茂国公世子王煌は見苦しくも大勢の武士達の面前でひざまずき首元に刃を突きつけられていた。

手前には衛国公が仁王立ちして王煌を蔑んだ目で睨みつけていた。

王から離れた場所には一人の美しい女が立っている。王が追ってきた蓮頌だった。


蓮頌は王煌をさも汚らわしい物でも見るような目付きで見下ろしていた。

王は区励行と共に天香楼に現れて以来、連日のように蓮頌を追いかけ回し、周りから遮られるや狼藉を働いて酒楼でも鼻つまみ者として排除されていた。

王は男衆に追い出されると天香楼の周りを彷徨き蓮頌が出てくるのを待ち伏せするようになっていた。

義父が都から連れ出してくれなければこの身は今頃どうなっていたか分からない。

そうとは知らず蓮頌を追ってきた王煌は侍衛に捕らえられ、激怒した衛国公の手にかかりあの世へ送られようとしていた。

まさにその時、後方の林より蹄の音が鳴り響き令宣と臨波が現れた。令宣が叫ぶ「お待ち下さい!」
二人が馬を降りて駆け寄って来る。
「衛国公!」
令宣を見たワンは地獄で仏を見たような顔つきになった。何がどうなったのか分からんが自分を助けに来てくれたと。
「徐令宣、ここまで来て私を説得するつもりなのか?」
王が哀れな声を出した「え、永平候爵、助けて下さい!殺されます」
令宣は王に冷たい視線を投げたあと、衛国公を宥めた「公爵、落ち着いて下さい」
「そうだそうだ、私を殺さないで」
「黙れ!こやつは私の義娘を攫おうとしていたのだ。白昼堂々と女性を誘拐するような奴を殺して何が悪いのだ?」
「衛国公、変だとは思われませんか?」
「変? こやつはずっと付け狙っておったのだ。何が変なのだ?」
「王煌・・これは確かに不埒な人間ですが、所詮弱者を苦しめ強者に媚びる愚かな奴です。誰かに唆されなかったらまさか国公の養女に手を出す筈がありません」
王が震えて吃りながら口を出した「そそそそそ、そうです・・ここ国公殿のよよ養女だと事前に知っていたら死んでもこんな真似はしません!・・そそ、そうだ区さん!いや違う区励行!彼に唆されたんだ!」
衛国公がじろっと王に視線を向けた。
この場に似つかわしくない蓮頌の愛らしい声が割って入った「そういえば、あの日確かにもう一人の公子が同行していました」
「区励行・・」衛国公が疑いを持ち始めた。
「私の義娘を侮辱した真犯人があいつだと?」
親友胡進を死に至らしめた区家だ。
「まさか海禁の件で私と君を対立させようと?」
「さすが国公。そのまさかです。シギと蛤が相争う漁夫の利。国公殿、どうかご諒察下さい」
「汚い真似をして・・私の義娘にまで手を出すとは」
衛国公は護衛に刃を向けられたままのワンに命じた「失せろ!」
王はヘコヘコと頭を下げながらヨタヨタ臨波の後ろに隠れた。
「ありがとうございます」令宣が一礼し感謝を表す。危機は去った。
三人はその場を離れ去った。
「お義父様、これで良いのですか?」
気の強い蓮頌が疑問を口にした。
あんな卑劣な男を簡単に赦して良いのかと。
衛国公はそれには答えぬまま遠ざかってゆく令宣の後ろ姿をじっと見ていた。

「助けて頂きありがとうございます」林の中を進みながら王は令宣に向かいやはりヘコヘコと礼を言った。
「今の話を聞いていたか?区家とは距離をとったほうがいい」
「区励行ですか?しかし、彼はどうして私を害さなければいけないのですか?そんな訳ありませんよ」
令宣は歩みを止め溜め息をついて言った「もし今日君がこのまま死んだら、私が国公を責めなくとも心にしこりが出来てしまう。朝廷の勢力にも必ず影響がある。その時に区家の狙いが達成されるのだ。君が言う区さんとやらが君の墓参りに行くと思うか?」
「だからか・・身分も違うのにあれ程親切なのは企みを持っていたからなんですね!」
「最後に警告しておくが蓮頌は国公の義理の娘だ」
「徐殿!わかりました!わかりました!もう二度としません」
馬の方へ行きかけた令宣が振り返った。
「義姉の傷は君がやったものだな?」
王は神妙そうにへっぴり腰で近づいてきた「徐殿、本当に一回か二回だけなんです。力づくではありません」
「男として家族の模範になるべきだ。婦女に暴力を振るうのは君子ではない」
令宣は厳しい顔つきで警告すると身を翻して馬上の人となった。
「徐殿の言う通りです。二度と妻に手をあげません」
畏まっているうちに令宣と臨波の二人は一鞭打つとあっと言う間に疾走していった。
後に残された王はポカンとしていたが、ふと帰りの馬がない事に気づいた。
「嗚呼っ!!徐殿!私にも馬を貸して下さいーーーっ」
その声はもう令宣には届かなかった。

