【後悔】
福寿院の広間では蓮房の実母喬夫人が押しかけ徐大夫人にとり縋らんばかりに懇願していた。

「従姉上、蓮房も貴女様を慕って育ったんですよ。あの子がどんな娘か従姉上もご存知ですわね?ただ、あの子は一時魔が射しただけですもの。もう一度あの子に機会を与えてあげて・・徐家に置いてやって下さい・、何なら侍女でも側女でも構いません。従姉上の側に居させて・・従姉上と旦那様に仕えさせればいいんです・・あの子に贖罪の機会をあげて下さい!従姉上、お願いします!」


半泣きになって取りすがる従妹を見ても大夫人の冷え切った気持ちは変わらなかった。

「機会をあげる?・・それなら元娘は?私の孫は?誰があの子達に機会をあげるの?」
嫁もそのお腹に居た孫も二度とこの世に戻れないのだ。

喬夫人は下げていた頭を上げ大夫人を見上げた。大夫人の声音は断固としていた。

「蓄神修業をしたくないと言うなら順天府に行きなさい」

喬夫人は愕然とした。

これを不服として順天府に訴えるなど有り得ない。

大夫人がきっぱりと宣告した。
「自分で選びなさい」
喬夫人は大夫人の膝に手を置き更に縋ろうとしたが、大夫人は喬夫人を見ようともせず膝に置かれた手を払いのけた。
あれ程までに蓮房を贔屓にして可愛がり、喬夫人にも姉妹同然に良くしてやったのに蓮房は徐家の正妻を毒殺し、喬夫人は蓮房と共謀した挙げ句、外では徐家と令宣を嘲笑して誹謗した。
令宣から詳細を聴いたとき己が身に震えが来るほどその所業は赦しがたかった。

もうこれで喬家との縁は切れたのだ。


都から遠く離れた田舎の廃屋のような別館に蓮房は移されていた。
繍櫞はとうに都から二度と戻れない遠方へ追放されたという。

その廃屋のような仏間と言うにはあまりに粗末な暗い部屋の冷たい床に蓮房は座っていた。
降ろした髪は既に何の錺も着けてはいない。薄鼠色の麻の服に化粧気は元よりなく青白い尼のような姿で端座している。
指は木念珠を繰りひたすらに念仏を唱え続ける。
背後に影が射した。
娘を尋ね当てて来た喬夫人だった。
一目娘の後ろ姿を見た喬夫人はがっくりと力が抜けて扉に寄り掛かった。
長い間使われていなかった陋屋は手入れもされず荒れ果てて奥には土間に寝台がぽつんとあるだけで何の装飾もなく、到底娘が住めるような場所とは思えなかった。
喬夫人はじっと動かない娘に近寄り顔を覗き込んだ。
「蓮房や」
娘は重たげに瞼を開けて母を見た「母上・・」
喬夫人は娘の腕をしかと捉えた「蓮房・・ここは人が居られる場所じゃない・・行こう、母と一緒に此処を出よう!さ、出よう」
喬家に帰る事は不可能だが、此処でなければ何処でも良い。
蓮房は腕を取られ膝を立てたものの母に向けた目は虚ろで暗かった。旦那様と大夫人の赦しも得ず此処を出る訳には行かない。
候爵夫人を殺害した罪は大きい。
重罪により斬首される代わりに此処で隠遁するのは旦那様の温情なのだから。
「徐家が順天府に突き出すと言うのなら誰かに身代わりを引き受けて貰えばいい。さ、行こう!?」
「母上・・此処に居させて下さい」蓮房は再び冷たい床に座った。
彼女の瞳からはかつての傲慢さが消えていた。
喬夫人は変わり果てた愛娘に驚愕していた。てっきり一緒に帰ってくれるものと思っていた。
徐家も夫人が娘を何処かへ移したと知っても厄介払いしたとそれ以上追求するまい。
「蓮房・・どうしたのよ?ねぇどうしたの?驚かさないでよ。蓮房!」
「母上、欲しい物は頑張って手に入れようとしました。それももうこれまでです。もう何も望みません」
蓮房は憑き物が落ちたように青白い顔で物静かな口調で答えた。
こんな娘は見た事が無かった。
「母のせいだわ」喬夫人の唇もわなわなと震えていた。
「昔から企みを教え過ぎた・・欲しい物があればどんな手を使ってもお前に上げたい。しかし・・執着してはいけない事もあるのを教えられなかった、あれでお前を一生守れると思ったのに・・まさかこうなるとは」
喬夫人は娘に懺悔した「これはこの母のせい、母が悪いのよ・・蓮房~」
そう言って泣き崩れる母の背を娘は抱きしめた。
「母上、これは誰のせいでもない、、そう、自分のお身体を大切にして下さい。母上は私一人しか頼れないのに今となっては私もどうしようもありません・・母上の喬家での生活は辛くなるでしょう」
令宣こそが究極の望みだった。
それを断ち切られた蓮房は既に抜け殻になっていた。
徐家からはっきり証拠を突きつけられ喬家は沈黙する以外方法が無かった。
一人娘が犯罪人と成り果てた喬夫人の立場は既に無い。
夫人は再び号泣した「蓮房~蓮房よ・・」
嗚咽はいつまでも響いていた。


