「奥様」
十一娘が再び寝室に足を踏み入れた時臨波に呼び止められた。
「旦那様が目を覚ますまでは入らないほうが良いと思います」
臨波は十一娘への疑いが晴れない限り入るなと言っている。

冬青は少しも事情を分かろうともせず奥様に不信感を抱く臨波が我慢ならなかった。

「あなたは何も知らないでしょう!違います。旦那様が・・」

冬青が何を言い出だすのか悟って十一娘が止めた。

「傳殿、旦那様を刺したのは事故で私の本意ではないの。勿論旦那様の無事を祈っています。もし心配なら私と一緒に旦那様の世話をしましょう」


臨波はまだ素直に彼女の言葉を聞けないでいた。分かっている。奥様が故意に令宣を傷つける理由がないと言う事を。頭では分かっていてもまだ心が赦せないでいるだけなのだ。

琥珀が見かねて言った「傳殿、旦那様には看護をする人が必要です。奥様が世話をしないとかえって他の人に怪しまれます。それは旦那様も望まない筈です」

令宣が望まない事は臨波にも分かっていた。

三人は寝室に入った。
令宣は青白くやつれた顔で眠っていた。
額を拭いて傷口の包帯を変える。
眠り続ける令宣の顔を見つめながら十一娘は繰り返し思い出していた。
十一娘を庇って鋏が胸を刺した時、城外で刺されたと言い、皆に口止めをした。

激痛と熱に浮されながら通報するなと必死に声を振り絞る令宣の姿に涙が溢れて滴り落ちた。

すべて一貫して十一娘の為だった。

明け方一旦洗面しに部屋に戻った十一娘に琥珀が粥を薦めた。
「ずっと何も口にされていません。傳殿と照影が付いています。少しでも召し上がって下さい」
十一娘は黙って首を振るばかりだった。
冬青と琥珀は心配で顔を見合わせた。
冬青は奥様の罪悪感が少しでも薄まって欲しいと願って言った「奥様はわざとじゃないです・・」
沈黙していた十一娘がやっと口を開いた。
「旦那様の事を誤解していたわ・・」
「奥様どういう事ですか?」琥珀が尋ねた。
「私が刺した事を口止めされた。義母上に通報しないように求めた。怪我をさせたのに生死の境で私を庇ってくださった・・そんな人がむやみに人を殺す筈がない」
十一娘は深い溜息をついた。
浅はかだった。
母を殺害した犯人を探す事ばかりに気を取られ令宣の人となりを疑ってしまった。
つくづく愚かだった。
「よく考えてみると、証拠がすぐに集まった・・」
林公子いや区彦行に打ち明けてからと言うもの頓挫していた調査がトントン拍子に進んだ。
よく考えて見ればおかしい。
「検死官、猟師、それとあの矢!すべてが旦那様を疑うように仕向けられた」
彦行が調査を始めた事を犯人側に知られて偽の証拠を掴まされ罠に嵌められたに違いない。
目の前に並べられた証拠を鵜呑みにしてしまった愚かさをどう詫びたらよいのか・・。
冬青が困惑して尋ねた。
「なら、どうすればいいんですか?」
「今は旦那様のご回復が一番、何もかもその後よ」

夜が明けて十一娘が令宣の熱で汗ばんだ額や首もとを何度も拭っていると臨波が声をかけた。
「奥様、この薬は一時間置きに六回に分けて服用します。時間をずらしてはいけません。一日かかりますので奥様には無理です。先に帰って下さい。私と照影でお世話します」
「心配しないで。ちゃんと時間通りに薬を飲ませるわ。・・心配なら隣に居てくれていい」
冬青が臨波を睨みつけながら奪うように薬を受け取り十一娘に渡した。
彼女はまだ熱い煎じ薬を息を吹きかけ冷ましながら令宣の唇へと運んだ。

翌朝、臨波が気がつくと十一娘は令宣の額を丁寧に拭いていた。
そして眠る令宣に小声で話しかけているのを耳にした。
「あなたがご無事なら、私は如何なる結果でも構いません」

臨波はボヤッと半月畔の回廊の手摺りに座っていた。
奥様は徐殿の深い思いやりにやっと気づいたのかも知れない。そんな徐殿の心も知らないで修羅場になったあの時は心底奥様に腹が立った。しかし時間が経ってみると奥様の献身的な看護は本心からの本物だと信じられるようになってきた。
そんな物思いに耽っていると中から冬青が出て来た。
冬青は臨波を見ると洗面器の水を乱暴に床に撒いた。勿論飛沫が臨波にかかった。
「何するんだ!」
「あら傳殿、手が滑りました。わざとじゃないです」
「手が滑った?見てたぞ。わざとだろ!」
「そうですか?物事が起きるには理由がありますけど?」
「何だと!屁理屈こねやがって。俺に水をかける理由があるというのか!」
「理由があるかどうか話し合いましょうか?傳殿みたいに何でも勝手に決め付けるよりはマシです!」そう言い捨てるとツンとしながら冬青は行ってしまった。
「こら!尊卑の秩序を知らないのか!こら戻れ!」

