[大夫人の変化]
この日は令宣の公務が休みにあたるので朝参には行かず、十一娘と朝食を済ませると二人揃って福寿院へ挨拶に向かった。
福寿院の広間には丹陽県主、それに日参している喬姨娘が来ていた。
「令宣、昨夜は随分と酔っていたらしいな。心配したぞ」
令宣はこの後何を言われるのかちょっと構えたが心配無用だった。
「今朝は元気だな。十一娘のお陰だ」十一娘は目を丸くした。
「夫婦で仲良くしていれば安心出来るわ」
令宣も言い添えた「十一娘は気が利くのでご安心下さい」
大夫人は尚も続けた「最近家事を十一娘に任せたが良く出来ている。私には分かっているよ。ご苦労さん」
「とんでもありません。普通の事をしているだけです」
丹陽も大夫人に同調した。
「良く出来ているのは誰が見ても分かります。四義姉上は謙遜のし過ぎです」
丹陽県主はちらっと横目で喬姨娘を見た。
喬蓮房はつまらない顔でただぽつねんと坐っていた。
大夫人の不興を買ったばかりなので今は大人しくしている他ない。
「おお、そうだ。この間の手巾好きだわ。あんな綺麗な刺繍初めて見たわ。きっと工夫したのね」
「気にいって頂けて光栄です。宜しければ服もお作りします」
「いいねいいね!嬉しいわ!」
母の喜ぶ様子に令宣も言い添えた「では、母上の為に良い生地を買って来て貰います」
大夫人は親孝行な息子に満足そうだった。

[破れた窓]
半月冸に戻って来た令宣は照影を呼んだ「照影」
「はい旦那様、ご用命を」
「窓が破れた。直して貰おう」
「え?」照影はきょとんとした。窓は何処もかしこも完璧だ。破れていればすぐに気がつく筈だ。
「どの窓でしょうか?旦那様」
「破れたと言っている」
窓に近寄って改めて見回してみても何処にも破れた形跡はない。
令宣に振り向いた。
「旦那様、破れてませんよ」
令宣は手近なところにあった湯呑みを一つ手に取ると思い切り窓に向かって投げた。
カッシャーン!・・窓の張生地を突き破り茶碗が落ちて割れる音がした。
「破れたか?」
「・・はい、破れました・・」

十一娘達が西跨院にいると、令宣と照影が入って来た。
照影は布団一式を担いでいる。
令宣が照影に指図した「寝台に置いてくれ」
「旦那様、これは・・」
「半月冸の窓が破れた。修理が終わるまでここに泊まる」
十一娘にとっては寝耳に水の話だ。
「破れた?・・どうやって?」
令宣は照影を振り返った「あ~、どうやって破れたんだ?」
照影が気の利いた答えをした。
「あ、私が破りました。結構破れているので二~三日ではなく二週間くらい掛かります」
十一娘は完全に戸惑っていたが、後ろで琥珀と冬青はクスクス笑っている。
令宣は照影を下がらせたので、琥珀や冬青まで出ていった。
十一娘は食い下がった「半月冸の窓が破れて休めない。・・では他の部屋もあるのでは?」
「もともと西跨院は本院だ。此処に住んで何が悪い?」
そして「妻の所に来るのは当たり前だ」と畳みかけられた。
そう言われては返す言葉もない。

令宣は照影が寝台に置いていった布団を抱えると寝台と向かい合わせの位置にある暖閣のほうへ運んだ。
「私は暖閣で寝る」
「それはいけません。私が暖閣で寝ます」
「戦では床に寝る事もしょっちゅうだ。慣れている。お前は違う、寝台で寝ろ」
二人が暖閣へ布団を敷いていると二人の手が触れ合った。令宣の手が十一娘の手にそっと重なる。彼の顔が口づけするように近づいて来たが十一娘は避けてしまった。
令宣はそれを気にする様子がない。
「今までは私が悪かった」突然の彼の言葉に十一娘は戸惑った。
「いいえ、旦那様は優しくして下さっています」
「これからはもう辛い思いをさせない」
この上なく優しい言葉をかけられて十一娘はどうすれば良いのか分からなかった。

夜、十一娘は寝台に横たわっているものの令宣が向こうで寝ていると思うと心休まらなかった。
彼もまだ眠ってはいないのが分かる。こっちに来たらどうしよう。彼を拒む理由がないのが困る。
目は冴え冴えとし、絹の夏掛け布団を首元まで固く引き寄せていた。
令宣も令宣で眠れず半身を起こして暖閣に置いてあった十一娘の本を手に取った。
十一娘が寝返りを打って令宣の方を見ると「煩かったか?」と聞いた。
「・・いいえ、寝ていませんでした」
彼はもう完全に起き上がって暖閣に座ってこちらを向いている。
「これは?・・水経注を読んでるのか?」
(注;水経注=文体的に優れた中国地理歴史書・注解書、全40巻)
十一娘も半身を起こした。
「退屈凌ぎです・・載っている民謡や御伽話を読んでいるだけです。機会があればきっと・・」
十一娘は心臓が撥ねた。令宣が立ってこちらへ近づいて来たからである。
「きっと?何だ?」令宣が尋ね返した。
「この国の風景をあちこち見て回りたいんです」
令宣は少し沈黙の後言った。
「私と同じ考えだ・・」
(妻と黄河、揚子江、絶景を回ってみる。いい考えだ)
「もう遅い、早く休もう」
十一娘が再び布団を掴んで首元まで引き寄せると、彼は十一娘の腕をとって布団の中に入れてくれた「ちゃんと掛けて」
十一娘は気遣かってくれる令宣に又もや気持ちが乱された。
暖閣で令宣が眠りにつくと、また昨夜のようにうなされて譫言が聴こえて来た「逃げろ!早く」
「また悪夢なの?」十一娘は起きて令宣に近づいた。
こんな彼を見るのは心苦しい。
彼をいつも苦しめている悪夢とはどのようなものなのだろうか。