「まさか旦那様が」
仙綾閣の一室で十一娘は絶句したまま完全に混乱していた。
蓮房の一件が終わり十一娘の暮らしも落ち着きを取り戻しつつあったがまだ母の事件は終わってはいなかった。
先日慈安寺に再度調査に行ったおり、十一娘は現場にほど近い草深い山道で偶然猟師に出会った。母の亡くなった時もこの辺りを歩いていなかったか聞こうと呼び止めた。
猟師はあの騒ぎを覚えていた。騒ぎが収まった後で参道でこの矢を拾いましてね、と言いつつある一本の矢を見せてくれた。
十一娘は一目見て心臓がざわざわとする感覚に襲われた。
過日令宣の部屋で見かけたあの先の割れた徐家伝統の矢がそこにあった。
その矢をつがえる事が出来るのは徐家の人間に限られていた。

今し方区彦行より慈安寺で母を殺害したのは徐殿ではないだろうかと言ういくつかの証拠について聞かされた。
普通なら信じる事は出来ないがつい先日十一娘も令宣が酔った時に母の死は私のせいだと歎いていたのを聞いている。
それは何か直接の原因ではないにしろ犯人追跡の現場統率者として責任を感じているのかと思っていた。
だが区彦行は母を検分した検死官を捜し当ててきた。
その検死官を追求したところ、母の胸の致命傷は当初聞かされていた海賊の待つ鋭い刃物による刺し傷ではないと白状したと言う。
実は不審に思い更に検分したところ更に深いところで矢で心の臓を射抜かれた跡が見つかったという。
がその新事実は何故か役人から口止めされ明かす事が出来なかったと打ち明けた。
検死官は母の胸の刺し傷は矢傷を隠す意図で上から刃物で切り付けたものではないかと言った。
しかも矢傷の形状は独特でありきたりの矢ではないと証言した。

令宣には母を殺害する理由がない。だが海賊追跡途中での事故だとしたら。
区彦行は混乱する十一娘を宥めて言った「十一娘、落ち着いて。まだ本当の事は分かりません。まだ我々の知らない事実が隠されているかも知れません」
「でも!でも・・証拠が揃っています」
検死官の証言。
現場に落ちていた物証。
私のせいだ・・泥酔した令宣の悲しげな様子が目の前にちらつく。

