福寿院の広間では大夫人と令宣が相対していた。
「・・・これが話の全貌だ」
夫人自ら事の起こりから全てのいきさつを令宣に話して聞かせた「十一娘は七出を犯した」
「令宣、どうするつもりだ?」
「母上はどう思われますか?」
「・・徐家は何百年も人の上に立ち人の尊敬を受け続けた。災難が起きても家訓を厳守しているからこそ今日の栄誉があるのだ。しかし十一娘は家訓を軽んじ婦人のあるべき品性に逆らった。我が徐家にそのような人間は許されない・・」
大夫人は一呼吸置いて令宣に目を合わせた「令宣、早めに離縁書を書いたほうがいい」
令宣は辛い決断を迫られて口ごもった「母上、これで離縁するのは少し軽率ではありませんか?」
「今になってもまだ十一娘を信じるのか?」今嫁の悪行を言い聞かせてやったと言うのに。
「愚か者・・愚かだよ・・証拠もないのに蓮房を誹謗して、十一娘が犯した罪は目の前にあると言うのにお前は見て見ないふりをするのか?」
令宣は俯いて言った「確かに十一娘は間違っています。しかしそれは私の躾にも問題がありました。母上どうか大目に見て下さい」
侍女が知らせた「大奥様、喬様が来られました」
「入って貰いなさい」

喬姨娘は夜分にも拘わらず化粧仕立てのような艶めいた顔で現れた。高価な紫の絹の衣装は夜目にも輝きを放っていた。俯き加減で入ってくるなり二人の前に膝をついた。

「蓮房や、何をするの?」
「旦那様が帰って来られたと伺い旦那様と大奥様に謝罪に参りました。・・今回の事は私が原因です。奥様に対する尊敬が足りないので疑われてしまいました。お家を騒がせたのは私です。申し訳ありません。旦那様、大奥様どうぞ私に罰をお与え下さいませ」
そう言うと平伏した。
「蓮房や!何をしているの?さ、早く立って!」
繍櫞がすかさず立ち上がらせる。
「蓮房や、理由もなく誹謗されて気の毒にな。しかしよく耐えたな。少しも恨んでいないのがとても嬉しいぞ・・お前は確かに昔愚かな事をした。しかしすぐに過ちを認めた。だから許されたのだ」
期待を込めて蓮房は令宣を見た。だが令宣は蓮房を見てはいなかった。
大夫人は尚も蓮房を慰めようと言った「蓮房や、今後令宣にはな、お前が必要だ」
蓮房は表向きの苦しげな顔とは裏腹に強烈な喜びで心がはち切れんばかりだった。
大夫人がお墨付きを下さったのだ。
ですから旦那様、私をご覧になって下さらなくては。
片方で、得意になっているのを見透かされたくなければ令宣を見てはいけないと理性が命じている。
だが誘惑には勝てずチラリと令宣に視線を向けてしまった。
期待は裏切られ令宣は頑なに蓮房と顔を合わそうとしない。
大夫人は令宣に言い聞かせた。
「令宣、十一娘の事を放っておけないのは分かる。しかし彼女はとんでもない間違いを犯したのだぞ。それでも彼女を庇うのなら徐家の家訓はただの飾り物になるのだ。よく考えなさい」
「母上、もう少し時間を下さい」
蓮房はあからさまに落胆した。
こうまで大夫人に説得されたのに何故まだ十一娘を庇うの?
私には視線ひとつ下さらないのに。
この私の何が不満だと言うの?
頭を下げて出て行く令宣の後ろ姿に向かって大夫人が命じた。
「令宣よ、祀堂に行っておくれ。先祖の教えと家訓を見なさい」
令宣は背中でその言葉を受けはしたが無言で出ていった。
蓮房の目は未練がましく令宣の後ろ姿を追っていた。
大夫人は蓮房のその切ない胸のうちを察してため息をついた。