【羅家】
羅家の大婦人は長男振興と嫁を目の前にして頭を抱えて盛大な溜め息をついていた。
徐家に送り込んだ十一娘が戻されたからである。あれ程言い聞かせたのにこの体たらく。離縁されたら諄はどうなるのだ!
正直十一娘はどうなろうと良いが諄があの徐家で世子の座を奪われ蔑ろにされるかも知れないと思うと気が狂いそうになる。
十一娘が失脚した後、令宣の正妻を選ぶのは間違いなくあの姑の徐家大夫人。
そうなればあの悪巧みに長ける喬姨娘が何としてもその座に就くだろう。
そしてあの喬姨娘は我が子を永平候爵世子にする為ならば諄を毒殺するくらい朝飯前だ。
あの日十一娘を誘拐した巧妙な手口から推し量ってもあの女なら眉ひとつ動かさずやってのけるだろう。
現に陶乳母からの報告によれば先日諄を苦しめた皮膚病はあの女の持ち込んだ犬から感染されたと言うではないか!
それを考えると震えが起きてくる。
兄は義妹思いで十一娘を庇った「母上、こうなったのも十一妹にもそれなりの理由があると思います。先程の叱責はどれ程辛いものか・・」
「これ程の事を起こしておいてあの子に配慮する気か?もし本当に離縁されたら私の可哀相な諄はどうなるの?十一娘を甘く見ていたわ。まさかこんな事をしでかすとは」
「母上、怒らないで下さい。お身体に悪いです。まだお身体の具合が悪いのにこれ以上怒ったらますます体に障ります」
嫁も言葉を添えた。今し方の怒り方なら脳卒中でも起こしかねない「義母上、きっと何かの誤解があると思います。徐殿が帰られたらきっと十一妹を迎えに来ますよ」
「そうです、母上。十一妹も軽率な人間ではないから何か深い理由があるはずです。徐殿も情理の通じる方だ。十一妹を放っておく筈ありませんよ」
「そう願うほかないな・・」
息子達の説得に一旦気持ちの矛先を収めるほかないのだった。

【十一娘の部屋】
萬大顕を探しに行かせた琥珀が帰って来た「奥様、萬大顕はずっと明浄を捜していますがまだ見つからないようです」
「明浄は重要な証人。諦めずに引き続き捜索させて。喬蓮房が気付いたからにはあらゆる手段で逃がす筈。恐らくもう城外へ出てるかも」
冬青が心配した「もし見つからなかったらどうしよう・・私達の潔白はどう証明すればいいんですか?」
「今心配しているのは明浄を見つけても証言に喬蓮房を示す根拠がなく罪に問えないことね。それに共犯者同士でもある。仮に喬蓮房の罪状を吐いても彼も同罪になるでしょ?」
冬青が落ち着きのない様子になったのを見て琥珀が慰めた「冬青、落ち着いて。まだ旦那様がいるわ。旦那様ならきっと奥様の事を信じて下さいます」
冬青が打って変わって元気な声をだした。
「そうよ!旦那様がいるわ!旦那様が帰って来たらすべてが上手く行きます!」

「兄上」十一娘が立ち上がった。先程兄を呼んでおいた。
「十一妹、私に用が?」
「兄上、実は兄上に協力して頂きたい事があります」
「必要なら何なりと言うが良い。何があっても私はお前の兄だからな」
「兄上もご存知かと思いますが今仙綾閣が大変な危機に陥っています。喬家が仙綾閣に人を紛れ込ませて先生に汚名を着せて職人達を扇動しました。けれどその後その女は行方不明です。その女を探して欲しいのです」
兄は妹の頼みに頷いた。
「だが、喬蓮房の仕業だと確信したのに何故候爵の帰りを待って彼に直接言わない?」
「言うべき事はすべて徐家で言いました。後は旦那様が信じるかどうかです」