先日の燈籠祭りの夜、街に繰り出した十一娘と令宣はこどものように笑い合いはしゃいだ。
投壺遊びに興じ、真っ赤な山査子飴を買って食べた。
様々に鮮やかな色に染められ煌めく燈籠の明かりの下で令宣は十一娘の腕をとり引き寄せ離さなかった。
彼の目には火花のように燈る愛が見える。
動悸がして頬が熱くなり今度こそ逃げられない。
やがて力強い腕に身を任せて初めての口づけを交わした。
遅い目覚めだった。
十一娘はあの時から令宣を慕う心を自覚していた。
本当の妻となっていっそこのまま旦那様と添い遂げようか・・あれ程一人羽ばたく自由を渇望していたのに徐家を出る考えは捨てても良いとさえ思うように心は変化を遂げていた。
灯籠祭りから帰宅したあと、二人が持ち帰った花灯籠を西跨院の屋敷の玄関に飾った。
灯籠を見ながら冬青はしきりに奥様に優しい旦那様の事を褒めた。
「奥様も旦那様の事を良い方だと思うでしょう?」
十一娘も満更でもない顔で答えた。
「…当初、事件が片付いたらこの徐家を出るつもりで、候爵には何も期待しなかったわ。…でも候爵の人柄を知るうちに誠実で情の深い方だと思った」
「それだけじゃなくて奥様には特別優しいですよね
!奥様を見る目は普段と全然違います」
十一娘は微笑んだ。
「でも候爵が言ったの。愛は信頼と尊重で成り立つものだと…候爵は必ず約束を守る人だわ・・」
十一娘の表情が翳った。
「でも私は別の目的があって嫁いだ…旦那様を裏切っているようで申し訳ないわ」
「でも奥様は旦那様と徐家の為に一生懸命尽くされたじゃないですか。だから旦那様も奥様を好きになったんですよ。
もし旦那様に悪いと思うんなら旦那様を受け入れてください!事件が片付いたら二人で幸せになれます!」


でも・・・でも
もし・・万一彼が過ちであったとしても母を殺めていたとしたら!
例え事故だったとしても彼は私を欺いた事になる。
十一娘は頭を抱えた。

その頃令宣は軍営から帰宅し西跨院に直行していた。しかし帰って来ない十一娘に胸騒ぎがして仙綾閣まで迎えに行った。
令宣の顔色を不審に感じた臨波がその跡をついて行った。

仙綾閣の店先で十一娘の居場所を問うと別棟にある教練所に通された。
十一娘は簡先生と座っていたが彼女の傍らには冬青だけではなくひとりの若い男が居た。
何故か十一娘は弱り切った表情で俯いている。
十一娘に労るように視線を注ぐ若い男からは彼女に対する恋慕がはっきりと見てとれた。
その二人の様子を見た途端令宣は胸の底から炎がつきあがるような狂おしさを覚えて荒々しい足取りで部屋に入った。
突然のことに四人とも驚いた顔つきで令宣を見た。
立った十一娘は眩暈を感じふらついたのを区彦行が支えた。
「十一娘、帰れ」令宣は静かだが断固として命じた。
今まで見た事がなかった令宣の怒りを初めて見て十一娘は恐れを感じ表情を強張らせて一歩下がってしまった。
区彦行は間に割って入った「彼女の気持ちを察してください」
「お前は誰だ?」
「十一娘さんの友達です。彼女はまだ帰りたくないのです。強要しないで下さい」
「何者だ」
臨波が教えた。
「彼が区家の次男・区彦行です」
臨波が男の名を告げた。
妻の隣に立つ男が・・なんだと・・
その正体は徐家の仇敵区家の次男だと!?
「妻に近付いて何をするつもりだ!区家はここまで卑怯な手を使うのか!?」
「十一娘さんとは何でもありません」
林公子こと区彦行が言い終わらぬうちに令宣は臨波の腰から刃を抜いていた。
瞬きする間もなく刃は彦行の首元に突き付けられていた。
「お前が妻の名を口にするな!」
十一娘は悲鳴を上げそうになった「旦那様!区公子はそんな人ではありません」
「区公子・・!お前は区家の人間だと知っていて付き合っているのか」
その時の令宣は平常の彼ではなかった。
目にも止まらぬ動きで刃を逆手に刀の柄を彦行のみぞおちに突き付けて胸倉を掴んでいた。
駄目だ!旦那様はすっかり普段の冷静さを失っている。
「止めて下さい!」
十一娘が叫んだが令宣の勢いは凄まじかった。掴まれた拍子に彦行は部屋の隅まで吹っ飛び棚の糸巻きが床に飛び散った。