焦り】
翌日、蓮房は思うようにならなかった成り行きを零していた「昨日二人は喧嘩別れをしたのにどうして旦那様はまだ十一娘を離縁しないの?・・」
繍櫞を問い詰めた。
「羅家のあの侍女は嘘をついてないわよね?」
あらかじめ羅家の下働きの侍女を大金で買収して見張らせていた。
「それはないと思います。羅家の他の人達も沢山見てましたから。話では旦那様は激怒してらしたとか。、、現に旦那様は一人で帰って来られたじゃありませんか」
「今私が心配してるのは旦那様がまたあの女を許してしまうんじゃないかって事よ」
繍櫞は主を何とか安心させようと苦心していた。
「喬様、ご安心下さい。明浄は既に都を出ていますし先夫人の事を調べようにも手懸かりはありませんよ。あの人はもう帰って来ることもないでしょう。いずれ離縁します」と断言してみせた。
それでも蓮房の憂いは取り去れなかった。
「夜長ければ夢多し・・安心は出来ないわ」
何故だか不安が拭い切れない。
「・・旦那様をもう一押ししないと」
蓮房は手にした薔薇をぐっと握りしめた。
旦那様の気持ちを十一娘から離したい。
そして暴かれぬよう証拠も徹底的に消さないと。

外では喬夫人が仲間の夫人連中を集めて仙綾閣の噂話に興じ、都で徐家と令宣夫人の評判を貶めることに成功していた。
その噂話は徐大夫人と親友にも届き大夫人の頭痛の種となった。

喬蓮房の元へ半月畔から慌ただしい知らせがあった。
買収してある侍女が急遽知らせて来た話では羅家から訪れた振興と令宣が十一娘を巡り喧嘩腰で言い合いを初め、令宣は振興に離縁書を持って帰れと叩きつけたと言うのだ。
「やったわ!」ついに念願が叶った。
令宣が実家の兄に離縁書を手渡したとなればもう間違いない。
蓮房は髪に手をやり撫で付けた。
「さ、半月畔に行きましょ」
繍櫞が蓮房のこんな晴々とした顔を見るのは久しぶりだ。

蓮房が急いで半月畔の入り口まで来てみると危うく振興と鉢合わせするところだった。
振興は一瞬蓮房を見たが、着物の袂に封書をしまうと険しい顔で足早に去っていった。
チラリと見えた封書には確かに離縁書と表書きがあった。
繍櫞はそれを見て小躍りしそうな位嬉しかった。
「喬様、やっと離縁しましたね!」
蓮房は感無量の面持ちで胸に手を当て呟いた。
「やっと・・やっとこの日が来たわ」

その後、令宣は蓮房の前で照影に西誇院の十一娘の道具をすべて運び出すよう命じた。

翌日早速、蓮房の母が徐家大夫人の元を訪れた。
「従姉上、この徐家は屋敷は広く人も多い大所帯・・切り盛りする者が居なくなればたちまち回らなくなります。この候爵夫人の座もずっと空けておくのもなんですし・・」
大夫人ははなからこの従妹が何を言いに来たのか見通していたので俯いて微笑した。
「うちの蓮房は・・従姉上もよくご存知の筈、喬家嫡女の身分といい令宣殿と釣り合いますし・・正室の座をそろそろお考え下さっても・・」
「言いたい事はわかっているよ。側女のままで居て貰うのは確かにあの子の身分には相応しくない・・だが側女を正室にするのは・・礼法に反する。これが世間に知れたら何を言われるか」
この徹底した身分制度では側女が正室に成り上がるのは禁じられていた。
側女がその座を狙って正室を追い落とすのは秩序の破壊。
公に秩序の破壊がまかり通ればやがては国家に争乱を生じさせるからだ。
「従姉上・・」落胆する従姉妹に大夫人は言い添えた「しかし」
「しかし、手がない訳ではない。将来蓮房が身重になったらその時我々が皇宮に行って陛下にお願いし貴人として恩典して貰えればまだ可能性はある。急がば回れ。ゆっくり進もう、な?」
「そうですそうです!その通りです!従姉上」
喬夫人は感激しきりで頷き返した。
「従姉上と話してやっと安心出来ました!」

