「奥様~」
「どうしたの!?」
十一娘は酔っ払って正体のない令宣を初めて見て度肝を抜かれた。
臨波が説明した。
「同僚達とお酒を飲み過ぎてこうなってますが、寝たら治りますから」
「どうして此処へ?」
二人の魂胆が分かり冬青と琥珀はにやにやしている。
「旦那様は泥酔してますし奥様にお世話をお願いします!では、お先に失礼します」
そういうと、十一娘に令宣の身体を押し付けて二人は逃げて行った。
自分より遥かに体格の良い令宣を一人で支えろと?
「あ、私はお湯を」「私、薪割りしてきます」
臨波と照影の二人だけではなく冬青と琥珀までなんだかだと言いながら出て行ってしまった。
「ちょ!・・旦那様?・・旦那様、わたし・、」
「寝台~・・」
「は?」
「あそこに連れてけ~」
「はぁ?」

出て行った四人は外から様子を伺っていたが、、
琥珀は本当にお湯を沸かしに行き、照影は旦那様の着替えを取りに行ってきます、と走って行った。
残った臨波は扉の内側に興味津々で障子に耳を当てている。
「なんなんですか?傳殿」
「し!声が大きい」
「帰らないんですか」
「せっかくなのに知りたくないのか?」
冬青は説教した。
「ご主人のやることに興味を持ってはいけません」
言われても臨波は無視してまだ中を探っている。

「はいはい」
十一娘はやっとの思いで令宣を寝台に寝かせた。
「喉が渇いた~」
「水~」
「はいはい」
水を飲ませると今度は
「お茶が飲みたい~」
茶を汲んでやり「はい来ましたよ~」と飲ませると
酔っているくせにしかめ面をして「煎れたての龍井茶がいい~」と我が儘を言う。
冬青に煎れて来させるしかない。
「はいはい、ちゃんとお布団被ってね」

「音がしないな・・」臨波が呟く。
好奇心に負け、結局臨波と一緒に中の様子を探っていた冬青は突然目の前の扉が開いて十一娘の顔が現れたので非常に罰の悪い思いをした。
「龍井茶を煎れて来て」
「はい」
中から令宣の「龍井茶~」という声が聞こえる。
まだつっ立っていた臨波も十一娘に睨まれて退散するはめになった。
「どこ行った~」
「煎れたての龍井茶~、早く~!」
暫くして茶を持って来て飲ませた。
「熱いっ!」
「煎れたてがいいんでしょ?フーフーするね」
言う間も与えず抱き寄せられた。酔っ払いは力が強い。
「旦那様!」文句を言うと「煩い!」と言われた。
泣く子と酔っ払いには勝てない。
仕方ないのでそのままの格好で「はいはい、寝ようね」とトントンしてやると、次第に彼の腕の力が抜けて行った。
やっと寝たようだ。再び上掛けを着せかけてやる。
十一娘は令宣の寝顔に語りかけた。
「普段より可愛いね」

[嫡女と庶女]
珍しく大夫人は夜になってから杜乳母と福寿院を出た。
「大奥様、今から喬様のところへ行くのは遅すぎませんか?」
「遅くない。今日中山候爵家で都の世家に十一娘を正式に紹介した。蓮房はきっと不機嫌だろうから慰めに行ってやらないとな」
「大奥様大丈夫です。喬様は大局に気を配る方ですからきっと分かってくれます」
「そうだといいな・・」

喬姨娘は三日前からずっと不機嫌だった。今日大夫人が十一娘を連れて本当に中山候爵家へ向かったので蓮房の嫉み恨みは最高潮に達した。
食事にも手を付けないので繍櫞が気をもんで薬を運んで来た「姨娘、近頃よく眠っておられないので安眠薬を飲んで下さい」
喬姨娘は怒りに任せて卓上の飯椀を手で払いのけた。陶器が床に飛び散って高い音をたてた。
恨みと怒りで肩を震わせ蓮房は立ち上がって叫んだ。
「あの十一娘は何者なの?、大夫人と宴席に行くなんて!私が行くべきよ!彼女はただの卑しい庶女だ!」

入口から突然、大夫人の声がした。
「いくら出身が卑しくとも・・」
破片の散らばった部屋に大夫人が足を踏み入れた。
「今は永平候爵夫人だ」
「・・・大夫人・・!」
まさかの大夫人の来訪に喬姨娘は腰が抜けて床へと崩れ落ちた。
険しかったその顔は空気の抜けた風船のような泣き顔へと変わった。