「ジャっ!」帰路についていた令宣は鞭を使い馬を急がせていた。
「ジャっ」臨波が少し遅れて着いてくる。
「臨波!早くついて来い」令宣は尚も馬を早めようとしていた。
「候爵、こんなに急がせるのは・・奥様が恋しいからですか?」息を弾ませた臨波がからかった。
「馬鹿を言うな、早く」手綱を引いて馬身を翻しながら令宣は笑みをもらした。

二頭の馬が徐家の門をくぐった時、照影が転がるように走り出て来た。
「旦那様、やっと帰って来られました!」駆け寄ってきたその顔は青ざめていた「旦那様!大変な事になりました・・」
令宣の馬の轡を握った照影が主の顔をまともに見ながら訴えた「大奥様が奥様を羅家に戻しました!」
「何があった」
「大奥様が偽の妊娠の事で奥様を責めて、しかも奥様が難民を騙して騒ぎを起こしたと言うんです。侍女達の話だと奥様は大奥様に口答えして、喬様も自殺するところだったと。旦那様、ご明察下さい!奥様がそんな事をする筈がありませんよね」
馬上で聴いていた臨波が躊躇なく答えた「奥様は優しい方です。それは流石にありえません」
この徐家から彼女が居なくなった・・。今は一瞬でも早く彼女に会わなければと令宣の心は逸った。彼女の顔を見なければ安心出来ない。
令宣は馬上から降りる事なく馬身を翻すとそのまま羅家へと向かった。
臨波も従って行った。

羅家の令宣と十一娘】
羅家に到着した令宣は早速十一娘の部屋に通った。
「旦那様」冬青と琥珀は頭を下げ部屋を出て行った。
冬青は急に元気になってはしゃいだ。
「良かった!きっと奥様を迎えにいらっしゃると思ったよ」琥珀が答える「これで私達も安心出来るわ」二人で顔を見合わせて喜びあった。「これで喬蓮房も終わりよね!」冬青が得意気になって言ったが琥珀が周囲を見回して慎重に戒めた「冬青気をつけて。聞かれたらまずいわ」
その時二人の後ろを屋敷の若い下働き二名が通り過ぎた。
廊下を十一娘の部屋の前まで進むと歩みを止めた。
部屋の中から突然大声が聞こえて来たからだ。
「蓮房を誹謗なんかしていません!確かに私にはまだ証拠がありません。でも姉上の死はきっと彼女が関係しています!彼女が動じないのもきっとこちらの動きに気付いたからです」
「だからお前は妊娠と偽ってわざと私と母上を騙したのか?」
「それは確かに私が悪いのです。しかし姉上の事は全部事実です。旦那様がお調べになればいいんです。旦那様が調べればきっと真相に辿り着く筈です」
「疑っていたなら私に相談すればいいものを、どうして物事を決めつけて事態を悪化させるんだ」
「旦那様!証拠もなしに話して義母上は信じてくれますか?旦那様は信じてくれますか?!」
扉の外まで聞こえてくる十一娘のまくし立てる声に冬青も琥珀もうろたえた。
こんなに感情的になる奥様は初めて見た。奥様はしっかりしていていつも沈着冷静な方なのに。
今までだって喧嘩をしても常に旦那様は奥様を信じてくれていたのに。
扉の近くで下働き二人がまだじっと耳をそばだてている。
冬青が咄嗟に叱って言った「何をしてるの?早く仕事に戻って!」叱られて二人は柱の向こうへと消えた。

その時、扉が開いて難い表情の令宣が出て来た。
「旦那様!」後ろから十一娘が呼び掛ける。
令宣は少ししかめた顔を声の主の方へ一瞬向けかたと思うとすぐにそのまま振りかえらず行ってしまった。
冬青の呆気に取られた声がした「旦那様・・」
思いもよらない令宣の態度に冬青は驚いて尋ねた「奥様、旦那様は?」
「旦那様は信じてくれない。しかも私を責めたわ・・」
十一娘はそう言うとふいっと俯いて部屋へ戻ってしまった。
「奥様・・それはないよ。旦那様に信じて貰えないんなら誰が信じてくれるって言うの」
「冬青、それは言わないで。旦那様は今は怒っているけれど落ち着いたらまた迎えに来てくれるわよ。行こう」
冬青は膨れっ面をした「あの様子じゃ帰ってきっこないよ!」
「もういいから・・」
柱の影からその様子を覗き見ていた下働き二人は互いの顔を見合わせて頷くのだった。