「今回、いつ戻れるか分からない。母上に露見したら離縁状を持って徐家を出なさい。お前はこれで責められない」
十一娘は目に涙を堪えて震える声で願った。
「でも私が衝動に駆られて旦那様に怪我をさせました。処罰を受けます。離縁はしないで下さい。私を庇わないで下さい!」
「徐家を出て好きな人と結婚しなさい・・ただし、区彦行は信じるな。区家の人間は陰湿だ。お前を大切に扱わない」
「区彦行とは2年前に知り合いました。彼は林世顕と名乗りごく最近本当の身分を知ったばかりです。彼は区家の人ですが区家とは仲が良くありません。けして陰湿な人ではありません」
令宣は暗い表情でその言葉を聞いていた。
彦行を今庇うのは良くないと分かっていても令宣には本当の事を知って貰いたかった。
「本当を言うとこの一年ずっと母の事を調べています。区彦行も手伝ってくれています。母の検死を担当した検視官に会いました。母の致命傷は矢傷だと教えられました。その矢を拾った猟師にも偶然会いました。徐家の三稜擶と同じものでした。旦那様が犯人を捕まえる為人質に取られた母を殺したところを目撃したそうです」
令宣は驚愕して言い返した。
「本当に私が殺したなら犯人の死体を片付ける時現場に残すわけがないだろう!お前は一方の言い分だけを軽々しく信じた。私をむやみに人を殺す人間だと思っているのか」
「すべての証拠が揃っても信じませんでした。ですが、あの日旦那様が酒に酔い母の死はご自分のせいだとおっしゃいました。それで初めて旦那様と出会った日を思い出しました。同じく海賊を捕らえる為に私に矢を放ちました。それで・・私は旦那様を疑ってしまいました」
「あの夜・・私の気持ちを分かってくれたと思っていた・・まさか私を探っていたとは・・」
「ごめんなさい・・」
令宣は呻いた
「お前の母上に悪いと思ったのはもっと早くに駆けつけていたら彼女が殺される事は無かったからだ」十一娘は泣きながら頷いていた。
今なら素直に受けとれる。あの夜の彼の言葉の意味を。
「分かった。当時一緒に劉勇を捕まえに行った兵全員を呼んで来る。お前に説明する」
十一娘は頭を振った「いいえ!いいえ!いいんです」
「もう少し私を信じていてくれていたら、素直に言ってくれたらこんな誤解は無かっただろう」

十一娘は返す言葉がなかった。

その通りだ。

旦那様に打ち明けていれば行き違いなどなかった。

私の愚かな猜疑心が一番大切な事を見誤らせた。

十一娘は自分自身に烈しく憤った。

令宣はもう胸に走る痛みが身体の痛みなのか心の傷みなのか区別がつかなくなっていた。
掠れる声で告げた。
「結婚して以来、愛し合っていると思っていた・・だが結局自分だけの思い込みだった。私の空想だった・・」
「違います」と言おうとしたが声にならなかった。十一娘はひたすら頭を振り続けていた。
「お前にとって国家に災いをなす区家の人間の方が余程大切なのだな」
十一娘は涙を拭き頭を振ったがどう言葉を取り繕おうと令宣には弁解としか聞こえないだろうと思った。
旦那様の真心を踏みにじってしまったのは事実だ。
令宣は大きなため息をつくと天を仰いだ。
十一娘は初めて令宣の心の琴線に触れた女性であり善良さとその度量の大きさには常々感服していた。
彼女のような得難い女性を妻に迎えた事を喜んでいた。
純粋に心から愛していた。
心身共に結ばれる時を心待ちにしていた。
ただそれは報われなかっただけなのだと令宣は哀しんだ。

そこへ臨波と照影が入って来て挨拶をした。
「旦那様、準備が整いました。いつでも出発出来ます」
「旦那様、行かないで下さい!身体がご無理です。行かないで!」

「さらばだ…」


令宣は行ってしまった。
残された十一娘はしばらく茫然とその場に立ち尽くしていた。
はっと我に返って令宣の後を追ったが令宣の馬車は既に旅発った後だった。
その手には離縁状が握られていた。
離縁状にぽとりと涙が墜ちた。

[臨波の独白]
奥様、旦那様と出会った日、旦那様が矢を放たずに奥様が海賊に連れて行かれたらどうなっていたと思いますか?
そして奥様が水に落ちた時、誰に助けられたと思いますか?
山東に行くのは必ずしも旦那様が行かざるを得ない訳ではありません。
朝廷には代わりになる人が沢山居ます。ですが殺傷の事を通報すれば順天府に調査され奥様はきっと刑を定められます。
だから徐殿は何と言っても山東に行くのです。
今回はどれだけ困難に直面するか分かりません。徐候でさえ無事に帰って来れるか否か分かりません。
だから離縁状を書いたのです。
奥様の身を守る為です。

[靖遠候爵府]
「旦那様」
区励行は妻を相手に碁を打っているところだった。
配下は入って来ると一礼し携えてきた文を手渡した。
励行は一目見ると妻に目を向けた。
「徐令宣は大怪我を負っても山東で区家を調べたいらしい・・では彼に贈り物でもしようか。彼に忠義を尽くして貰おう。折角の機会だからどうすべきか分かっているな?」
彼とその妻は今や徐令宣を目の敵として葬る時を虎視眈々と狙っていた。
山東には区家と連携する妻の実家の親族が根を張っている。
朝廷の目の届きにくい山東なら金で自由に動かせるならず者達を雇う事など容易い仕事だった。