「道理を弁えた子だと思っていたがな・・まさかそんな陰口を言うとは。今まで知らなかった・・」
大夫人の顔には今まで蓮房が見たことのない表情が浮かんで居た。
どんな取り繕いや言い訳も今の言葉を聞かれた後では通用しないだろう。蓮房の顔も絶望に歪んでいた。
「お・・大夫人、蓮房が悪いです!つい、憤りで喋ってしまいました・・大夫人・・蓮房をお許し下さい」
「いくら悔しくても・・尊卑先後の序くらい分かっているな?徐家に嫁いだその日から分かっている筈だ」
令宣はこの蓮房に然るべき夫を選んでやるとまで提案したのにそれを拒んで妾になったのは蓮房自身なのだから。
「大夫人・・蓮房は間違えました・・今後は自分の身分を認識して大夫人に心配をかけないようにします・・うう、怒らないでください・・許してください・・」
喬蓮房は大夫人の膝に手を置き子供のように揺らして泣いて訴えた。
(この蓮房を甘やかし過ぎたな)
膝に置かれた蓮房の手を一旦は外して大夫人は叱責した。
「令宣に仕える事こそが本分だ・・それ以外の事はもう考えるな・・」
大夫人の声は力なく失望にみちたものだった。
蓮房は手を外されても尚も膝にとりすがって泣いた「ううう・・旦那様にちゃんとお仕えします。大夫人に心配をかけないようにします」

福寿院へと帰って来た大夫人は力が抜けてふらつき杜乳母に支えられた。
今の今まで蓮房を幼子のように純粋な娘だと信じていた。
悪しざまに他人の陰口を叩いている姿など見た事が無かった。
「蓮房という子は・・温厚で善良な・・そんな子だと思っていた。・・まさか自分の耳で聞かなかったらあの子にこんな一面があるとは分からなかったな」
「大夫人・・あまり気に病まないで下さい。喬様が悔しいのも分かります。さっきの言葉も鬱憤を晴らしただけでしょう」
「こうして見ると・・十一娘は誠実で善良、聡明でいい子だ。私の間違いだった。嫡出子とか庶子とか・・出身より本心が一番だ」

「大奥様は何故突然来られたんでしょう?」繍櫞には喬姨娘を慰める言葉がなかった。
「喬様、どうしたらいいんでしょうか?」
「諄様の病気から、米の件、そして誡様の件・・大夫人はもう昔のように私を信頼していない・、さっきのを聞かれて私の事をどう思ったかしらね?」
「大奥様の信頼を失ったら今後は難しいでしょうね・・喬様、今後は大人しくするべきです」
だがここに至っても喬蓮房には負けを認めるという選択肢はなかった。
「このまま諦めたら私は終わりだわ。座して死を待つ訳には行かない」

令宣はうなされていた。いつもの悪夢が襲って来る。
父と二兄が区家の策謀により戦死し、徐家全体が連帯責任を問われて逮捕され投獄された夜の恐怖心はいつまでも脳裏から消える事なく令宣を夢の中まで追って来る。
「逃げろ!」怯えた声で寝台で悶え出す。
「旦那様、どうしました」
十一娘は灯の下で読書をしていたが本を置いて寝台へ駆け寄った。
「旦那様、大丈夫ですよ・・また悪夢を見ているのね」
苦しんで眉をしかめた令宣の額を優しく撫でて和らげる。
「普段、厳しい顔をしているのに・・こんな怖がりな一面があるなんて・・」
こんな彼は可哀相でたまらなくなる。どんなに怖い体験をしたでしょう。私が付いているから・・としかめた額をひたすら撫でてあげる。
「逃げろ!」令宣は口走って胸の十一娘の手を握りしめた。
十一娘は握られた手を握り返して彼を見守っているうちにうつらうつらとしやがてそのまま眠ってしまった。

真夜中、令宣は喉の乾きを覚えて目を覚ました。頭は重いし昨日は飲み過ぎたな・・と思う。やっとここは半月冸の自分の寝台ではない事に気がついた。自分の手を誰かが握ってくれている。
彼の手を包み込んでくれているのは十一娘だった。
彼女は令宣の手を離さず寝台にもたれかかって坐ったまま眠っている。
酔っ払った自分を介抱してこんな辛い姿勢で寝てしまったのだろう。可哀相な事をしてしまった。
令宣は起き上がると彼女をそっと抱き上げ寝台に寝かせた。十一娘は目を覚ます事もなくすやすやと眠っている。
その寝顔を見つめていた彼は自然と微笑んでいた。
愛しさが溢れて彼女の額に口づけをする。
幸福な気分が内から満ちて来るようだった。
月はまだ中空にあった。

明くる朝、
十一娘の瞳がゆっくり開き、ぼやけた視界に飛び込んで来たのはいたずらっぽく微笑んでいる令宣の顔だった。
彼女は衝撃を受けて飛び起き、自分の着衣を改めた。まさか自分から彼の横に入ったとか?
「え!?・・へ?寝台の横に居たのに・・」
「忘れたのか?」
「何かありました?」
「ごまかしたいのか?」
服はちゃんと着たままだし?
「え?あっ?・・は、わ、私・・何か失礼な事があったら」
いつも落ち着き払っている彼女がうろたえている姿が面白かった。
「旦那様」
「冗談だ」
令宣にからかわれているのがやっと分かって十一娘は暫く寝台の上で悔しがるはめになった。