[仙綾閣]
区彦行は仙綾閣を訪れた。簡先生にその後の経過を聞く為だった。
簡先生が入って来ると立ち上がって勢い込んで尋ねた
「簡先生、十一娘から連絡はありますか?」
「ええ、十一娘の侍女が伝言を持ってきました。徐候爵はまだ意識は戻らないものの命に別条はないそうです」
「・・そうなら良かったです。でないと羅さんの徐家での立場は難しくなるでしょう」
彦行は心底ほっとしていた。候爵に万一があれば十一娘に災いが及ぶ。
「そうですね。徐候爵がいらっしゃれば十一娘を傷つける事は出来ないでしょう。負傷した時に彼女を庇ったので回復すれば誰も彼女を責めないと思います」
彦行はそうであって欲しいと頷いた。
だが彼には分かっていた。
貴族の家は大抵が複雑だ。
家族と言えど利害が絡み合い十一娘も難しい立場に立たされている筈。
庶出という一段低い地位に生まれた者の宿命を自分も嫌と言うほど味わって来た。
だからこそ立場の似た者同士として十一娘の苦しみが誰よりも理解出来るのだ。

今も燈籠祭りの夜に見かけた十一娘と徐候爵の仲睦まじい姿が脳裏に甦って彦行を苦しめる。
あの時は衝撃を受け嫉妬に駆られ夜明けまでやけ酒を呑んで潰れた。
心の奥底では令宣から奪えるものなら奪って逃げたいと願った。
しかし一方で彼女にそんな卑しい心根の男だと思われたくない。
十一娘が護られて平安であって欲しいと彼女の幸せを一番に願う男でなければならないのだ。

琥珀が十一娘を呼びにきた。
十一娘は片時も令宣の傍を離れなかった。
「奥様、もう二日間も休んでおられません。帰って休みましょう。私達が居ますので旦那様が気付かれたらすぐにお教えします」
そう言われても十一娘は令宣から目を離さなかった。
「奥様、先生がおっしゃいました。旦那様は回復されると。だから安心して下さい」
その時、令宣がううっと息を吹き返したように喘いだ。
十一娘がはっとして呼びかけた「旦那様!」
「旦那様の意識が戻りました」控えていた臨波と照影が駆け寄る。
「琥珀、先生を呼んできて!」
令宣は意識が戻るなり身を起こそうとした。
「旦那様!」
三人がかりで集まって令宣の身体を支えた。
「どれほど寝ていた?」半身を起こし瞼を重そうに開けて令宣が尋ねた。
照影が答える「旦那様、二日間、丸二日寝ていらっしゃいました」
「大変だ・・荷物を用意してくれ・・山東へ向かう」そう言い硬くなった身体を無理矢理起こして寝台から降りようとした。

「どこへも行くな!」
突然、大夫人の声が響いた。
「母上・・」
「令宣、家で休養するのだ。臨波に朝廷へ通報して貰う。順天府に調べて貰おう。誰にそんな度胸があると言うの?都で大臣を刺殺しようなどと大それた・・」
十一娘は身を切られる思いでその言葉を聞いた。
「母上にご心配をおかけしました。しかし、今回の救済の件には如何なる理由があろうとも・・行かなければならないのです」
「そんな傷でどうやって行くの?・・じゃあ、誰に刺されたかを教えなさい」
一瞬の沈黙があった。
十一娘は意を決して告白しようとした「義母上、私・・」
「母上!」令宣がその声を遮った。
「山東での救済は区家が救済金と穀物を貪ろうとする可能性があります。でなければ区励行が礼部侍郎でありながら戸部の仕事に手を出す筈がありません・・この傷は、区家の手先にやられた可能性があります。私を止める為に」
これは半ば事実だった。山東は区家の支配地域であり災害が起きた時、救済に名乗りを上げたのは区励行だった。
救済の予算が国庫から降り配分を任されればその大半を貪るのが区家のやり方だった。
陛下は令宣に勅命を下したが山東に赴けば必ず区家による妨害があるだろう。
「犯人探しに時間を取られるなら区家の思うツボです・・区励行が私の代わりに行ったなら民衆の傷口に塩を塗り込む事になります!ですから下手に動いてはなりません」
「本当にそうなら、もっと安心出来ないわ。こんな重い傷でもし区家が」
「個人の命で朝廷と民衆を軽んじるなら・、徐家は区家と同じです。国の為にも家の為にも行かざるを得ません」
「しかしお前の身体が・・」
「大した傷じゃありません。医者に随行して貰えば直ぐに治せます」
大夫人はそこで諦めた。この息子は如何に説得しようとも行くのだろう。
「分かった」そう言うと十一娘に向き直って言った「令宣の世話をするのだ」
大夫人のその声は大上段で十一娘に対する労りは感じられない。
明らかに大夫人は私が関係していると疑っている。
許されなくてもよい、いっそすべてを告白してしまいたい。
そんな衝動も今の令宣の言葉の前に飲み込むしかなかった。

ともかくも令宣が山東に出発する事は決定してしまった。
十一娘が令宣の半月畔で飲む最後の薬湯を持って戻って来ると臨波と照影が玄関から出て行くのが見えた。
十一娘が慌てて書斎に入っていくと既に身支度を整えた令宣が書き物机に向かっていた。
令宣は青白い顔色で背筋を伸ばして書状をしたためていた。
「旦那様、お薬です」
器を置いた十一娘の目に飛び込んで来たのは令宣が一心に筆を走らせている書状の文字だった。
[永平候爵徐令宣に妻・羅十一娘あり。しかし結婚は不本意なり。故に二人の間に溝が生じた。今世未だ先長く心安らかにならん為、不安を払拭せんが為この離縁状で憎しみや蟠りを全て解消し今後争いなきようこの離縁状を証拠として残すものなり]
十一娘は愕然とした。
署名捺印した令宣は書状を丁寧に折りたたんだ。
封筒に入れると立ち上がり黙って十一娘の前に滑らせた。
表書きには「和離書」(離縁状)とある。
「離縁、するのですか・・!?」
十一娘は足元が音を立てて崩れていくような気がした。