのだ。この上自分の保身まで求めない。
令宣が自分を庇ってくれるのは有り難いが義母上が言う通り自分にはその資格がない。
姑の責める言葉をすべて呑んで徐家を出る覚悟で言葉を発したが、それは令宣によってすぐに遮られた。
「母上!それは誤解です!私の傷は自分からつけました。皆が思うほど酷くはありません。すべては区家を騙す為です」
現場を目撃していた文姨娘は令宣の嘘に驚いて目を丸くした。
「十一娘は私に合わせる為散々苦労しました。農園へ追放されて危険な目にも合いました。ですから十一娘には功労があります!」
「旦那様・・」
堂々と言い放つ令宣に十一娘は口をつぐむ以外方法が見つからなかった。
「令宣、本当か?彼女を庇う為に今の話を思いついて私を騙しているのではないのか?」
「母上、嘘は言いません。母上もご存知のようにそこまでしないと区家は騙せないのです。
事は徐家の盛衰に関わります。私が嘘を言う筈がありません」
令宣の懇願は令寛の心を揺さぶった。妻を愛する気持ちが兄から伝わってきて黙ってはおれない。母上にまた叱られてもここで執り成さなければ兄弟ではない。
「母上、四義姉上を誤解したのではありませんか?功労あり、過失なし。褒めるべきですよ」
大夫人はこれも黙って聴いていたが立ち上がると静かに令宣の傍に来て手を取った。
「令宣、お立ち・・・苦労をしているのはお前。度々怪我をしているのもお前だ。そのお前が良いと言うのなら母はこれ以上何も言わないよ」
大夫人は息子の顔をじっと見つめながら答えた。
そして皆の正面の席へと戻ると宣言した。
「この件はここまでだ。もう追及しない」
大夫人が不承不承受け入れたのは誰の目にも明らかだった。
命懸けで帰還した息子をこれ以上煩わせたくない為に妥協するしか無かった。
令宣の表情も硬いままだった。
「令宣、疲れただろう。もう部屋に戻ってお休み」
令宣は傍らにひざまずく十一娘の手を引いて立ち上がらせた。

大夫人は怡真に腕を預けて自室の居間へ戻った。
「怡真や、今の令宣の話をどう思う?」
怡真は微笑んだ。
「お義母様、私達が信じるかどうかが大事ではありませんわ。大事なのは四旦那様のお気持ちです」
「令宣が言うのは理解できる。心配なのはあの子を害する者を簡単に許せば後顧の憂いが絶えないと言う事よ」
「四旦那様がもし悪人を見抜けなければ徐家の今も無かったでしょう。考え過ぎですよ」
「はあ~・・そうであればなあ・・」
大夫人は深い溜息をつきながら座った。
「昔から令宣にはね愛する人を見つけて欲しいと願っていたんだ、相思相愛夫婦円満・・」
「四旦那様の十一娘への気持ち、誰でも分かりますよ」
「だけどね、もっと心配になったわ。あの子は入れ込み過ぎて自分を傷付けている」
「十一娘は善悪の分からない人ではありませんよ。四旦那様の信頼を裏切らないと信じます」
怡真が明るい顔で断言したので大夫人もそれ以上くよくよとしても仕方がないさ、今は令宣が無事に帰還した事だけを喜ぼうと自らに言い聞かせた。

妾に割り当てられている居室に向かって花園への道を歩いていた文姨娘は狐につままれたような表情をしていた。
てっきり奥様は戻って来ないだろう、そのうち離縁されるのだとぼんやりと考えていたのになんと十一娘は旦那様と一緒に帰って来た。
隣を歩く秦姨娘は彼女の気持ちも知らぬ顔で穏やかに言った「旦那様が無事に帰還なさったのも仏様のご加護だと思います」
「確かにご加護に違いないわ。でもあの十一娘まで帰って来るとはね!」
文姨娘は不満をあらわにしていた。
「一番解せないのは旦那様が嘘までついて奥様を庇った事よ」
「もしかしたら本当に誤解で旦那様の言う通りなのかも・・」
文姨娘は素っ頓狂な声を上げた「誤解ですって?我々がちゃんと見たじゃない!奥様が旦那様を傷付けたところを」
秦姨娘が黙って返事をしないので文姨娘も黙る事にした。
「まあいいわ。大奥様が認めたんだからこれ以上何を言ってもね・・あっ!」
文姨娘は突然秦姨娘の手を取った「私達、逃げられない事があるわ!」
「それは旦那様の命令に逆らって奥様を裏切った事ですか?」
「あれって、私達にはどうしようも無かったわよね!?」
同意を求める文姨娘に秦姨娘は含み笑いをして答えた。
「文姨娘、あの日私は何も言いませんでしたよ」
そう言うと離れていった。
残った文姨娘は呆気に取られ憤慨した。
「ちょっと!なんで私だけのせいになる訳?あの秦姨娘て大人しそうな顔をして結構計算高いのね!」