すぐさま喬夫人は喬姨娘の部屋へ寄り今従姉から聞いてきた話を娘に伝えた。
蓮房は思わず立ち上がった。
「大奥様が、本当に!?」
「間違いなし!母上がお前を騙したことがある?」
「良かった!子を身篭ったら私の願いもやっと叶えられます!」
喜び回る蓮房を横目に喬夫人は少しだけ顔を引き締めた。
「しかしこの事は急がずに時間をかけてゆっくり考えないとね・、」
蓮房はやっと落ち着いて座った。
「母上、私にも分かっています。蓮房はゆっくり待てます。近頃旦那様も昔のように冷たくありませんから。実は先日諄様が乱暴したせいで転びました。でも旦那様は諄様を叱って私をここまで送って下さいました」
喬夫人は身をよじらんばかりに狂喜した。
「だから言ったじゃないの!候爵がうちの娘を好かない訳がないって!」
蓮房はウキウキとしていた「やはり、あの十一娘は最大の邪魔者だったわ。彼女を追い出したら旦那様の態度もすぐに変わりましたから・・待ち望んでいた日ももう遠くない」
「それなら早く子供を作らないと!」
「母上安心して!旦那様は今私しか見てらっしゃらないから。子を授かるのも時間の問題だわ・・暫くすれば私が永平候爵夫人になるのね!」
喬親娘は傍目も憚らず高らかに笑いあい周囲に嬌声が響いた。
暫し笑いあっていたが、喬夫人の笑いがふと止んだ。
その表情を見て蓮房の笑いも止む。
「だが、この数日羅家はどうやらまだ明浄の行方を捜しているらしいわ」
無論、羅家に潜入させた侍女の情報だ。
蓮房は真剣な顔つきに戻った。
「きっとあの羅十一娘はまだ諦めてはいないわ。母上、手配は万全ですか?」
「明浄は都から出したから問題は無いはずよ」
「母上、やはり少し心配です。誰かに確認しに行かせて下さい」
そして更に暗い目つきになって言った「出来れば・・もう永遠に帰って来られないように・・」
喬夫人は娘の真意を読み取った。
「分かったわ。人を手配して確認させる。羅家の見張りにも人手を増やすわ。何か動きがあったらこちらもすぐに対応できる・・お前は候爵夫人になるのをじっくり待てばいいのよ」
そう言って娘を安心させた。

夕方、花園では文姨娘と秦姨娘の二人がそぞろ歩いていた。
話題は専ら十一娘の離縁。
「旦那様はきっと奥様を連れて帰ると思っていたけれどね、まさか本当に離縁になるとはね・・奥様、あ、今は奥様じゃないわね。羅十一娘だったわ・・・所詮羅十一娘はただの庶女。もし彼女が羅家の嫡女なら話は変わってた筈。だから、ねえ今後はどうなると思う?」
秦姨娘は分かりつつもとぼけた「どうなる、とは?」
「喬姨娘が正室になる可能性よ?」
「礼法上ではありえないでしょう」
文姨娘は常識的な答えを聞きたいのではなかった。
「何故ありえないのよ?・・考えても見てよ。十一娘まで彼女に嵌められたのよ。あの女、何をやってもおかしくないわ。」
「今の話だとあれは全部喬姨娘の仕業という事ですか?」
文姨娘は立ち止まり秦姨娘を軽蔑の眼差しで見た。
「馬鹿なの?そんな事も分からなかったの?あの喬姨娘は十一娘を追い詰めたのよ。思い出してもみてよ。十一娘の偽妊娠の話を掴んで誹謗だとか死ぬだとか騒ぎ立てて、だから大奥様は十一娘を追い出したのよ。けれどよく考えて見れば十一娘が言った事もまんざら根拠のない話でもないわ。喬家と徐家は元々関係が深い。しかも大奥様はあれ程喬姨娘を気に入ってるから先妻が出て行ったら当然のように後妻に収まるはずだわ・・彼女がもしかして今後、、」
パアーン!「あっ!」派手な音が響いた。
そこまで言った途端文姨娘は肩を掴まれ平手打ちを受けていた。
鋭い痛みに頬を抑えた文姨娘は背後にきつい顔つきで立ちはだかる喬姨娘を認めた。
「今度変な事を言ったら承知しない。お前もこの屋敷から追い出してやる!」
蓮房の目つきは本気だった。
しかし文姨娘も負けてはいなかった。
「何様のつもり!」
「やめて!」秦姨娘がその腕を掴んで止めた。
「あんた!我々の立場はおんなじなのよ!順番で言ったら私に対して義姉上って呼ぶべきなのよ。自分に奥様に収まる資格があるとでも思ってるの?」
喬蓮房はまるでカエルに対する蛇のように睨み続けていた。
「信じないの?今に覚えているがいいわ」
(正室になったらお前などあの生意気な庶子と一緒に追い出してやる)
もう一度睨みを利かせると蓮房は頭をそびやかしつつ去っていった。