翌日、臨波と出会ったのでいい機会だと思って尋ねてみる事にした。
「傳殿の武術の腕前は相当なものだと聞きます。いつから武術の鍛練を始めたんですか?」
「昔、大旦那様が四旦那様の身体を鍛える為に武術を指南して下さったんです。その当時私も徐家に住んでましたので一緒に習いました」
「昔?では、旦那様に従って長いですね。きっと旦那様の事には詳しいんでしょうね」
臨波の父は徐家当主の部下だった。
臨波は胸を張った「私は母を早くに亡くし子供の頃から四旦那様に従ってきました。大奥様も私を実の子供のように扱って下さって、四旦那様と一緒に武術を習い、一緒に軍隊に入りました。だから旦那様の事なら何でも知っています」
「旦那様はいつも悪夢を見ています・・夢は思いの表れ、、でも旦那様は我慢強い人だから何も仰らない。一体何があったんでしょう」
「まだ過去を引きずっているんだと思います」
「過去を引きずる・・?」
「昔、大旦那様と世子様が区家に陥れられて戦で命を落としました。私もあの時父を亡くしました。あの戦は戦死者が多くほぼ全滅でした。・・大旦那様が亡くなった後、区家から追い詰められて徐家は一時一家離散になりました。更に靖遠候爵が追い詰めてくるので旦那様は私を連れて軍隊に入りました。一兵卒から始めて一歩一歩登りました。旦那様は徐家の栄誉の為何度も命を顧みないで敵を討ったんです。」
「ある日、上官からたった十数名で奇襲をかけろと命じられました。私は徐殿に狂った命令だと反対しました。けれど徐殿は徐家全員の命は私にかかっていると言って果敢に作戦を遂行しました。区家の罠をどうやって証明するのだ。功を立てないと徐家はもうやり直せないのだと言って。」
「徐将軍は沢山の苦痛を耐えて来ましたが、誰にも言わないです、。段々と冷たく薄情な人だと見られるようになりました。ですがそれは徐家と彼自身を守っていく為です」
「旦那様のあの性格はそのせいだったんですね」
「でも昔は違いましたよ。・・大旦那様がご健在の時はよく遊んで笑って蹴球もやって、都の貴公子と何ら変わりませんでしたよ。」
「そんな旦那様・・・想像もつかないわ」十一娘は笑った。

夜、十一娘は西跨院で一人で想いに耽っていた。
昼間の臨波の話で少しづつ令宣の姿が見えてきたように思ったのだ。
臨波の言葉が脳裏に甦る。
「旦那様は苦痛を耐えて来たが全てを心の底に隠しました。段々と冷たさが鎧に、薄情さが武器になりました」
令宣が背負ってきた苦痛と孤独は計り知れない。
彼がその苦痛を一人で耐えなくても済むように・・悪夢を見ないようにしてあげられたら・・。

その彼の声がした。
「まだ起きていたのか」
「旦那様、お帰りなさい」
「汁ものを用意しました。これで身体を温めて下さい」
十一娘が汁をよそって令宣に渡そうとすると急に令宣は顔をしかめた「今日、剣の稽古で腕を痛めた。力が入らないから少し手伝ってくれないか」
(椀も持てないほどだと言うの?)
十一娘はちょっと令宣を睨んだ。
「嘘ついてるでしょ」
「本当だ」
「では薬をとってきます」と行きかけたら令宣に腕をがっちりと掴まれた。
相当力がこもっている。
嘘がバレた時の悪戯っ子のような目で見ている令宣に呆れた。
「汁物を呑みますか?」
「うん」
旦那様は子供だ。

「簡先生、生徒さん達随分腕を上げましたね」
「ええ、新しい図案も増えたし・・最近はどう?貴女の顔色が良くなったわ。徐家で思い通りに暮らせてるの?」
「はい、お義母様の態度が随分変わりました。それに・・旦那様とも仲良くしています」
簡先生の顔が綻んだ「そうよ、人には自然な人間らしい情というものがあるのよ。あなたが真心で接すればきっと報われるわ」
「先生、母の件で手がかりがありました」
「どうしたの?聞かせて」
「先日、区家の若奥様の袖に例の刺繍と酷似しているものを見つけました」
「区若奥様・・また区家と関わっているの?」
「よく分からないのですが・・微かな希望でも探してみたいんです」
「一体どうやって調べるの?」
「軽率に目立つ動きをすると区家に警戒されます・・簡先生は区家に呼ばれているんですよね・・」
「まさか・・」
簡先生は彼女のやろうとしている事に察しがついた。