その夜、令宣達は山東への道中で夜営していた。
臨波達は焚火を焚いて糧食を準備していた。
令宣は焚火の炎を見つめていたが思い浮かぶのは十一娘の事だった。
涙ぐみ行かないで下さいと懇願していた彼女の顔ばかりが何度も脳裏に浮かび上がる。
翌朝、出発した馬車の中で荷物の包みをひもとくと十一娘が作ってくれた靴が丁寧に手入れされて入っていた。
唐草模様が刺繍された渋い色合いの靴。
それを見つめていると靴をくれた時の十一娘と自分とのやり取りが思い出され自然と頬が緩んでくるのが分かる。
靴を真ん中に引っ張り合った滑稽だが楽しかった思い出だ。
意地を張り合うばかりだった二人の距離が近付いて十一娘の笑顔が眩しく愛らしかった。
今更馬鹿な、、未練だ、と思いながらも絶ち切れない想いに令宣は長い間靴を眺めていた。

令宣が屋敷を出発してからというもの十一娘は片時も休む事なく家事を采配していた。
出産を控えた丹陽の食事にまで細かい指示を出して気を配った。
冬青が休むように奨めたが十一娘は手も頭も止めようとはしなかった。
琥珀が十一娘に頼まれ絹糸の入った籠を持って入ってきた。
「旦那様は奥様の為に山東に行かれた。だから奥様は家事に打ち込む事で旦那様の後顧の憂いを無くして報いたいと考えてらっしゃるのでしょう」
冬青も頷いた「うん、だから私たち精一杯奥様を手伝おう」
「奥様、糸を持ってきました」
「ありがとう」
「奥様これで何を刺繍なさるんですか?」
「観音菩薩よ。観音菩薩は平安を護って下さる仏様でしょう。旦那様の為に観音菩薩を刺繍するわ」
[山東の地]
令宣は到着するなり被災状況を確認し被災民を慰労して回った。
現地の代官が一緒について回り令宣が指示した対策を実行に移していった。
「避難場所の手配が完了しました」
救済に十分な量の穀物が既に各地から送られてきた事も報告をされた。
「よくやった」これで当面安心できる。
「徐将軍、一日中歩きっぱなしです。きっちり休憩を取らないといけません。このままだと身体を壊します」
副将・臨波が心配して何度も進言した。
「今が難民に一番必要とされる時だ。休んではおれない」
物陰から一行を鋭い目付きで盗み見している男が居た。区家が手配したならず者だった。

令宣に帯同した医師が傷口を消毒して包帯を交換しながら嘆いた。
「徐将軍、あ~動き回るからまた裂けていますよ。傷口が回復するどころか悪化しています。静養しないといけません。でないと今後は命に関わってきますよ」
「難民と比べたら大した事はない、傷の治療はお願いします。しかし静養は二度と言わないで下さい。難民を優先します」
医師は盛大にため息をついた。
「はい、分かりました、候爵。少し強い目の薬に変えます。沁みますよ、我慢して下さい」
臨波が心配そうに覗き込んで自分が辛そうな顔で頼んだ。
「あ~、先生もっと優しく」
「はいはい・・」

天幕の彼らの宿舎の上にも美しい月が昇った。
令宣は一人表に出てその月を仰いでいた。
臨波が寝床を整えていると月明かりに照らされた令宣の後ろ姿が見えた。
「また奥様のことを考えているのですか?」
「彼女が今何処に居るのかが分からない。母上に知られたらただでは済まないだろう」
「候爵は予測出来たから離縁状を残して奥様を守られたんでしょうが・・本当は奥様と別れたくはないのでしょう?」
「彼女の安全のほうが大事だ・・もし本当に離縁状を使うなら、、それは運命だろう。縁が切れたのだ・・」
臨波は胸の傷よりも深い令宣の心の傷みを思った。
照影が後ろから声をかけた。
「旦那様、薬湯が出来ました。熱いうちに飲んで下さい」
「報告します!」
部下が飛び込んで来た。
「大変です。将軍。宿屋が燃えています!」
令宣は火事現場へ駆け付けた。
現場は行き交う人々でごった返し消火する人や中から人を助け出そうとする人々が大声で叫んで阿鼻叫喚の地獄となっていた。
「火勢が強くなってきたぞ!」
令宣は援兵を呼んでくるよう臨波に命じると臨波の止めるのも聞かず宿屋の方向へ走って行った。

徐大夫人は屋敷の霊廟でひざまずき朝な夕な一人祈っていた。
「御先祖様、令宣は父と兄を亡くし、若い時からこの徐家の全ての責任を一身に背負い苦労してきました・・御先祖様、聴いてらっしゃるのなら何卒令宣をお守り下さい」
目が覚める度、令宣の傷口が開いてはいまいか、山東で区家から妨害を受けてはいまいか、と令宣の身の上の心配ばかり浮かんで来る。
何故あの子ばかりがこのように苦労するのか、大夫人は溜息を漏らした。
「無事に帰って来れますように・・」
仏前に身を屈めてひたすら祈った。
その日霊廟を出たところで姥やが近寄り耳打ちをした「大夫人、旦那様の刺し傷について手がかりがありました」
「なんだ!?」